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主人公を目指して  作者: 白井政蜴
幕間 心折れないひと時─噛ませ豚の下剋上─
9/15

悪役は下衆男の夢を見るか

帳が落ちる。黒いカーテンがかかったような空の下。昼間の熱は嘘の様になりを顰め、喧騒は語らいの場へと押しこめられる。


アルコールとたばこの匂いが染みた袖で、そっと額を拭う小太りの男。


──酔った勢い。不知火のとった行動は正しくそれだった。


「おうコラ、怪我したくなきゃそこどけや豚野郎」


殺気立つならず者風の男達。その内のリーダー格のような男が、その大きな傷のある顔を凄ませた。


夜の路地裏。月明かりすら録に入らない場所にて、大人数に睨まれた不知火はすっかり酔いが覚めていた。酔ったといっても、耐性スキルの都合上アルコールは効かない。酒場での雰囲気酔いだった。


「あ、いや、えっと……」

「何言ってっか分かんねえぞコラァ!」

「しゅいぁせぇん!」


泣きそうになりながら頭を下げる不知火。心臓が飛び跳ねる。冷や汗と鼻水を垂らし、歯をカチカチと震わせ、手足の感覚が遠のいていく。


(おおお落ち着け。俺は強い。俺は最強。俺はチート。だだだいじょだだだだ)


笑う膝に力を込め、改めて視線を上げる。唯一無二にして、己を奮い立たせる力の源。不知火の視界に、半透明のボードがいくつも出現する。


(そうだ。大丈夫。こいつらは俺より、弱い!)


気が付くと、震えは止まっていた。




§




とある闇組織が壊滅した日の夜。不知火は中年のウサ耳男、アーヴァインと酒を飲み交わしていた。しかし不知火はスキルによって酔いつぶれることが無い。不知火のペースに合わせて飲んでいたアーヴァインが、あっという間に潰れてしまったのもある種必然の結果だった。


「さーて、俺は一人二次会としゃれこむぜ! ぼっちではない、孤高なのだ! オサレバーとかないかなー。あ、娼館って手もあるぞ! 人生初風俗が異世界ってのもフゼイがミヤビだぜ! んふぇひひひ」


盛大な独り言だった。

アーヴァインを適当な宿屋に放り込んだ後、雰囲気酔いの勢いに任せて夜の繁華街に飛び出した不知火。アルコールが効いていない以上、なんだか飲み足りないと感じてしまうのも必然のことであり、到着して初日の街、昼夜で印象が変わった結果、道に迷ってしまうのも必然のことである。


そう、全ては必然だった。なるべくしてなった結果が次の展開を生む。そうして生み出されたものは全て必然の産物なのだ。つまり──


「こんなっ、こんなはずじゃ……!」


女性の声が響く。こんな時間に、やたらと切羽詰まった様子の声を耳にして、思わず不知火が立ち止まったのもまた必然である。


「大人しくしろ!」

「ヒヒヒっ、まあ悪く思うなよ?」

「俺らは頼まれただけだからなぁ。恨むんなら俺らじゃなくて、あの変な女を恨んでくれや」

「アニキ! それは……」

「口止めはされてねえ。この女かその周りの矛先が俺らに向いても面倒だろ」


──つまり迷った結果なぜか裏路地に入り込んでしまい、何やら揉め事が起きていそうな雰囲気の現場に遭遇してしまったのもまた必然であり、状況を見て女性が困っていると分かるや否や、主人公の座とヒロインを奪われたばかりの不知火が酔った勢いに任せて咄嗟に飛び出したのも必然の流れだったのだ。




(や、やっぱ怖いもんは怖い! くそっ、いつもなら仮にレイプされてる女が居ても見ぬフリすらせず凝視してライトハンドワークに励むだけだってのに、なんでこう慣れないことをするかね俺は!)


意外と余裕な不知火だが、どこか腰が引けている。ちなみに強姦現場に遭遇したことなど一度も無い。


いざ女性とチンピラ達の間に割り込んだは良いものの、やはりどうしても拭いきれない恐怖心という物は存在する。相手は集団、それに加えて全員が強面。さらに中にはナイフや片手剣等で武装している者もいる。


ここ10日余り、不知火はこの世界で過ごす中で、いくつかのことに気付いていた。『どんな攻撃を受けてもダメージを受けず、傷もつかない』ということも、その中の一つだ。

要するに不知火は戦闘において殆ど無敵なのである。少なくとも今まで相対してきた敵の中に、不知火に傷を負わせることのできた者は居なかった。


しかし無敵であることと痛みを感じないことは別物だ。殴られれば痛いし、蹴られても痛い。武器を使われてしまえば尚更である。勿論戦闘について、ある程度は数をこなすうちに慣れてきた。特に下級モンスターの動きは直線的で、対処が容易だ。或いは気付かれる前に処理するという選択肢もある。つまりやろうと思えば完封試合だろうと可能だ。


しかしやはり痛みは恐ろしい。一斉に襲い掛かられては撃ち漏らし無しというわけにもいかないだろう。昼間の様に1対1か、或いは殆ど反射的に動いていたならともかく、こうして冷静になってしまった状態で屈強な男達にぞろぞろと迫られれば怖気づくというものだ。


引けた腰で、ちらりと後ろを振り返る。辛うじて輪郭を縁取る程度の月明かりの中、女性の表情は影に隠れて分からない。ただ豪奢な金髪が、ぼんやりと揺蕩う薄闇に浮かんでいた。


