入学
一年の始まり、赤の月。
その初旬というのは、ルグエニア王国に存在する学園都市ロレントにおいては特別な日でもある。
王立ルグエニア学園、その入学式だ。
新入生は着慣れない黒を基調とした制服を着用し、ルグエニア学園の正面に佇む荘厳な石造りの大門を、ある者は新天地に不安を抱きながら、ある者は圧倒的光景に身を震わせて、ある者はこれからの学園生活に期待を浮かび上がらせつつ、それぞれ門を潜っていく。
その中の一人にはもちろんユウリ・グラールも含まれていた。
「やっぱ、でっけーなぁ」
目の前にそびえる大門を見るのはこれで二度目である。
しかしそれでも思わず見上げて呆然としてしまうのも仕方のないこと。
ルグエニア学園の校舎というものが、それだけ巨大かつ圧倒的な雰囲気を放っている証拠だ。
「ともあれ、無事に昨日の依頼が終わってなによりだな」
「次に会った時は少し文句でも言ってやる」と。
苦笑を浮かべながら、ユウリはそのように呟く。
先日、無事にアテナの花を採取できたユウリはそのまま傭兵ギルドに赴いて、依頼の完了の旨を伝えると同時にすぐさま宿へと戻っていった。
傭兵ギルドの受付によると、ギルド側が依頼者であるルーノにアテナの花を送り届けてくれるとのこと。
ユウリ自身はルーノと見知った間柄なので自分で渡すことも視野に入れたが、アテナの花の入手に思ったよりも時間がかかってしまい、依頼が完了した頃には時間が夜に差し掛かってしまったのだ。
夜間は学園へと入ることができないと言われていたため、そうするより他がなかった。
そして日は登り。
ついに入学式を迎えることとなった。
「ここか」
学園内にある講堂へと移動したユウリ。
目先にあるのは神々しさを発する神殿のような建物だ。ここが入学式が行われる会場である。
学園内は恐ろしいまでに広く、ユウリだけではまず間違いなく迷子となっていただろう。
ところどころに案内をしている生徒がいて助かったと思わず安堵の息が漏れたのはここだけの話である。
その時にふと気付いたことがあった。自分達のような新入生は、黒を基調とする赤と白のラインが入った制服の着用が義務付けられているのだが、案内をしている生徒の全員が、制服の左胸に白い獅子の刺繍を施してあるのだ。
これらの獅子の刺繍は自分達には存在しないものであり、それが少しだけユウリの頭に引っかかる。
(おおかた、上級生との区別をつける証みたいなものかな)
しかしそこまで深く考える必要もなさそうだと、ユウリは瞬時に意識を切り替えた。
さっそくとばかりに講堂の中へと入っていくと、そこにはこれまた荘厳な大広間が視界一杯に広がっていた。
全体的に薄暗い重厚感のある色彩に統一されており、会場の天井には魔導ランプによるシャンデリラが光を放っている。
足元を覗けば赤い絨毯が敷き詰められており、少しだけ強く踏むと弾力のある感触が心地よく足に伝わってきた。
さらに立食パーティーのように至る所に円形の机が用意されており、その上には様々な料理が机上の彩りを深めている光景には、ユウリも流石に絶句することしかできない。
「うひょ」
思わず奇声を上げてしまったユウリ。
けれど恥ずかしげもなくズカズカと室内に入り、円形のテーブルの一つを陣取った。
臨戦態勢を整え、開始した瞬間にすぐさま手をつけられるように。
この時のユウリ。他の人の視線を一切気にせず。
脳内を支配するのは目の前の料理を食すことのみである。
「なんだあいつは」
「あの品の無さからして平民でしょ」
「まるであの程度の料理を初めて見たとでも言いたげな顔ね」
「これだから田舎者は困る」
「でもちょっとだけ可愛い顔立ちかも」
周囲から囁かれる言葉、視線。
それらも完全に無視。
ユウリは現在、自分だけの世界へと浸っていた。
否、目の前の料理と自分だけの世界に浸っていた。
「――ねぇ。あれって」
そんな時のこと。
ポツリと誰かが漏らすように呟いた声、それが静かに大広間の中を浸透していく。
理由は明快。
一人の教師が講堂の奥にあるステージ、その中心へと姿を現したからだ。
「皆さん、どうやらお集まり頂いたようで何よりです」
黒い魔術師用のローブを纏っている教師と思わしき男が言った。
静かな声色にも関わらず、しかし講堂の奥深くまで聞こえるような声である。
「――それではこれより、王立ルグエニア学園の入学式を始めます」
そしてその言葉がゆっくりと会場内に響いていった。
