*** 1 ***
四方を深い森に覆われた山の麓。黄昏がその村を覆っていた。
篝火がポツポツと焚かれた中央公園に、2人の女性と1人の少年がいる。
「あなたは、両親とは違うわね」
腰の曲がった老婆が、少年の頭を撫でた。隣の淑女が、「文武両道。こんな優秀な子がこの村に出てくるなんて素晴らしいわ」と少年を礼賛している。
間に挟まれた15歳の少年には、無邪気な笑顔。
〈並大抵だよ〉
少年は笑みの裏側に、そんな本音を抱いていた。
〈この村では学問も武術も、必要がないからさ〉
少年の動きを阻むように、老婆と淑女が左右を固め、村の儀式へ向かうよう導いた。
「アイン、行きましょう。点呼の時間よ」
ユーグリット大陸エルゴル国ノスタルジア村。この村に生まれた少年アインこそが、物語の主人公アイン・スタンスラインだ。彼は先ほどまでの無邪気な笑顔を引っ込め、凛とした表情で中央公園に築かれた舞台を見上げた。背後には村を囲う霊峰が聳える。
舞台に、横一列に老人たちが並んでいた。彼らは土地預かりと呼ばれている。霊峰に棲まう山ノ神から、村を預かっている存在だという。村の運営は彼らが担っており、村のルールも彼らが決める。
「我は土地預かりである。何度でも言おう。故郷の土地を捨てたものと、その家族には、山ノ神の祟りがある。だから黄昏時には村の外に出てはならぬ。では……存在確認!」
号令で点呼が始まる。アインは最初に名前を呼ばれ、クリアな芯のある声で「はい」と答えた。点呼の終わった人間には自由行動の権利が与えられる。最初に呼ばれるような名前をつけたのは、彼の母親の知性の賜物といえよう。
村人の名前がひとつひとつ呼ばれていく。存在確認の取れない村人は罰を与えられ、家族まで悲惨な目にあった。村の至るところには関所が置かれ、看守が村人の入出履歴を管理する。管理は厳格で、村人が村の境界を超えることを阻んでいた。
霊峰の麓の小さな世界で、人々は「村で生き、村で死ぬこと」を定められている。わずか1000人にも満たない村に、玉鋼のごとき超高純度の保守的思想が醸成されていた。
「まわりと同じ人間であれば、助け合って生きていけるのだ。村の外に出る必要はない」
土地預かりは声を荒げる。この管理された村で少年アインは育った。だが、彼の心は誰にも支配できない。彼の心をコントロールできるのは、彼だけだ。
「アイン!」
女の子の声が点呼を切り裂いた。崩れるようにして走ってきたのは、アインと同い年の女の子、村の学校の制服を着た少女ピーキュー・テックシーだ。彼女の母親とアインの母親は旧知の仲で、両家には家族のような付き合いがある。二人は互いに影響し合いながら成長し、気を許し、ありのままの姿を認めあっていた。彼女はアインの胸に飛び込むと、必死の形相でこう訴えた。
「大変なの! ロングマンの妹ちゃんが、カルドラに連れて行かれて。いなくなっちゃった」
おお、と土地預かりから感嘆の声が上がった。カルドラは霊峰に棲む猪で、山ノ神の使いとされている。
「カルドラに連れて行かれたのなら、神に捧げられた証拠だ。村に福音が訪れるだろう」
アインは土地預かりを横目で見、女の子を顧みずに興奮している大人たちを目に焼き付けた。
「ピーキュー、ロングマンはどこにいる? あいつも妹を探しているんだろう?」
「アインがナイフをつくってた炉の近くに。ねえ、どうしよう」
「シッ。あとは俺がなんとかするから。ピーキューは普段どおり点呼を終わらせて」
「でも!」
「約束だ」
アインはピーキューを一方的に抱きしめて、誰からも愛される爽やかな笑みを浮かべ、走り去った。二人は村の誰もが知る、仲睦まじい恋人同士だ。
***
「ロングマン!」
アインは山の裾野にあるレンガ造りの炉を目がけて叫んだ。
炉の前にはスクールの古き友人ロングマン・リンカードとエイサム・スコナティオが佇んでいる。
「エイサム。お前、点呼終わっちゃうだろ。早くいけ」
「でもよ、ロングマンの妹が連れ去られるのをみたのは俺だけなんだ」
エイサムが頭の後ろで手を組んだ。
「そうかもしれないけど。俺はお前が村で生きづらくなるのが嫌なんだよ。ロングマンも一緒だ。頼むから、俺に妹ちゃんがいなくなったときの状況を教えて」
「アイン、俺に手伝えることはないか」
ロングマンは青ざめた顔をしている。アインは人差し指を立てた。