「よそ見してんじゃねえよ!」


ナイフを持った男が叫ぶ。そのまま軽やかなステップで不知火との距離をあっという間に縮め、獲物を上段に振りかぶった。猟奇的に顔を歪め、不知火を弱者と見下し、嬲り殺さんと襲い掛かる。


その光景を、まるでスローモーションのように見ていた不知火。怖い。やられる。そう思った不知火の行動は早かった。


「んうぇああああああッ!」

「ぐほあっ!?」


先手必勝。咄嗟に腕を前に構え、飛び出すようにタックルをかます。少し前までの不知火なら全く反応できずに殺されていたか、ただ腰を抜かして怯え逃げ惑っていただろう。しかし今は違う。碌に食事もとらず戦闘に明け暮れるという、この世界の住人でもなかなか好き好んで陥らないような過酷な状況。地獄の10日間が不知火に齎した、明確な成長だった。


夜空の彼方へと飛んでいくチンピラその1。その軌跡を唖然とした表情で見つめる残りのチンピラ達。やがて一人、また一人と、錆びついた玩具のような動きで不知火へ視線を戻す。


「まさかコイツ、闘技場の……」


リーダー格の男が恐る恐る呟く。不知火は今日の夕方、闘技場にてモンスターを相手に暴れ回っていた。暴れ回るといっても、闘技場に出てくるモンスターなど所詮は人が捕獲できる程度のレベルでしかなく、また基本的に1匹ずつしか出てこない。モンスターが放たれた瞬間、不知火の音すらも置き去りにする素人攻撃が発動し、戦闘は即終了。観客は何が起きたのか分からないまま、ただモンスターが一瞬で消滅するシーンを繰り返し見ているだけだった。


「それじゃあこいつがあの……」


スキンヘッドの男が、不知火を指さす。装備を一切装着せずに、有り得ない速度で戦闘を終わらせ、今まで誰にも塗り替えることのできなかった最速勝利記録を打ち破った男。当然不知火の活躍を見ていた者達はしきりに噂する。


そしてやがて、人々は彼のことをこう呼んだ。


超速の小太り(スピードデブ)……!」

「待ったストップ。いろいろひどくない?」


この世界に、新たな『称号』が生まれた瞬間だった。




§




そもそもどんなに大人数だろうと、どんなに睨まれようと、不知火の脳が恐慌状態に陥ることは有り得ない。日本にいた頃の不知火なら、最初に怒鳴られた時点で蹲るか逃げているかのどちらか、さらに言えば後ろを振り返るなどという余裕も生まれるはずが無い。当然反撃も不可能だ。それらが可能であった時点で、不知火は己が思っている以上に冷静だったのだ。


それを可能としたのはスキルの存在。

不知火には『威圧耐性』という、小心者には打って付けのパッシブスキルがある。しかしパッシブスキルは自動発動であり、アクティブスキルのように任意でもなければアナウンスも無い。故に不知火は耐性があることに気付かない。


つまり不知火は『大人数の強面相手に恐怖を感じていた』というより、日本にいた頃からのイメージから、『あいつらは恐怖を感じさせるに違いない』と勝手に思い込み、その思い込みに嵌り込んでいただけだった。


(おっほほ。やべえ。なんかあいつらビビって逃げたんだけど。俺やばくね? ついにツエーする時代来た?)


故に、その"思い込み"から脱却する切欠さえあれば、後は語るまでもない。


不知火はニチャっとした笑みを浮かべながら、チンピラ達が去った方向を見つめた。不名誉な称号のことは既に忘れている。




「あの」

「ふぉおおおう!?」


突如として響いた女性の声。思わず飛び上がる不知火。振り返ると、先程絡まれていた女性がゆっくりと不知火に歩み寄ってきた。


一歩女性が踏み出す。不知火はなぜか後ずさる。と、ここでようやく、自分がこんなところに飛び込んだ理由を思い出す。そういえば目の前の女性を助けるためではなかったか。そしてあわよくばラブコメ展開から濡れ場シーンに持っていくためではなかったか、と。


(……イケメンの気配は無いな)


きょろきょろと周囲を確認する不知火。そんな挙動不審の小太りに、おっかなびっくりといった様子で、女性は再び声をかけた。


「あの、危ない所を助けていただいて、何とお礼を申し上げたら良いやら……」

「いえっ! あ、あ、あのその、とうと当然のことをっていうか……」


久しく聞いていない、自身に対し肯定的な異性の声。もうここで死んでもいいんじゃないか。不知火は柄にもなくそんなことを考えていた。


しかし──


「い、いえっ、ぐすっ、ほん、本当に、ありが……うううっ、ぐすっ」

「うぇい!?」


──お花畑へと飛び立っていた不知火の脳は、一気に現実に引き摺り下ろされた。




不知火の女性経験は、老人の毛髪並に乏しく、有名声優のライブチケットの売れ残り並に希少で、打切り作品の売上よりも貧しい。数値化された概念。神羅万象が帰結する完成された領域。即ちゼロ。童貞である。


さて、不知火には涙を流す女性を慰めたことなど一度も無い。どうすればいいのかとパニックを起こす中、不知火の中の冷静な部分が淡々と状況を分析する。


(泣いてる女の子。俺と二人。傍から見ればどうなるか。オレ イズ ジャック・ザ・レイパー……?)


