屍を喰らう者ども 三
砂塵が降りかかった瞼を開く。
視界は黄色く、息をするだけでも咳き込みそうになった。どうにかそれをこらえ、自分の置かれている状況を理解するのに努める。
頭は、無事。
首は、捻ったかもしれないが問題ない。
指は、動く。
腕は……左に痛み。幸い折れてはいない。
体を捻れば激痛が走る。恐らく肋骨が何本か折れているのだろう。
息苦しさは感じない。肺に損傷はないと見ていい。
足は無事。攻撃が上半身に向いていた為だ。
吐血量は……言わずもかな。
なんともまぁ、酷い状況だ。
まだ戦えるだけの力は残っている。
だから、体の損傷は、諦める理由にはならないと、ヘルンはそう思った。
しかし同時に、今この状況において頭に浮かんではならない考えがよぎったのも、事実だった。
──果たして、勝てるのだろうか?
自分が変異を解き、持てる力を出し尽くしたとて、ハイグールロードに勝利できるかは疑問だった。
ハイグールロードの先程の戦いが本気だとはヘルンには到底思えない。ある程度余力を残しているはずだ。
では、逃げるか?
吸血鬼たるヘルンにはそれは苦渋の決断だが、命より大切なものはない。それをヘルンはよく知っていた。
ハイグールロードは自分が死んだと思い込んでいる。ならば、成功するかわからない奇襲に賭けるよりもこの場から逃走することに全力を尽くすべきだ。
あまりにも、悔しく、恥辱に溢れた考えは、ヘルンの脳内を瞬く間に支配してしまった。
その時だった。
──憎いだろう。
ヘルンの頭に直接流れ込むような、到底生物とは信じられない声が響いた。
──憎いだろう。
頭の中の声は繰り返し呟く。
砂埃の幕の向こうにいるハイグールロードの影が反応していないところを見ると、これは幻聴とか、そういった類いのものなのだろう。
──憎いだろう。
三回目の語りかけに、思考の中でヘルンはとうとう返事をする。
なにが憎いのか、と。
──すべてだ。
何を言っている。意味がわからない。そんなことをぼんやりと考えた。
──目の前の敵。
──吸血鬼としての行動を阻害するあの二人組の冒険者。
──知ったような口で説教をしてくる受付嬢。
──お前を知ることもせずに追い出した牧場の親子。
──お前のいらない記憶を呼び起こすあの銀髪の少女。
──お前の邪魔をする人間たち。
声を聞いている内に吐き気が込み上げてきた。しかし、声は休むことなく響いてくる。
──お前を信用しなかった同族ども。
──お前を見捨てた同胞ども。
──お前を封印した魔族たち。
自らが浸食されるような感覚を覚える。身体中の痛みが消えかかる。
──お前から大切な存在を奪ったあの者ども!
──お前に光を与えたあの娘!
声は身勝手に、勢いを増してヘルンに語りかけてくる。
──憎いだろう?
──さぁ、こっちに来い。
──さすれば、すべてを憎み、復讐するだけの力をお前にやろう。
「馬鹿……が」
かすれた小声で、ヘルンが呟いた。
「浅ましい……愚かなことだ」
か細く消え入りそうなその声は、しかし確かな意思を持っていた。
「すべてを、憎む……? そんな、器用なことが、できるものか」
ガラリ、とゆっくり身体を起こす。斧槍を杖代わりにして、立ち上がった。
「お前が誰かは知らないが、黙って見ていろ」
ゆっくりと、しかし確実に屍食鬼の統率者に向かって歩き出す。
「これくらい………私だけでも、なんとかなる」
ヘルンの瞳が、赤く色づいた。
◆ ◆ ◆
「ゴホッ……ヒュー……」
口元に張り付く血を拭う余裕もなく立つヘルンを見て、ハイグールロードはニヤリと笑った。
あれだけ攻撃をまともに喰らって立っていられるのは感心するが、今のヘルンの様子はまさに虫の息だ。
『到底……俺ノ敵ニナル者デハナイッ!』
大きく踏み出し、野太刀をヘルンに叩きつける。
「フゥッ……!」
しかし、受け止められた。それどころか、野太刀と重なる斧槍はつばぜり合いまで演じて見せる。
『ヒハッ、甘イト言ッタロウ!』
力勝負には付き合わず野太刀を一旦横に振り切り、そこから刀の峰でヘルンを叩いた。
ヘルンはそれに素早く反応し、刀とは反対方向に体重をかける。
回避が完全には間に合わなかったものの、回避行動のおかげで衝撃のすべてをその身に受けることはなかった。
血と痰が混じったものを吐き出しながらも斧槍を振り、牽制してから距離をとる。
ハイグールロードは、今の一連のヘルンの動きに違和感を覚えた。どれも、虫の息の者ができる動きではない。
アテが外れたか……? それとも奴の演技?