「ひとつある。早く点呼へ行くこと。それだけだ。無駄なことを話している時間はない。端的によろしく」
アインは、二人からロングマンの妹――今年10歳――がカルドラに連れ去られたときの状況を二言三言聞いた。まだ何も話してないぜ?というエイサムを点呼へ向かわせ、ロングマンからもう二言話を聞くと、レンガ造りの炉に立てかけてあった青銅のナイフと、炉に隠してあった青い宝石を手にとって、あっちだな、と森を指して駆け出した。
アイン・スタンスラインの特筆すべき才は、理解力と類推力にあった。偏見なしに物事を多方面から見られる理解力と、事実に基づく情報を類似性のある別の物事に展開できる類推力。この2つの能力が、彼を学芸にも武芸にも秀でさせた。それでも彼が将来、自伝を書くなら「成功するのに理解力と類推力もいらない」と断定するだろう。少年時代の勝ち方など、大人になればアップデートされるものだ。大事なものはこれから見つかる。
アインは深い森を駆けた。
カルドラが子どもを引きずったあとが続いている。
「いた!」
アインの目の前に体長3mはある巨大な猪。月明かりを受けて、闇夜に白く輝いている。口に女の子の腕を咥えていた。腕を咥えられたまま、森を引きずられたのだろう。女の子の体は痣だらけで痛々しかった。
「その子を、離せ!」
アインは青い宝石を左手に握りしめ、何かを念じた。途端、左手から銀色に輝く剣が生まれ、彼の手に巻き付いた。生まれたというのは正確ではあるまい。これは青い宝石スピリットから物体を復元する、復元者の力だ。
アイン・スタンスラインは左手の剣を振り上げ、カルドラに戦いを挑んだ。鼻息を荒げ、突進するカルドラ。アインはすんでのところで突撃を躱すと、カルドラの背中めがけて左手の剣を振り下ろした。肉片が飛び散る。叫び、首を振って抵抗するカルドラ。アインは足元に冷静な追撃を放ち、最後は青銅のナイフを首に突き立てて、カルドラにとどめを刺した。
「悪いね。運命の変えたがりなんだ」
ズルズルと引き抜いたナイフに、カルドラの血がベッタリとついていた。ふうと大きなため息が溢れる。幼い頃から野山で遊んできた彼は、もはや弓やナイフを使った狩りの達人だった。そんな彼でも、視界の効かない夜の森で、あれだけの大物を相手に大立ち回りをした経験はない。
「命、からがら」苦笑いがこぼれた。
ロングマンの妹は、腫れぼったい目でアインを見ている。
「ゴメン。怖がらせちゃったか?」
「怖かった……でも、いまは怖くない。アインが来てくれたから」
「それならよかった」
アインはあぐらをかいて座ると、女の子の頭をなでてやった。ふと見ると、カルドラの口元に、闇にしか見えない黒い宝石が転がっている。
「カルドラがどこかから運んできたかな?」
裏側には8条の光が刻まれていた。その光を見た瞬間、アインに強いインスピレーションが走った。設計図が無尽蔵に脳へ流れ込んでくる。彼は衝動的に黒い宝石を復元せずにはいられなかった。
――これは運命だった。
「ホワイトボード?」
復元されたのは、ただのホワイトボードではなかった。アインの今考えていることが、ホワイトボードに書き出されていく。およそ2150年前に存在した、セルフディープラーニングを推進するアイテムだ。
「そうか……そうだね」
この魔法のアイテムは、アイン自身の気持ちを再認識させた。
湧き水で少女と自分の返り血を拭ったアインは、中央公園に戻った。土地預かりに対して「カルドラは少女を放ってどこかに消えてしまった」と説明し、大人たちを落胆させた。
ロングマンは涙を浮かべてアインに抱きつき、エイサムが「顔、土砂崩れしてるぞ」と冷やかした。
ロングマンは普段不愛想なくせして、いざというときに感情が顔に出る。一方のエイサムは飄々としていて本心を見せない、アインとは違った才能を持つ少年だった。
「なあアイン。お前は世の中を力で変えるのか? 知識で変えるのか?」
アインもこのときは、力と知識が、目的を達成するための両輪だと信じていた。だから彼は「優秀なら結果はついてくるよ」と口癖を述べた。
***
翌日、アインは学校を終えると、ピーキューと共に市場へ出た。
「デートだ。何買ってもらおうかな」
ピーキューが空を見上げた。アインは彼女の頭をなでながら、ピーキューなら何食べても太らないよと言った。