明日には帝都を脅かす連続強姦魔の噂が広まっていることだろう。不知火の顔からすっと血の気が引く。

不味い。どこかへ移動しなければ。否、むしろここにいた方が良いのではないか。下手に動いて誰かに見られてはたまったものではない。


瞬時に結論を出す不知火。何とか女性を奥へ連れていかなければならない。滑舌の悪い口と肉付きの良い腕を必死に動かし、おたおたと話しかける。


「あの、あ、お、おちつき……」

「ぐすっ、ええ。お見苦しい姿をお見せしてしまって申し訳ありません。もう大丈夫ですわ」

「あ、ああ。よかっ……ですわ?」


思わず聞き返す。大して女性は、何かおかしなことでも言ったのかと、きょとんと首を傾げる。横たわる沈黙を暗闇ごと引き裂くかのように、都合よく月明かりが差し込んだ。するとそこに照らし出される両者の姿。


「ど、ど、ど」


わなわなと震える不知火。視線の先には、所々汚れてはいるが、仕立ての良さが分かる上質なドレス。そのドレスにも負けない気品を放つ豪奢な金の長髪。白く張りの良い肌と、柔らかく吊り上がった翡翠の双眸。


当の女性は相変わらず何が何だか分からないといった様子。しかし不知火にとっては衝撃だった。まさしく伝説上の存在に出会ったような興奮が不知火の鼻息から溢れ出る。


しかしその状態も長くは持たない。ついに興奮のダムが決壊。不知火の叫びが夜の帝都に響き渡った。


「ドリルヘアアアア!?」

「ちょっ、ドリルではありません! 失敬な!」


不知火が助け出したのは、ですわ口調のお嬢様だった。




§




翌日、不知火は貴族街に立つ一際大きな豪邸の前に立っていた。白を基調とし、手摺などの金属類はその多くが黄金の煌めきを放っている。


何度も間違えてないかと、あちらこちらとうろうろした挙句、不審な目で見られながらもやはりここで間違いないと舞い戻る。それを数回繰り返した後、薄く細い無精髭の生えた顎を摩り、そういえばこの世界の髭剃りはどんな感じなのかと現実逃避すること数分。


閉ざされた門の向こうから、執事の様な出で立ちをした初老の男性がゆっくりと歩いてきた。洗練された動作で、金の格子を淀みなく開く。さすがにここまで来れば、不知火にも確信が芽生えていた。


「マサヤ・シラヌイ様でございますね?」

「うぇあ、あ、ぁい!」

「どうぞこちらへ。お嬢様がお待ちでございます」


スタスタと歩く初老の男性。置いていかれまいと、おたおたと追いかける。門から入り口までの間、不知火はひたすらきょろきょろと周囲に視線を向けていた。


(お嬢様っぽいと思ってたらガチ貴族かよ。異世界だし居るんだろうなとは思ってたけど、まさかここまでとは。門から入り口までの距離が長くて~みたいなことをリアルで思うとは思わなかった。しかも執事とかやべえ。こいつ絶対セバスチャンだろ。この調子だとメイドさんもいるな。リアルメイド服か。この世界可愛い子多いしつまり可愛いメイドさんも多い。最高)


広大な敷地や聳え立つ豪邸から一瞬で意識を背け、まだ見ぬメイドへと思いを馳せる。やはり不知火はどこまでも不知火だった。


まっすぐ正面に立つ豪邸へと向かう不知火とセバスチャン。城かと見紛う程の建物に、これから入るのかと思うと、不知火は手汗が止まらなかった。ワイシャツの裾に手のひらを擦り付ける不知火をスルーして、セバスチャンはそのまま右に曲がった。


「……え?」


きょとんと豪邸の前で立ち止まる不知火。対照的にセバスチャンの歩みは止まらない。淀みなくスタスタと豪邸の入り口から離れていく。


「え、あ、あの!」

「? どうかなされましたか?」


呼び止めると、きょとんとした顔でセバスチャンは振り返った。どういうことだろうか。この豪邸ではないのか。そんな不知火の心情を察したのか、セバスチャンはにこりと笑った。どこかで見たような営業スマイルだ。


「ああ、こちらは本館になります。お嬢様は普段ご友人等をお招きになられる際は、本館では無くご自身の別館にて御持て成しをなされます。お嬢様のお部屋はあちらにございますので、どうぞ」


さらりと告げられる異文化。何が何だか分からない。呆気にとられる不知火には、ただ付いて行くことしか出来なかった。




「こちらがお嬢様のご自室でございます」


そう言ってセバスチャンが指示したのは、部屋というよりは家と呼ぶべき代物。というか家だった。不知火目線で見れば、十分立派過ぎる一軒家である。ここに住む者達には別館と呼ばれているらしく、件のお嬢様一人のために建てられたのだとか。


「お嬢様、シラヌイ様をお連れ致しました」


ドアノッカーを鳴らしながら言うセバスチャン。特別大声を出した訳でも無いが、よく通り、よく響く声だった。食事を喉に詰まらせた豚のような声の不知火とは大違いである。


ちなみにこのノッカー。実は鳴らしながら話しかけると、遠くにある受信機に音声が送信されるという通信機能を持つアイテムである。扉の前で二人して待つこと十数秒。やがてアナログチックな開錠音が響いたかと思うと、白を基調とした扉が開かれ、一人の女性が姿を現した。


