我が剣は殺戮にあらず
辺境都市アルファラは、魔物魔獣からの被害を軽減するために長大な壁で囲われている。
辺境都市から外へ移動するには、幾つかある市門を通らなければならない。
最も今は、吸血鬼を都市内で討伐するために、すべての市門は閉ざされ厳重に守られているが。
その市門の一つを、シエラは物影から様子を伺っていた。
黒い外套に身を覆い、簡単には細かい姿がわからないようになっている。
ごくりと喉を鳴らし、今度は自分から少し離れたところにある家屋の屋根上を見た。
シエラの瞳には、屋根上で優雅に足を組むメアーゼの影が映っている。
メアーゼが魔族であることはシエラに衝撃を与えたが、ヘルンである程度慣れてしまったのか、混乱することはなかった。
それよりも、ヘルンの危機が頭を占めていたというのもあるが。
メアーゼによると、都市の各地でヘルンを助けるために三人の吸血鬼が奔走しているとのこと。
いったいどうやって今まで姿を隠してきたのかはわからないが、この際そんなことはどうでもいい。
シエラには、今自分にできることを全力でやればいいと考えていた。
「五十人はいるわね……」
屋根上から市門を守る兵士を数え、メアーゼはそう呟いた。
背後を見れば、都市の夜景が綺麗に映る。
今は夜だが、まだ寝入る時間ではない。闇夜を照らす家々の灯りは、本当に綺麗なものだ。
この景色を肴に葡萄酒でも飲めればさぞや気分が良いのだろうが、状況が状況だ。
今、一人の吸血鬼を中心に多くの者が動いている。自分さえも巻き込んで、密かな激動の渦が出来上がっている。
「……妬いちゃうわね。リスクも顧みず、彼女たちはアナタの為に動いている。これって、すごいことなのよ?」
誰が聞くでもなく、今はただの占い師である女が呟いた。
そうして、指を兵士たちの方へ向ける。
「“アナタのユメは、誰かの悪夢”」
そう魔法を唱えた瞬間、五十の兵士のうち約半数が腰を抜かし叫び声をあげた。
残りの兵士が、怯え暴れる兵士を取り押さえる。
「さぁ……、アナタの番よ」
◆ ◆ ◆
「……!」
市門付近は、混乱状態に陥った。
まるでなにかに襲われているように、怯え、剣を振り回し暴れる兵士たちを、残りの正気の兵士たちが押さえつける。
その正気の兵士も、伝令に行く者、指示を出す者、半狂乱の仲間を拘束する者と手際よく鎮圧行動を進めていく。
こんな状況を作り出したのは、屋根上で座るメアーゼだろう。どういう魔法を使ったのかは知らないが、恐らくは幻覚系だ。
矛先が自分だったらと思うと、ひやりとする。
この混乱状態も、そう長くは続くまい。
半狂乱の兵士はやがて完全に取り押さえられ、伝令を聞きつけ応援が到着する。
つまり、好機は今しかない。
同時に、引くのも今しかない。
事を起こしてしまえば、シエラは本格的に人類に仇なす存在となる。
剣の柄をぎゅっと握り締めた。
「わたしは……もう、決めました」
呟き、長剣を抜き放つ。刀身の状態を確かめ、しっかりと頷いた。
「“我が剣は殺戮にあらず”」
紡ぐは魔法の発動句。
刀身は薄い緑の光を秘め、緩く闇を照らす。
と、同時に飛び出した。
「なんだ、アイツは!?」
「剣を持ってる! 増援じゃないぞ……?」
漆黒の外套をはためかせ、兵士たちに向かって駆ける。
「取り押さえろ!」
隊長級の兵士が叫んだ。しかし状況が状況だ。それに咄嗟に対応できたのは二人だけだった。
「くそっ……こんな大変な時に……」
言いながらも、シエラに向けて武器を振る。