★
入学式の開催宣言。
それを新入生一同は拍手によって迎い入れる。
盛大な拍手の音に教師は一礼。そして片手を挙げたところで拍手は次第に鳴り止んでいき、静寂が訪れた。
「それではまずは学園長に挨拶を行って頂こうと思います。それでは学園長、どうぞ」
言葉と共にステージから去っていく教師。
そして入れ替わるように現れたのは、長い白髭を携えた一人の老人であった。
「――皆の者。わしがこの学園の長を務めさせてもらう、メイラス・フォードじゃ」
老人であるはずが、嗄れた聞き取りづらいものではなくしっかりと芯の通った声を発する。
整えられた白髪と穏やかな碧眼。漆黒のローブに身を包んだその老人の名は、メイラス・フォード。
魔術師ならば彼を知らないものはいないだろう。
"賢帝"と呼ばれる、最高位の魔術師と名高い人物だ。
加齢により第一線こそ退いたものの、その権威は大陸中にまで広まっている。魔術師を目指すものなら、一度は彼のようになりたいと願うべき偉人の一人だ。
「それではわしから一つ、挨拶を送らせてもらおうかの」
壇上にて、一人佇む老人。
弱々しさは欠片もなく、ただ静かに講堂中を見渡していた。
「諸君はこれより、新たな門を叩くことじゃろう」
声が響く。
それは耳に届くというだけではない。
脳内に直接語りかけられるような、そんな声。
「そう。潜るのではなく、叩くだけじゃ。この入学式は決して新たな門を潜るための儀式ではない。その権利を得るための儀式なのじゃ」
メイラスは言う。
これは始まりにも満たない儀式。
始まりを始めるために必要な儀式だと。
「門は頑強。叩くことを戸惑うじゃろう。自分では開けないだろうと諦めかけることも。しかし、しかしそこで自分の可能性を信じて欲しい」
思えばルグエニア学園の正面に据える門も、巨大であった。
ある者は思っただろう。果たしてやっていけるのかと。
ある者は思っただろう。自分がどこまでやれるか不安だと。
だが。
「自分を信じて門を叩き、そして開くことじゃ。さすればその先には魔導の道が続いておる。その道を歩き始めてようやくスタートを切れるのじゃ」
それはどこまでと続く長き道。
やっとの思いで門を開いたとて、その道の終点は果てしなく遠い。もしくは、ないのかもしれない。
しかし挫折しても、道をそれても歩き続けた者が大成する。
目の前のメイラスのように。
「――精進するがよい」
厳かに、波紋のように広がっていく。
彼の言葉を聞いた生徒は、それをゆっくりと、咀嚼するように飲み込んでいった。
しばらくの間、誰もがまじまじとメイラスの姿から目を離すことなく。
そして次に、爆発するかのように大きな拍手が会場を揺らした。
まるで大地震が起きたかのような歓声が鳴り止むことなく続く。
期待、羨望、そして興奮の渦。
学園長の言葉を聞き、これからの自分に想いを馳せる生徒一同。
これからやってやるんだと、皆が自分を鼓舞していた。
皆が自信を漲らせ、門の向こうに存在する魔導の道を進んで行こうと息巻いていた。
――しかしものには必ず、例外というものが存在する。
ここにももちろん、それがいた。
皆が歓声を上げて未来への道を明るく見据えるその瞬間にも――。
「うまっ。うまっ」
バクバクと食を進める生徒が一名。
漆をぶち撒けたような黒髪と同色の瞳を持つその生徒の姿は、間違いなくユウリ・グラールのものであった。
「肉も野菜も最高級だな。これだけでも来た価値あったわ」
両手にフォークとナイフをそれぞれ手に持ち、器用に料理を手に取って口の中へと運んでいく。
周りがメイラスの言葉をゆっくりと飲み込んでいくその中で、ユウリは料理を素早く咀嚼していた。
ちなみにユウリのそんな姿を目撃した周りの生徒はドン引きしている。
関わるまいと一定の距離を置いていた。
当たり前である。このような姿のユウリと距離を近づけていれば、確実に悪目立ちすることが目に見えているからだ。
賢い者でなくとも、彼から距離を置きたいと願うはず。
否。
「おい、君」
一人だけ、そんなユウリに声をかける人物がいた。
ちょうど細切れの肉を大口開けて平らげようとしていたところにそんな声が聞こえて、ユウリも流石に声の主の方を覗く。
視線の先には、一人の少年がいた。
金色の髪は男にしては長めに整えられており、同色の瞳は鋭い印象を与えてくる。非常に整った容姿と言えるだろう。