「ようこそいらっしゃいました。シラヌイ様」


芯の通った声と共に、豪奢な金の縦ロールが揺れる。思わず視線を釣られる不知火。しかし咄嗟に昨夜の失敬だという言葉を思い出し、咄嗟に顔を上げる。斜めに流された前髪。そこから覗く翡翠の瞳が、不知火の淀んだ眼を寸分違わず射抜いた。


──『クリスティーナ・オールドリッチ・ブレア Lv.28』


(名前からしてお嬢様感やべえ)


名は体を表す。ドリルヘアーに負けないくらいハマっている名前だと、不知火は密かに戦慄した。




§




「改めて自己紹介させていただきます。わたくしはクリスティーナ・オールドリッチ・ブレア。クリスとでもお呼びくださいな」


そう言って優雅に微笑むクリス。自分から聞く手間が省けて良かったと、どちらかというとコミュ障を患っている不知火は心底安堵した。昨夜クリスを救出した際、不知火は食って掛かる勢いでフルネームをアピールしたのだが、クリスはファミリーネームを告げ、明日改めて謝礼をしたいから午前中に一度来てほしいと言い残し、足早に立ち去ってしまった。


しかし昨夜の時点では、不知火は名前のことにまで気が回っていなかった。女の子の家に誘われたという事実。ただそれだけで、強くなれる気がした。


(見た目から判断するに恐らくこの子は女子高生。女子高生なんざ恋に恋するお年頃。こいつぁ不知火氏に惚れちゃってますぜよ。でゅふふふ)


などと呑気に考えていた不知火だったが──


「さて、本日は何かお礼を差し上げよう……と思っていたのですが……」


──開幕早々、雲行きの怪しさ全開だった。


クリスティーナの後を付いて行くように別館へと入った不知火は、これでもかと並べられた絵画や壺など、お金持ちの定番インテリアに内心興奮していた。家の臭いを嗅ぎながら鼻息を荒くする姿に軽く引かれつつも、やがて案内された部屋に到着。クリスが紅茶を入れ、ふかふかのソファーに腰掛けた直後のことだった。


「……実はシラヌイ様に聞いていただきたいお話があるのです」

「あ、はあ。えっと、話、ですか」


真剣な表情のクリス。緊張した雰囲気は感じられるのだが、浮ついた緊張感ではない。告白イベントを期待してきた不知火だったが、どうにもそんな雰囲気ではない。これは一体何なのか。不知火の脳内に疑問符が生まれる。


訳が分からず間抜け面を晒す不知火から目を逸らし、クリスは一言一言をはっきりと話し始めた。


「わたくしには、未来が分かるのです。いえ、正確には、"分かっていた"のです」




クリスが語ったことは、不知火に取っては荒唐無稽でありながら、どこか共感できる話だった。


幼い頃、クリスは非常に我儘な子供だった。負けず嫌いで、独占欲が強く、プライドも高く、気に入らないことがあれば癇癪を起こす。扱いにくいことこの上ない。


そんなある日、クリスはついに父親の逆鱗に触れてしまう。生まれて初めて父親に頭を叩かれた。その後、妙に頭に違和感が残る。ぱちぱちと何かが弾けるような感覚。耐え切れなくなったクリスは、ついに体調を崩し、寝込んでしまう。


眠ったクリスは壮大な夢を見た。夢の中で、クリスは1年2年と時を経て、みるみる成長していく。やがて学園に通い、友人を作り、許嫁も現れる。そう、クリスは自身の人生を夢の中で体験していたのだ。といっても、彼女には何もできない。介入することも、自身の主観で経験することも。彼女はずっと、自身の人生を俯瞰していた。まるで物語か何かを見ているかのように。


長い時間『自分の人生』という物語を見せられていたクリスだったが、その時間は唐突に終わりを迎える。学園の高等部に進学した年、一人の平民の女の子がクリスの近くに現れた。特待生として入学してきた非常に優秀な女の子だ。クリスは生来の性格からか、その女の子に対して嫌がらせを始める。そのうち取り巻きの生徒達も煽動し、平民の女の子に対する嫌がらせはエスカレートしていく。


しかしその女の子は諦めない。いつの間にか数人の男子生徒が彼女の味方になっていた。その中にはクリスの許嫁の姿もある。それを知った夢の中のクリスは絶望し、激怒した。


加速する嫌がらせ。少しずつ離れていく許嫁との距離。やがて許嫁の誕生日パーティーにて、正式に婚約解消を言い渡されてしまう。自身の両親や、彼の親兄弟の見ている前で破談を突きつけられたクリス。彼女を支えていた何かが崩れ、周囲の制止も聞かず、呆然自失となってパーティー会場を後にする。


しかしそんな状態でまっすぐ家に辿り着けるはずも無く。途中で暴漢に襲われ、彼女の短い人生は幕を閉じる。


目が覚めると、既に3日もの時間が流れていた。その間、クリスはずっと眠っていたのだ。しかしそんなことはどうでもよかった。とにかくクリスは、夢の結末が恐ろしかった。許嫁に捨てられ、あっけなく死んでしまう未来が怖かった。会う者会う者に、たどたどしく夢の話を言って聞かせた。しかしやはり子供の空想としか受け取られない。