しかしいくら怪しいからといって殺してしまうのはまずい。理想なのは相手を戦闘不能に追い込むことであった。
そのような点で、兵士が振るう武器は棍棒だった。
それでも当たりどころが悪ければ死んでしまうが、威力がそのまま殺傷力となる剣や槍よりかはマシだ。
が、棍棒が振りきられる前に兵士は大きく体勢を崩す。足を切り裂かれたのだ。
「うおっ!?」
もう一人の兵士も慌てて棍棒を振るうが、生憎シエラはその間合いの外だ。
「フッ!」
そうして、もう一人の兵士も胴体を袈裟懸けに深く切り裂かれる。
どう見ても、致命傷だが……。しかし切り裂かれた傷は、たちまちに癒えていく。
ついには傷の半ばまでを癒し、兵士は気を失ったが、命を失うことはなかった。
エンチャント・ヒール。
シエラが『殺したくない者』と戦うことを想定して作成した魔法である。
己の剣に回復の効果を付呪することによって、傷を与えると同時に治癒を施す魔法。
剣に込める魔力量で治癒の度合いを操ることができ、つまりは与える傷の規模を調整できるのが利点だった。
もちろん、『致命傷』から『気を失う程度の傷』に調整することもできる。
それはつまり、シエラが人間相手に迷いなく剣を振るうのに一役買っていたのである。
「くそっ……! 誰か!」
隊長級兵士は叫ぶが、半狂乱の兵士を取り押さえるのに手一杯だ。
「無理だっ、こんな状態じゃとても……。うおっ! 落ち着けファドック!?」
「ひいいいいいいい! 悪魔だ! 悪魔がいるぞ!?」
「おい、リジンを押さえろ! 危ないぞ!」
隊長級が歯噛みする。
手の空いた者からシエラに飛びかかるが、まともな連携はとれていない。そんな者たちに今更遅れをとるシエラでもなかった。
しかも、門を守る兵士の大半は、吸血鬼の存在を知らされていない。事情を知っているのは守備部隊の上位にいる者たちだけであった。
一般兵士においそれと言える内容でないことは確かだ。
しかし、フォルガナの方針はここに来て裏目に出ていた。
シエラに斬られた兵士は、五人を数えた。
そこで隊長級が鉄槍を持って前に出る。
どのみち、あと数分待てば応援が到着する。そうなればこちらの勝ちだった。
「もう容赦せぬ! 誰かは知らぬが、死んでも後悔するなよ!」
隊長級がシエラに向けて槍を放つ。
それをシエラはなんなく避けるが、槍の柄はシエラのあとを追う。
「……!」
慌てて剣を盾に。槍の柄と剣の腹が衝突した。
その一撃の、なんたる重いことか。
怯むシエラの隙を縫って隊長級は槍を引き戻す。
「そらァッ!」
裂帛の気合いと共に突き出される槍の穂先。回避を試みるシエラだが、間に合わずに肩を裂かれた。
しかし、シエラは痛みに屈せず一歩を踏み出す。そこから剣を一閃。回復にまわす魔力を限りなく低くし、銀閃を描いた刃は、隊長級の太股を斬った。
隊長級は槍を振るって柄でシエラを殴り飛ばす。しかし、シエラに与えられた傷により踏み込みが浅く、対したダメージは与えられない。
しかしそれでも、距離をとる一瞬を稼ぐのには十分だった。
「貴様……」
隊長級が憎々しげにシエラを睨む。
隊長級の視界に移るは、外套を頭から着込んだ敵の姿。顔も良く見えず、なれば瞳の色もわからない。
都市に潜む吸血鬼の存在は知っている隊長級だが、今だ相対する者の正体に当たりをつけられていなかった。
しかし、外へ繋がる門を任せられるほどの実力を持った隊長級だ。正体が不明だからと言って、加減はしない。
傷をつけられた足に意識を集中させ、痛みに慣らす。踏み込みが浅くては話にならない。
