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世界を旅するというアインに対して、ヴォルター・K・グインは、3現主義の考え方を説いた。
「いいか、アイン。重要なのは、面倒でも現場に足を運ぶことだ。現物を5感で感じ、本当は何が起こっているのか、机上だけでは気づけない現実を知ることが大事なのだ」
グインは目を細めて咥えタバコをふかした。
彼がアインに伝えたかったのは、人が物事を自分で確かめずに、つい勝手な推察や憶測を元に机上で判断してしまいがちな生き物であることだ。
「俺もそうだ。下手に知識を溜め込んだために、推察で物事を判断している。だがそれで、本質的な問題が解決出来るだろうか」
この時、ヴォルター・K・グインは32歳。成功と失敗を重ねて、政治の世界を生きてきた。例えばアインを若者と侮り、国民投票で接戦を演じたことも、失敗のうちだろう。
だからこそ言える。
「お前が考える以上に、この世界は多くの問題を抱えている。他国との間には、1ミリの壁もない。それにも関わらず、かつてあったどんな壁よりも高い壁が、人々の前に立ちはだかっているのだ」
グインは壁に飾られた古地図を見た。
「国境。これは2000年前、バラバラになった世界で、《境界のない世界》を受け入れられなかった人々が集まり、つくりあげた枠組みだ。世界を自分の手が届くものにダウンサイズしようとした結果だ。よく見てくることだ。時間のあるうちに」
——こうしてグインの計らいもあり、アインはマタリカ大陸へ渡ることができた。
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西暦4241年11月9日。後に奇跡の軌跡と呼ばれる10年間の始まりであった。
メルッショルドの港町に降り立ったアインは、日差しの強さに辟易しながら、どこまでも広がる砂浜と、青空を見上げていた。
このメルッショルドは、世界の海運を握り、物流の中心になることで富を築く、資本主義の国であった。
自国通貨をいくらでも発行できる仕組みは、2000年前、世界とともに破滅し、金本位制の小さな資本主義が展開されていた。つまり金が金を生むのは難しい時代になっている。けれど人々は手の届く範囲で逞しく商売を行い、「我々が経済を回しているのだ」と実感を持っている。港には活気が満ちていた。
アインがリングリット・ラインカーネーションと出会ったのは、この砂浜だ。
「ねえ、そこのあなた。そう、あなた。ほんっとうに勿体ないなー。私にまかせてくれたら、もっと素敵になれるよ、うん、してみせるっ」
彼女はポンと目の前の椅子を叩いた。オースティアの動乱で、2ヶ月間、髪を切る余裕もなかったアインは、前髪を引っ張って長さを確かめると、椅子に深々と座った。まずは情報収集も悪くない。
「え? 君のおばあちゃん、サイドランドの公卿なの? 嘘でしょ?」
アインの素っ頓狂な声に、リングリットは後ろで2つ結んだ髪をはずませて笑った。
エレメンシア大陸サイドランドは、5人の公卿が治めている国だ。リングリットは、この5人の公卿の1人、ラインカーネーション左大臣の孫娘にあたる。
「あ、でも全然。おばあちゃんのことは好きだけど、私は私、関係ないよ。ほら、今もみんなの髪の毛を切らせてもらって、ようやくアルテリアまでの旅費をいただけてる状態だから」
メルッショルドで、サイドランドの公卿の娘が理髪店を営んでいる。
〈グインさん、意外と世の中、近いですよ〉
アインは時に冗談を交え、答えていて楽しい質問をリングリットに投げかけた。
「絶対に失敗しないならやってみたいことは?」と想像をかきたてることもあれば、「美容師になるきっかけ」を尋ねることもあった。
リングリットは、豊かな表情を交えながら、自分のことをアインへ赤裸々に語った。話題は彼女自身の性格にも及ぶ。
自分や他人の弱いところをすぐに見つけてしまう悪い癖があること、だからこそ自分は他人の素敵なところも見つけてあげたいと考え、「素敵」を口癖にしていること。彼女は「こんなこと、幼なじみにも話したことはないんだけど」と笑う。
アインがリングリットに旅の理由を尋ねると、彼女はこう答えた。
「いま、アルテリアの様子がおかしいの。芸術紛争って知っているかな。アルテリアでは歴史的に古典的な芸術作品を創るアーティストと、エンターテイメント作品を創るアーティストが対立し続けてきた。これを芸術紛争というのだけれど」
アインは首を振る。実際には文献で知ってはいたが、にわかな知識で彼女に物事を話すのは誠意がないと感じた。
リングリットは続ける。
「これまではお互いに批判することがあっても、直接は干渉しなかった。たとえ政敵の作品であっても、創作物に対しては尊重し、大切にする人たちだった。なのにいまは。新しい女王が就任してからなのだけれど、お互いの作品を燃やしたり、破壊したりしている」
彼女は眉をハの字にした。
「変わってしまうことは、仕方のないことなのかもしれないけれど、私はアルテリアの人の気質や、彼らの創るファッションや、芸術作品が大好きだから。なんだか心配なの」
彼女は、アルテリアの2代前の女王と知り合いのようだった。ヘアスタイルを整えてあげたこともあるらしく、それは彼女の自慢でもあった。
施術が終わると、アインは両手を広げてリングリットを褒めた。
「これまでこんなにハサミを上手く使える美容師に会ったことがない。ほんとだよ。だって切った髪が口に入らないんだもの」
と言っているうちに髪を飲んで、
「すごいタイミングで飲んだなあ」と笑いあった。
「良かったら、髪を飲んだついでに、飲み物でもどうかな」
髪を飲んだのはアインだけであり、リングリットと何の関係もない。リングリットも後に、あれは脈絡がぜんぜんなかったよと酷評した。しかし彼女は「いいよ」と気さくに返事をした。
アインは、リングリットとともにパブでナチョスをつまみながら、お互いの目的について話した。いつしか彼は、彼女とともにアルテリアを目指すことを決めた。眩しい笑顔に惹かれたことも大いにあるが、彼もアルテリアの変化を気にし始めていた。
彼はパブでワインを片手に呟く。
「1年に1度、ミスコンテストが行なわれ、最も美しい女性が国を治めるアルテリア。しかし1年に1度も王が変わって、国は立ち行くのだろうか」
国王を体験した彼だからこそ考える――よほどの仕組みができていなければ、1年では何もできない。それこそ、毎年のように国の方針が変わるので、成長戦略もたてられないだろう。
リングリットの話では、アルテリアの様子が変わったのは今年に入ってからのようだ。このとき彼の頭にはいくつかの仮定があった。それを確かめるために、アルテリアへ行く必要がある。
「現場に足を運ばなければ、本当は何が起こっているのか、わかりはしない」
アインはクスリと笑った。
「これが、グインさんの言っていたことか」
彼は新しいワインを空ける。隣には酔いつぶれたリングリットが寝ていた。
「弱いなら飲まなきゃいいのに。」
彼は手持ちのパーカーを、彼女に掛けてやる。
〈そういえば〉
と彼は思う。
アルテリアと言えば、共にエルゴルの村を出たウェールズ・バレンツエーガもいるはずだ。久しぶりに彼と会って話をしたい。
アインは、やはりアルテリアへいくことが先決だと考えた。