彼は自分と同じ黒を基調とした学園の制服を身につけており、その腰には一振りの剣が掛けられている。
「学園長の挨拶中だ。少しは料理を取るその手を休めたらどうだ」
「……」
少年の言葉はその場にいる学園生徒の言葉を代表するものであった。
まるで田舎者を見るような視線。
髪と瞳の色から、この少年は相応に身分の高い家柄なのだろうと当たりを付けた。
対して、ユウリは少年に対して視線を鋭くする。
「……らん」
ポツリと一つ、呟く。
しかし言葉は小さく、少年の耳には届かない。
「何か言ったか?」
「この……は……らん」
「悪いが聞こえない。もう一度言ってもらおうか」
再度問う。
その言葉が謝罪なら良し。しかしもしもこちらを罵倒するような言葉であったなら、こちらとて黙っているわけにはいかない。
そのような意味を込めて、少年は言葉を向けた。
ユウリはそこで、カッと目を見開く。
「この料理は、やらん!」
「いらんわッ!」
少年は思わずといった様子で声を張り上げた。
周りの歓声に呑まれてその声が目立たなかったのは彼にとっては非常に救いであったことだろう。
しかしユウリと関わってしまったことは、彼にとっては災難であったのかもしれない。
「嘘はいかんよ少年。俺から料理を横取りしようったって、そうはさせない」
「する気もなければ興味もないんだが……」
「嘘だ。食べることに興味がなければ人は生きてはいけません。はい論破!」
「なるほど、君は僕に喧嘩を売っているのか。そうなんだな?」
何がなんでも目の前の料理は死守してやるぜ、と言わんばかりのユウリの態度に、少年の方は最早呆れを通り越して頬を引き攣らせるしかできない。
金色の髪をクシャリと掻きながら少年は思った。とんでもない馬鹿に関わってしまったと。
「とにかく僕はその料理には興味がない。それだけは断言させてもらうぞ」
「……とか言って取るなよ?」
「取るかッ」
「ならよし」
「言質は取ったからな」と、再度食のために手を進めるユウリ。その姿に彼への注意を促した少年はいよいよ頭を抱える。
完全に出鼻を挫かれ、ペースを乱されてしまったからだ。
「――それでは次に、総会本部長セリーナ王女より挨拶を」
再度少年がユウリに突っかかろうとした時、次の項目である総会本部長の言葉に移ってしまう。
それを恨めしい思いで見つめながらも仕方ないと首を振って、少年はユウリから視線を離して壇上の方へと視線を向けた。
一方のユウリは気にせず食事を取る。
静かに、しかし先ほどの二割り増しほどの速度で。
誰かに取られる前に自分で食ってしまえと対抗心を燃やしたことが理由として挙げられる。
それだけの食い意地を張っているユウリに、他の生徒も彼をいないものとして扱うことに決めたようで、口を挟む者はいなくなった。
「――皆さん。まずは入学おめでとうございます」
鈴の音のような声が響く。
ピタリと、そこでユウリは食事を進める腕を止めた。
鼓膜を震わせたその声が、ユウリにとって聞き覚えのあるものだったからである。
ゆっくりと顔を上げて、前を向く。
「――あれは」
壇上にて、視線を新入生一同に向けているのは一人の少女だった。
太陽のように輝いていると錯覚するほどの優美な金色のロングストレートヘアー。エメラルドにも似た深緑色の瞳は、穏やかで雄大な森の気配を思わせる。
透き通るような白い肌と彫りの深い顔立ちは、神秘的な美しさを醸し出していた。
彼女はユウリ達と同じ黒の制服を身に付けている。が、その左胸にはどの生徒とも違う赤い獅子の刺繍が晒されていた。
「私はルグエニア王国第二王女、及び学園総会本部長のセリーナ・ルグエニアです」
心地よく広がっていく彼女の声には、それだけでカリスマ性を宿しているようにすら感じられた。
おそらく彼女はこの場において、誰よりも尊い人物である。
生徒という括りでなら当然。
教師を含めても彼女に勝る地位の者はいるのか。
そう疑問を持たせるほどの存在感。
ユウリはその姿を見て、視線を思わず細めてしまう。
彼女の容姿、声。
どれもあまりに目立つために忘れるはずもない。
昨日、ユウリと正門前で言葉を交わし、ユウリに通行許可証を預けたあの少女である。
なるほど。
探す手間が省けたと、ユウリは呆然と視線をセリーナに向けつつそう思った。
その視線に気付いたのだろうか。
「どうぞよろしくお願いします」
彼女の深緑の瞳が、自分を射抜いたように感じられた。