斧槍を構え直し、こちらの隙を伺うヘルンに言い知れぬ不安感を覚える。
言ってしまえばハイグールロードもまた、戦いを重ね長らく生き延びた一匹のグールである。
彼の経験のなかにはこうまでして抗う者などいなかった。
『コノ、死ニ損ナイガァ!』
もう一度、大きく踏み出し振るわれた野太刀がヘルンを捉えた。
だがヘルンは身体を捻り致命傷を回避する。魔物の進化種の腕力をもって振るわれた野太刀は、かすっただけでも肩を深く切り裂いた。
「く……」
短く呻き、されども退かずに斧槍の反撃をロードの片膝に命中させる。
相変わらずロードは怯む様子を見せないが、確かに手傷は与えているはずだ。
『ヌルイゾ雑魚!』
野太刀を振り上げ、ヘルンに向けて一気に落とす。今度は余裕を持って避けるが、それだけでは終わらない。
地を削るように野太刀を振り、石床を刻みながら刃がヘルンを追う。
咄嗟に斧槍で刃を止めようとするが、ハイグールロードが振るう野太刀の勢いが止まることはなかった。
逆袈裟に振り上げられる野太刀を、ヘルンは後ろに体重を乗せての回避を試みる。
浅いが広範囲に渡る切り傷を受け、さらにヘルンの身体から血が流れ出た。
「お……ぉぉおっ!」
途端、後ろにかかった重心を強引に前へ。ハイグールロードの身体目掛けて足を踏み出す。
『グッ……!』
ハイグールロードは迎撃耐性をとろうにも、攻撃後の浮いた重心のせいで上手くいかない。
隙のできたロードの胸に、ヘルンが斧槍の矛を突き刺した。
勢いが十分に乗ったその一撃は、ロードの硬皮を貫き、その下の筋肉までを抉る。
今までにない感覚と、ロードが大きく仰け反ったのを見てヘルンは自分の攻撃が会心の一撃となったことを悟った。
この隙を逃さず、さらに追撃を加えようと斧槍を引き抜く。
しかし、ハイグールロードも魔物と言えど歴戦の猛者である。屍食鬼の統率者が黙ってやられることを許さない。
お互いがお互いの得物を振りかぶった。
「あああっ!」
『ヒハァッ!』
斧槍と、野太刀が、踊り狂う。
刃が重なりあう度に、鈍く重い音があたりに響き渡った。
自身の武器が弾かれる度、ヘルンの身体からは血が吹き出す。
痛みが、彼を襲う。
時間が経てば、それだけ不利になる。
知ったことか。
ヘルンは肉体の悲鳴を一切無視し、斧槍を叩き込んだ。
阻む野太刀の先にあるハイグールロードの肉体を目指し、ただひたすらに。
ガキン、と金属質な音がなったのを最後に両者の連撃は止んだ。
二度目のつばぜり合いだ。
退けば負ける。押せば勝つ。その直感を持ったまま、両者は最後の力比べへと身を投じた。
「おおおおおおオオオオオオオ!!」
『アアアアアアアアアアアアア!!』
硬い音が響き渡ると同時に、ヘルンの斧刃が砕けた。
瞬間、ハイグールロードは勝利を確信する。
勢いのままに野太刀を押し込んだ。
斧槍が持ち主がいなくなったように、地に落ちる。
『──!?』
いや、持ち主は本当にいなくなっていた。
斧槍を弾き飛ばした野太刀は、誰もいない虚空を切るばかりだ。
状況を飲み込む前に、後ろの首筋に激痛が走った。
ヘルンが背にしがみつき、牙を立てていたのだ。
『グッ!? ハ、離セ!』
暴れるが、ヘルンは一向に離れようとしない。みしり、という生々しい音まで立ててロードの首筋を噛んでいる。
ハイグールロードは、しだいに何かが抜けていくような感覚を覚えた。
それが自らの血液だということに気づくのに少し時間を要したが、 自分から抜けているのは血だけではない。
何が、とは言えないが血と、何かがヘルンに吸われていくのだ。
発狂寸前まで追い詰められ、さらに暴れる。
魔物であるハイグールロードは知らないことだが、ヘルンが今行っているのは吸血だけではない。
精気吸収と呼ばれる、上位吸血鬼が使う《回復行動》だ。
対称が生きている時にしか行えないエナジードレインは、簡単に言えば相手の生命力を奪っていくものだ。
それで得られる力は無いが、その代わりに奪った精気はすべて自身の治癒に回されるのである。
吸収と同時平行で行われている精気吸収は、ハイグールロードの生命力をちゃくちゃくと奪っていった。