「いやいや、私が食べ物を要求しているとは限らないからね?」
アインは吹き出して笑い、市場へ走った。ピーキューもスカートをはためかせて追いかけた。
市場は村の出入り口をわずかに超えたところにある。閉鎖的なこの村が、外界と接触できる唯一の場所だ。アインは市場で外界の話を聞くのが大好きだった。
エルゴル国では、全国民が6年毎に働く場所や住む場所を変える《大異動》が行われていた。家族すらも離れ離れになり、全く新しい土地、全く新しい人間関係で人生をやり直すのだ。
狭い世界で生きることを強いられるノスタルジア村に住んでいる人間からすると、エルゴルの人々は、家族と引き離されることを何とも感じない、冷血な人間ばかりなのかと疑ってしまう。だが、大異動が日常に組み込まれた世界では、家族と離れたくないという価値観こそが異端なのだろう。
アインは市場で大異動の話を聞くたびに、「ノスタルジアもエルゴルの一部なんだから、大異動を体験してみたいなあ」と膝を叩いた。ノスタルジアの土地預かりは、国王から直々に大異動に協力するよう要請があっても、故郷の土地に固執する。
「そりゃあ俺だって、故郷を捨てたくないという気持ちは理解できるよ。けれど、居心地の良い閉じた世界で、似た者同士寄り添って生きることが、世の中をかえって息苦しくさせているんじゃないかって」
アインは市場で世界地図を購入した。資金はお手製ナイフの売却益だ。本当はもう一冊買いたかったが、どうしてもピーキューに買ってあげたいフラワーコサージュを見つけたのでやめた。黄色の花が、無垢なピーキューによく似合った。
「アイン、その本はお母さんにあげるの?」
ピーキューはフラワーコサージュを大事そうに触っている。
「読み終わったら家に贈るよ」
アインの実家は本屋を営んでいる。ノスタルジアで本屋は汚れ仕事とされていた。村の方針として、データや根拠、論理性を鑑みず、自分の持つ感情や感覚を頼りに生きる姿勢を重視したからだ。
「ふーん。それにしてもアインは本が好きだねえ」
「そうかな。ピーキューが言うならそうなのか」
ピーキューは偏見なしに人を見る。だから、アインの気づいていない強みを言葉にしてくれることがある。閉鎖的な村で、外の世界へ興味を持ち続けられたのは、確かに本のおかげだったかもしれない。
アインが自宅に帰ると、くたびれた女性が台所から顔を出した。
「おかえり、アイン。デートは楽しかった?」
アインの母、ティルテュ・スタンスライン。この女性は村の人間からの執拗な嫌がらせを長年受けてきた。顔に刻まれた皺は、長い時間をかけてストレスに耐え忍んできた彼女の勲章でもあったろう。
「二人で世界地図を見ながら、どの国に住みたいか話したんだ。楽しかった。なんだか勉強、頑張れそうだよ」
ロマンチックなこの少年は、学校でとびきり優秀な成績を修めていた。この村の義務教育は9年間のフォルクスコールと、3年間のギムナジウムという12年間。しかしアインは11歳でフォルクスコールの6回生を、13歳で9回生を飛び級し、15歳のいまはギムナジウムの3回生を飛び級すべく勉学に励んでいた。
「ごめんね。この村に生まれてなかったら」
母は目を伏せた。けれどすぐに笑顔をつくった。
「勉強、無理しないでね」
母はいつもアインのことを気にかけてくれる。だがアインは母のその愛が、自分への贖罪の意を含んでいるとも悟っていた。
「母さんこそ無理をしないでほしいよ」
この夜アインは、勉強が終わってから、燻製づくりに精をだした。カルドラを仕留めた夜に、部位を均等な大きさに切り出して、塩とハーブを入れた調味液に漬けて自宅へ持ち帰っていたのだ。昼間学校へ行っている間で乾燥させ、夜に氷を使って熟成させる。これを2~3日行えば干し肉が完成する。
アインが干し肉をつくった理由は墓参りだ。彼はこの時期に欠かさず墓参りをした。
晴れた日を選んで村の墓地に向かうと、アインは墓石を前にあぐらをかいた。干し肉を墓に手向けてひとりつぶやく。
「ブライアン。君は今どうしてる? 俺は今、正しい道を歩めているかな?」
彼はもう一度、ブライアンとつぶやいた。
そして故人を偲ぶように、干し肉を頬張り、墓石を撫でた。
この少年の15年間は、悲しい別れに決定づけられた感謝と贖罪の軌跡だった。