何故こうも信じてもらえないのか。まるで示し合せたかのような周囲の反応。一度この世界を物語として俯瞰してしまったからだろうか。周りの者達の様子に、まるで筋書の強制力のような、歪で薄い現実感の欠如を感じたクリス。


彼女はその時悟った。誰も信じてくれない。誰も頼れない。頼れるのは──己のみ。


それ以来、"我儘なクリス"は死んだ。


少しずつ、自分による自分自身の人格矯正が始まった。

許嫁に見捨てられたくない。礼儀作法を身に付け、淑女として相応しい振る舞いと教養を兼ね備えた。

使用人を頼らず、自律し、自立した行動を取る。家柄を傘に着るような女になりたくない。だから家柄が無くても認められるくらい優秀になろうと、必死に勉強を頑張った。


今までと、そして夢で見た本来の"これから"の自分を分析し、悪魔にでも取り疲れたように自己研鑽に励む。彼女の姿は異常に見えたのだろう。これまでの彼女を知る者であれば、彼女と距離の近い者であれば尚更。


そして、その異常を作りだした原因が自分にあるのではと思ってしまった者であれば、その恐怖と罪悪感は計り知れない。やがてクリスの父は償いのつもりか、或いは理解の範囲外の物を視界の範囲外へと追いやりたかったのか、自身の娘に館を一つ買い与えた。


父の動機は分からなかったが、クリスにとっては好都合以外の何物でもなかった。誰も見ていない屋敷で、誰もいない屋敷で、一人で、自分だけを頼って生活する。そうして日々努力を重ね、学園入学後はその優秀さと勤勉さをいかんなく発揮した。


トップの成績。高まる人望。しかしそれでも尚努力し続ける姿に、周囲の者達は尊敬と憧憬を抱き、或いは恐れ慄いた。


そして遂に運命の時がやってくる。


「メイ・エリオットです。よろしくお願いします」


にこりと笑って挨拶をする少女、メイ。栗色の髪を肩甲骨まで伸ばし、前髪は綺麗に切りそろえられている。人懐っこく可愛らしい顔つきの少女。クリスはそんな印象を抱いていたが、彼女の周囲はそうではなかった。


「あれが例の平民?」

「この学園に平民が入り込むだなんて、嫌ね全く」

「分不相応という言葉が分からないんでしょうか」


嫌悪感を隠そうともしない者達。学園全体の雰囲気がガラリと変わった気がした。クリスの好きだった中庭も、屋上も、教室も。全てがまるで別の世界に作り変えられたような錯覚。これだけの影響力を持つ少女の存在に、クリスは形容し難い恐怖を覚えていた。そしてこの影響力の傘下に立ち、この空気の先鋒として自分が動くことになるなど考えたくもなかった。


しかしここにきて、徐々に学園を塗りつぶしていた息苦しい侵食が翳りを見せる。本来の未来では、周囲の生徒に強い影響力を持つクリスという女子生徒が、家の権力などを使ってメイという平民を追い詰めていく。それが学園内に蔓延る彼女への差別意識をさらに助長させていた。


だがそれはあくまで夢の話。現実のクリスは嫌がらせをするどころか、むしろ率先してメイと交友を持とうとした。純粋に平民の世界というものに興味を持ったというのもある。人望溢れる彼女の行動は、少しずつ侵食を跳ね除けていく。


汚れた備品も、周囲の陰口も、孤独と特異性から、学園内の有力な男子生徒に目を付けられることもない。クリスの尽力により、メイは平穏な学園生活を手に入れたのだ。やがて平民の少女メイが周囲に受け入れられ始めたのだが、なぜか当のメイはどこか落ち着かない様子。不審に思ったクリスが訊ねるも、何でもないとあしらわれる。否、もはや避けられていた。


ついに我慢できなくなったクリスは、ある日メイを密かに尾行した。普段は人当たりも良く、笑顔で生徒達と接している。しかしやはりどこか居心地が悪そうだ。やがてメイは逃げるように屋上へと移動した。追いかけるクリス。屋上の入り口に辿り着いた時、メイは静かに呟いた。


「おかしい。なにこれ。違う。全然違う。あの人、誰なの? 本当に"あの"クリスティーナ・ブレアなの……?」


──確信。

クリスは瞬時に、メイもまた未来を見たのだと理解した。ただ単に昔の自分を知っていただけという解釈も出来るだろう。しかしそれでも、クリスは己が直感に間違いがあるとは思えなかった。


それを知ってからというもの、クリスはどこかメイと距離を置いていた。否、置いてしまった。


メイの入学以降、ずっと仲良くしてきた二人の不仲が囁かれ始めたのはそんな時だった。クリスが別にメイと喧嘩などしていないと口にするも、実際顔を合わせる頻度は減っている。周囲の噂に拍車がかかる。


それに便乗したのがメイだった。メイは密かに「不仲説の裏側には、クリスによる嫌がらせがある」という噂を流す。さらに同時期に、メイは表向きはまだクリスの友人ということで、クリスの許嫁に接触。やがて周囲が勝手に、許嫁に近づいたから嫌がらせを受けたのだと解釈。もともとクリスと許嫁の関係は有名だった分、メイが完全に後から手を出したお邪魔虫というポジションだ。当然周囲はクリスの味方をする。