最初こそ暴れていたものの、次第に力は弱くなっていく。
腕に力が入らず野太刀を落とし、足を踏ん張れずに膝をついた。
叫びつづけた声はやがて途切れ、それと同時に倒れ込む。
ハイグールロードはなぜ? と最後まで理解できずに、意識を暗闇に飲み込まれた。
◆ ◆ ◆
シエラがその場に現れたのは、それから間もなくだった。
その部屋で飛び込んできた光景は数々の瓦礫と血痕、それに屍食鬼の統率者の亡骸だった。
しかし、そんなことはどうでもいい。問題は、ヘルンの安否である。
焦る彼女は、そう時間をかけずに壁に背を預け座り込むヘルンを見つけた。
急いで駆け込むと、ヘルンの目は閉じられていた。肩を揺らしても、閉じられたままだ。
「ヘルンさん……? ヘルンさん!」
何度も、吸血鬼の名を呼ぶ。
シエラ自身、自分がどうしてこんなことをしているのかわからなかった。
ヘルンが死んでしまったほうが、何かと自分に都合がいいはずである。それなのに。
諦めず、彼の名を叫んだ。
「…………うる、さい」
ぼそりと、彼女の声ではない声が耳に届いた。
「え……?」
「うる、さいと……言った。今は、頭が痛い……。静かにしろ」
いつのまにか、ヘルンの両瞼は開かれていた。
声を出すのも億劫そうな弱りきった姿だが、致命傷となりうる傷は見受けられない。
正しくはエナジードレインにより再生中なのだが、シエラは知らない。
「生きて……いたのですか」
小さく「良かった」と呟く彼女にヘルンは意外な表情をする。
「意外……だな。お前なら……死んで下さい、とでも言うと思ったが」
シエラが慌てて目を逸らした。
うつむき気味に、「忘れて下さい」と言う。
「別に忘れてやるが……、どうした、その顔の傷は?」
確かにシエラの顔には大きく斜めに一本、切り傷があった。目は避けているが、そこからの出血で顔は血塗れだ。
深くはないが、痕は残るだろう。そんな傷だった。
それは、まだ若い少女の心にどれほどの影響を与えたのだろうか。
シエラは気にした風もなく振る舞うが、胸中はわからない。
「近衛のグールに不覚をとりました。それだけです」
「……そうか。あの二人は、なにしてる?」
「戻ってきた見張りのグールを始末してます。わたしを先に、逃がしてくれました」
「ふむ……。その二人は、まだ、ここには来ないか?」
「……? ええ、少し時間がかかると思いますが」
ヘルンがなぜそんなことを訊くのか。それを理解しない内に、後頭部をヘルンに捕まれた。
呆然としている内に、ヘルンの顔が近づいてくる。
あまりにも突然のことに、シエラの頭は答えをだせないままだ。
そうこうしている内に、唇と唇が触れあった。
「──っ!?」
麻痺しかけていた思考が、瞬く間に動き出す。慌てて距離を取ろうとするが、後頭部の後ろにあるヘルンの右手に遮られて上手くいかない。
それだけではなかった。
自分の口に少量だが、何かが流れ込んできている。
広がる鉄の味は……血?
「ぷはっ」
やっとのこと解放され、慌てて後ろに飛び退く。
シエラの顔は、珍しく真っ赤だ。
「な、なにを……っ!?」
慌てふためくシエラに対してヘルンは少しも慌てる様子がない。
シエラの言葉を聞き終えない内に、ヘルンが口を開いた。
「“巡れよ我が血、新たな主に恭順を”」
それは、魔法の発動句だった。
不意にシエラの傷が、熱を持った。かと思えば、熱は急激に冷めていく。
「それで、しばらくすれば……傷は癒える。痕も、残らん」
やれやれとヘルンが壁に手をつける。
「おい、肩か手を貸せ」
「……」
未だに赤く、黙ったままのシエラの手を借りて立ち上がる。
ふらつくが、転けはしなかった。
「顔の血を拭うなよ。二人に、怪しまれたくはない」
「……ヘルンさん」
「何だ」
「……いえ、なんでもありません」
僅かに拗ねたような声でそう言った後、シエラが口を開くことはなかった。
最初のほうでヘルンが何かに目覚めたっぽくなっていますが、実際はなにも変わってないです。
精々ヘタレ吸血鬼の決心がついたくらいです。