己の片足の状態を素早く確認して、隊長級は不敵に笑った。
「セイッ!」
鉄槍が唸りをあげて、シエラに襲いかかる。穂先を剣で弾くが、反撃するには距離が遠すぎた。次をどうするか迷っている内に、槍の第二撃が放たれる。
「くっ……!」
次々に襲いかかる槍の穂先に、シエラは防戦一方となっていた。
《陽神光》のための発動句を詠唱する暇もなければ、《火吹》を使う隙もない。
距離のせいで反撃も満足に行えない。
その様子を見て、隊長級がいっそう笑みを深くする。
「ぐ、う、う、ぅ、ぅぅぅぅ……!」
隊長級が攻勢を増した。シエラからは苦しげな声が漏れる。
もはや応援を待つという選択肢は、彼にはなかった。
ここで仕留めるのだ。
気絶させることができればそれがいいが、殺してしまうことも致し方ないと考えていた。
シエラは、襲い来る槍の先にある隊長級の姿に、漆黒の魔物を幻視する。
憎悪の化身となったような姿で三ツ叉槍を振り回す、あのリザードマン。
──いや、違う。
目の前の兵士は、あの魔物ではない。
そうだ、あの魔物はもっと強かった。自分では歯が立たなかったのだ。
こんなものではない。
こんなものに、自分は敗けてはいけない。いられないのだ。
あの吸血鬼と肩を並べたいのならば、目の前の敵など乗り越えて見せろ。
勝って見せろ!
「……?」
一秒がいくつにも切り分けられたような時間感覚の中で、隊長級は僅かに首を捻った。
今放った槍の一撃に対し、敵の動きが納得のいかないものだったからだ。
回避行動にしては、動きが緩すぎる。
それを隙だと判断するには、なにかが引っ掛かった。
しかし槍はもう放ってしまっている。ならば、それをより強力にすべく迷いは不要。
そうしてシエラに向かい突き進む槍は、目標の肩に突き刺さった。
赤き血が黒き外套を染め、槍の穂先が肉を抉る。しかし──。
「──うああぁあぁぁあああああっ!」
シエラが、己の肩に突き刺さる槍の柄を掴んだ。
「なにっ!?」
「あああああああっ!!」
隊長級の驚愕の声を、シエラの声が塗り潰す。
肩も抉れよとばかりに身体を捩り、硬直した隊長級に剣を思いきり振り下ろした。
銀の一閃が、隊長級の身体を袈裟懸けに切り裂いて行く。
「ぐっう、おおおお!!」
それでも槍を離さず、それどころか尚深く突き刺そうとする隊長級。それにもう一閃。
そこで、守備部隊を纏めていた男は地面に倒れ込んだ。
「……我が剣は、殺戮にあらず……」
息を深く吸い込んだシエラは、死んでいない隊長級を見下ろしてそう呟いた。
◆ ◆ ◆
シエラが気づけば、あたりの喧騒はすっかり収まっていた。
半狂乱になった兵士も、正気を保っていた兵士も、気を失っている。
そして、重々しい音が響いたと思えば、眼前の門がゆっくりと開いていった。
「……これで、十分でしょう?」
「メアーゼ、さん……」
いつの間にか、シエラの近くに立っていたメアーゼが呟く。
「兵士一人を脅して門を開けさせたの。開閉装置も壊したし、しばらくは閉じれないんじゃないかしら?」
脅す、という単語にシエラがびくりと反応するがメアーゼは妖艶に微笑むのみ。
「さぁ……戻りましょう」
そう言うと、メアーゼは指先に火種を灯す。それにふぅ、と息を吹き掛けるとシャボン玉のように上空へ昇っていき、やがて花火のように大きく弾けた。
一瞬の光が、都市中の闇を照らす。
「私たちにはこれが限界。退き時も考えないとね」
「……はい」
シエラが静かに頷く。
そうして二人は、姿を消した。