しかしメイにとってはそれこそが狙いだった。再び学園の雰囲気が暗く剣呑なものになって行く。さらにメイ自ら、クリスにやられたかのように装い、自身の備品に落書きをしたり、身体に小さく痣を作ったりといった工作に乗り出した。そして気づいた時には、既にクリスが原因でメイが周囲にいじめられるという、かつて見た悪夢の状況が出来上がっていた。


必死に誤解を解こうと奔走するクリスだが、クリスが弁解すればするほど周囲は勝手に勘ぐり、夢の中の筋書に沿って行動していく。クリスはかつて自身の家族に見た現実感の無さを思い出した。


──そうだ。何をしている。頼れるのは己のみ。行動しなくては。


クリスは街の人間や周囲の証言等から、少しずつメイによる自作自演の証拠をかき集めていく。自分は何もしていないと証明するために。もはやクリスにとって、メイという少女は敵だった。彼女が積み重ねた『天然で可哀相で色恋に無頓着なヒロイン』という嘘をつき崩すべく、その優秀な頭脳と行動力をフル活用した。


しかし一歩の出遅れが、ついに致命的な展開を呼ぶ。



「君との婚約を、解消したい」



何かが崩れる音がした。どこかで誰かがほくそ笑んだ。


どうやらメイは、籠絡とまではいかずとも、許嫁の同情を買い占めることに成功したらしい。しかしそれでも、その同情を返品させるだけの材料がこちらにはある。この筋書きに最後まで抗って見せる。そう思っていたクリスの耳に、さらなる刃が突き刺さった。


「優秀な君なら、僕なんか居なくても大丈夫だろう?」


──その後はもう、何も覚えていない。気が付くと夜の街で呆然としており、暴漢に絡まれた。




「その後のことはシラヌイ様もご存じの通りです」


長い長い語りを終えたクリス。クリスの話を聞いていた不知火は、内心辟易としていた。またかと。どうやら不知火の中で、このクリスという少女はユキトやジーク、ロイクと同じ類の存在らしい。


「あ、えっとそれ、ななんでそれをお俺に?」


しかしそれはそれとして、不知火にとっては世にも珍しい自身に好意的な若い異性という事実には違いない。無意識のうちにテンションが上がり、吃ってしまうのも仕方のないことだった。


ニヤケながら訊ねる不知火に、クリスは紅茶を一口含み、小さく息を吐いた。


「疑わないのですね」


クリスの言葉に、不知火はきょとんとした。自分で話しておきながら何を言っているのかと。しかしクリスの話を今まで誰も信じていなかったという話を思い出す。とはいえ、この世界にはスキルというものが存在する。彼女の周囲を取り巻くそれもまたスキルによるものなのかもしれない。そして何より……


「いや、えっと、俺もまあ、なんていうか、この世界の人間じゃないっていうか……」

「……なるほど。案外、わたくし達の世界は、本当に物語の中の世界なのかもしれませんね」


そう、そもそも不知火はこの世界の外からやってきたのだ。俯瞰どころの話ではない。

不知火の言葉に、クリスは目を丸くしたかと思うと、今度はくすくすと笑った。照れて俯く不知火。いくらなんでも異世界人は言い過ぎただろうか。絶対に信じてもらえていない。不知火の中に羞恥と後悔が渦巻いた。


クリスは手元のティーカップを見つめた。紅い水面に映る自分の顔が、うねうねと形を変える。かちゃりと音を立て、ソーサーの上にカップが戻った。


「本当ならばあの時、わたくしは死んでいたのです。わたくしと彼女以外に、自らの意思と力で筋書を変えたのは、貴方が初めてでした。それで、もしかしたらこの話も信じてもらえるかもしれない、と」


翡翠の両目がそっと伏せられる。長い睫が揺れ、紅茶が静かに波打った。


「よかった……ようやく、ようや、く、ううっ、わた、わたくしは……」


鼻を啜る音。嗚咽を漏らしながら、クリスは細い指でそっと涙を拭った。そしてまたしても、突然泣き出した女子高生に不知火はおたおたと慌てるばかり。


ずっと孤独だった。誰に何を言っても信じてもらえない。走りだしたシナリオに突き動かされ、自由を奪われる恐怖。まるで決まり事かのように筋書に従い、己を追い詰める舞台装置。周りは皆動く人形。生きている人間が自分一人であるかのような錯覚。本当の味方など、理解者など一人も居なかった。彼女はずっと孤独だった。


唯一心の拠り所だった許嫁すらも奪われ、見捨てられた。学園も、もはや彼女の知る学園では無い。彼女の居場所などどこにもない。どうしようもなかった。


そんな時に見つけたのだ。ようやく、自分と同じ、生きている人間を。




§




「ごめんなさい。もう落ち着きましたわ」


言いながら、涙の後にハンカチを当てる。すん、と小さく鼻を啜る音が響いた。


「あ、えと、ちょっと質問いすか」


小さく手を上げる小太りの男。動作を小さくすれば可愛く見えると思ったら大間違いである。

不知火の様子を特に気に留めた様子もなく、静かに続きを促すクリス。


警戒心の欠片も無い。油断しきったところに、不知火からの不意打ちが飛びだす。


「いや、なんてか、なんでそのメイさん? って人のハーレム作りに協力しなかったのかなって」

「……は?」

「ひいっぅ!?」


クリスの地を這うような低い声に、驚き飛び上がる不知火。先程までとの歴然とした温度差。不知火は完全に委縮してしまった。不知火にとって、女子学生とは恐怖の対象である。己の記憶に対する恐怖には、さすがにスキルでもどうにもならない。日本でのトラウマと共に、ゆらりとクリスが立ち上がる。


「今、何と?」

「いや! ちぁうんす! ちゃうんす!」

「はっきり喋りなさいな」

「すあああせええええん!」


ソファーの上で土下座スタイルをとる不知火。ふかふかのソファーが上下に揺れる。不知火の肉も上下に揺れる。不知火正也20歳。彼は今、女子高校生相手に本気で土下座をしていた。


しかし土下座外交もむなしく、クリスの言葉の棘が不知火を襲う。


「先程の言葉、一体どういう意味でしょう。説明していただけるかしら」

「あにょ、何と言いますか……」

「早く」

「はいいいぃ」


不知火の語ったことは至極簡単な理屈だった。


本来の流れでは、最終的にメイには数人の男子生徒の味方ができる。つまりは逆ハーレムである。しかしクリスがそれを阻害してしまった。


要するにそのメイという少女がクリスを陥れようとしたのは、クリスが陥れられるような人間でなければ自分の逆ハーレム要員を捕まえられないと踏んだからである。さらに言えば、逆ハーレム要員が接触してくるはずのイベントをクリスが潰してしまったのもあるだろう。孤独とはそれだけで誰かしらの注目を集める。しかし隣に誰かが居てしまえば、一瞬で一風景になり下がる。クリスがメイを敵と認識するよりも遥か前段階で、メイもまたクリスを敵と認識していたのだ。


ここで発想を転換させる。つまり、クリスを陥れずともメイが逆ハーレムを手にすることが出来れば、敵対せずともメイの目的を達することができると分かれば、どうだろうか。


即ち、メイとクリスの間に協力関係を形成すれば良かったと、不知火は言った。


「……あの人を取られたくないと思うばかり、わたくしはそんなことにも気付かなかったのですね」


なるほどと納得しかけるクリス。しかし不知火の言葉は終わらない。むしろここからが本番だった。


「あ、いや、さ、さいしょは許嫁さんだけこっちで確保して、それでその、それ以外はどうぞって、そういう手もあったんじゃないかなって思ったんすけど」


吃りながら、ちらちらとクリスの顔色を伺う。対するクリスは、どうぞとでも言うようにため息をついた。


「けど?」

「多分、くクリスさんなら、それくらい思いつく、かなって。だかぁその、多分それができない、したくない状況があって」

「…………買被りすぎですわ」

「クリスさん、メイって人の逆ハー、とっちゃったんじゃないすか?」


クリスの謙遜を切り裂くように、不知火の言葉が放たれる。


図星だった。


「あ、いや、変だなって思ってたんすけど、だって最初は"数人"って言ってたじゃないすか。けど話の中であんまり出てこないし、変だなって……」


口を閉ざしたのは後ろめたい事実があったから。最善の策を取れなかったのは、彼女にとっての最善が許嫁だけではなかったから。


学園入学後、初等部中等部と過ごすうちに、クリスの優秀さは周囲に知らしめられていった。人格矯正を行ったといっても、三つ子の魂百までという言葉もあるくらいだ。自身の優秀さを自覚し、慢心が生まれたのだろう。根底にある自尊心の高さが再び顔を出した。


メイが居ない間は、周りはまだ人間でいてくれた。主役はクリスだった。優秀で人当たりも良くなった彼女は、持ち前の美貌も相俟って早々に注目を集める。当然メイという少女が囲うはずだった者達の視線も。


仮初の主役。いずれ奪われる場所。しかしここにきてクリスは欲をかく。


──主役になり替わってしまおう。


「メイって人を敵にまわしちゃ駄目だってのは、くりっさんも分かってたと思うんですけど、だから自分から話しかけて、それを利用して逆ハーメンバーのポイントも稼ごうと思ったんすかね。平民に対しても広く慈悲深い心でうんたらかんたら、みたいな」


一度すべてを奪ってしまった以上、すべてを手にしてしまった以上、一つも取りこぼしたくなかった。

そう思ってしまったが最後。残された選択肢は、互いに潰しあうゼロサムゲーム。


「………………」


能面のような表情で立ち尽くし、沈黙するクリス。悉くを看破され、ものの見事に穴だらけとなったなけなしのプライド。このガラクタを、自分は本当に守りたかったのだろうか。


「うぇ、ぁの、くりっさん……」

「……クリス、です」


不知火は一旦沈黙し、静謐に浸りながら空気の読める男を演じつつ、口内で舌の体操をした後、渇いた喉を潤した。そしてセリフをイメージ。


(よし。いける。滑舌復活。大丈夫)


気付かれないように深呼吸。やがて意を決して口を開いた。


「クリスさん。あなたにとって生きた人間っちぇいうぉは……」

「……仕切り直しますか?」

「んんっ、生きた人間って言うのは、あなたのことを誉めそやし、持ち上げ、或いは、あなたに手を差し伸べる人間のことを言うんですか? 主役だったクリスさんから視線を逸らしたら、それは人形なんですか?」

「……ふう。全部、お見通しみたいですわね」


そう言ってクリスは力無く微笑んだ。それを見て、もう一息だとニヤける頬を抑えつける不知火。


「参りました。概ねあなたの仰る通りです、シラヌイ様」

「クリスさん……」


クリスは静かに己の欲深さを認めた。この世界に来て、不知火的に最も好感の持てる反応だ。


「夢で未来を見た時、恐怖よりも先に悔しさを感じたんです。なぜわたくしばかりがひどい目にあ

って、あの女ばかりが幸せを掴むのかって」

「待ってください」


不知火の唐突な制止に、目を丸くして口を閉じるクリス。不知火はニヤリと笑う。クリスの話を聞いてからというもの、ずっと言いたかったことを、ここにきてようやく口にした。


「あなたの言う幸せとは何です?」

「え、それは……」

「筋書に従ってしか動けない人形を侍らせて、傅かれることが幸せなんですか?」

「な、何を言って……」


精一杯のキメ顔を作る不知火。ソファーの上で正座した状態で、クリスを勢いよく指さした。


「そもそもそいつらを好きになるという感情からして、物語に強制されたことなんじゃないですかアーッ!」

「っ!」


どうだ。言ってやったぞ。そんな雰囲気を全身から迸らせる。対するクリスは、その発想は無かったと言わんばかりに目を見開いている。そんなことを言いだしたら、一体本当の感情とは何なのかという議論が持ち上がるのだが、ここは一旦置いておく。


「物語から脱却するために、もう物語から目を背けてしまいませんか。そもそもくりっさんが今まで必死に頑張って積み上げてきたものを、くりっさんを振る理由に使うような輩なんて忘れた方がいい。もっと外に目を向けましょう」


さらに言うと目の前の自分に向けてほしい。という言葉を、不知火はぐっと飲み込んだ。


不知火の言葉を黙って静かに聞いていたクリス。まるで水のように己の中へと浸透する言葉を、一つ一つしっかりと理解していく。


「……くりっさんではなく、クリスです。ですが、たしかにそれも一理ありますわね」


先程の半ば自棄になったような力のない笑みではない。新たに生きる意志を得た、一人の強い少女の表情。

釣られるように、不知火の表情もみるみる明るくなっていく。ついに自分にもヒロインが現れた。一欠けらも疑うことなく、不知火は確信していた。


「わたくしも、いろいろと考えてみます。本日は有意義なお話、ありがとうございました」


思わず照れる不知火だったが、ふと思う。おかしい。これで終わりだと。そんなはずはない。


「え、えと、あの……」


何とか会話を繋がなければならない。必死に言葉を探す不知火だったが、悲しい哉。不知火の会話の引き出しには碌に物がない。それどころか手入れのしなさすぎで蜘蛛の巣が張っていた。


しかし神はまだ不知火を見捨てていなかった。不知火の様子に何かを察したのか、クリスはぽんと手を打った。


「そういえばお礼がまだでしたわね。本日の分も合わせて、何かお礼させてくださいな」


内心でガッツポーズする不知火。しかしここでキスのひとつでもと言う勇気は不知火には無い。とはいえ金輪際会わないような相手ならば、胸を揉ませろくらいは言っていた可能性は否定できないところではある。


それはさておき、不知火は考える。お礼とは。一体何が良いのか。引かれないお礼とは。そもそもお礼とは何なのか。おと礼。分からない。宇宙の神秘だ。


やがてうんうん唸った不知火は、慣れない事を考えたせいで頭がぼうっとし始めているのを感じた。ここに来て精神的な疲れが一機にやって来たのだ。相手の部屋で若い女の子と長時間会話した経験など不知火には皆無。不知火の童貞メンタルは限界を訴えていた。


頭が熱い。視界がぶれ始めた。妙な汗が頬を伝う。謎の浮遊感。まるで病に罹ったかのような感覚。

そこでついぽろっと、ふと思ったことをそのまんま口にしてしまったのは、ある種そう、必然だった。


「……また会ってくれますか?」


一瞬目を丸くするも、ふわりと微笑むクリス。


「ええ。わたくしで良ければ喜んで」




§




「あ、もう、大丈夫です」

「本当ですか? まだお顔が赤いようですが……」


あの後、不知火は限界が訪れて、鼻血を垂れ流しながら倒れてしまった。クリスとセバスチャンによって介抱され、今もこうして入り口の門まで付き添われていた。


(余計なのが付いちゃったけど、女の子に看病されるとか最高かよ! いいじゃんいいよフラグだねイベントだね! こいつは俺にべた惚れですな! んほっほほほほ)


そんなこと考えている不知火。やはり不知火は最初から最後まで不知火だった。


「あ、そうですわシラヌイ様」


門から出ようとする不知火を呼び止めるクリス。そして悪戯っぽく片目を閉じ、人差し指を唇に当てた。


「滑舌。やればできるじゃありませんか。普段からそうしてらしたら良いのに」

「え、や、あははは」


唐突な賛辞に、ニヤケ顔が大参事な不知火。気持ち悪くクネクネと身体をゆする。そんな不知火に、クリスはにっこりと微笑んだ。


「次はそのお腹ですわね」

「やめろおおおおお!」

「次会う時までに御痩せになってくださいませ。それともわたくしと一緒にダイエットに励みます?」


不知火がヒロインを手に入れたのか、或いはヒーローにされたのか。或いはそのどちらでもないのか。

ただ不知火に分かったのは、金髪縦ロールも捨てたものではないということだけだった。

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