2-2 拒絶、約束された敗北
「お、おお……やべえ……渋谷かよ……」
当然コンクリートやガラス張りの建物があるわけではない。ハチ公もいない。しかし不知火の目には、それほどの人混みが犇めいていた。
活気。
まさしくこの二文字を体現したかのような光景。思わず不知火は立ち尽くした。不知火が最初にいた街、ジェイエースなどとは比べ物にならない。人がたくさんいると分かり、咄嗟に身嗜みを確認する。とはいえ鏡など無い。近くの水路に移動し、水面を覗き込む。
道中、不知火は様々な情報をウサ耳の中年男、アーヴァインから聞きだしていた。というより、不知火が0.3話すと、アーヴァインが20も30も語りだすのだ。1を聞いて10を知るより遥かに効率的だった。そう、不知火はアーヴァインという一見誰も得をしないであろう人物に、便利な説明キャラとしての役割を見出したのである。
特に有用だったのは、この世界の常識や地理などではなく、スキルについての情報だった。
この世界におけるスキルは大まかに2種類に分けられる。アクティブスキルとパッシブスキルである。
アクティブスキルとは、スキルの発動効果を念じる、或いはスキル名を口にすることで発動する。
逆にパッシブはその必要がなく、特定条件下で自動的に、或いは常時発動するタイプのスキルである。
不知火がさり気なく要望を伝えると、それを叶えるためのスキルの詳細をアーヴァインが次から次へと紹介する。或いはアーヴァインが気を回し、あると便利なスキルというものを知り得る限り語りだす。立ち振る舞いは完全に商人のそれだったが、自称教師というだけのことはあり、その知識は確かだった。
そんなアーヴァインが真っ先に不知火に伝えたスキル。それは衛生管理系統のスキルである。スライム種が先天的に有しているとされるそれらのスキルを使用すれば、服や体の汚れをある程度落とすことができる。
おべっかを並べながらも、アーヴァインもまた、不知火のみすぼらしさに思うところがあったのだろう。
ちなみにこのスキルはスライム種以外が使用すると効果が弱くなるか、或いは多量の魔力を消費するのだが、そこはそれ、全てのスキルを有し、全ステータスがカンストしている不知火である。様々なスキル強化系スキルが作用を及ぼし、一発使用すれば新品同様の不知火へと早変わりだった。
ともあれそのスキルを活用し、汚れが無いことを確認した不知火。水面にはもはや、浮浪者のような薄汚い小太りは映っていない。今の不知火は清潔な小太り。社会人として最低限のマナーは弁えているつもりだった。
「それではマサヤ様、本当にありがとうございました」
「あ、いえ……」
笑顔を浮かべるアーヴァイン。ほうれい線が深まる。その後アーヴァインは何やら深刻そうな表情で「では、私にはやらなければならないことがありますので……」などと口にしていたが、不知火にとっては知ったことでは無かった。ようやく別れることができたと、ほっと一息ついて歩きだす不知火。
街を歩けば、やはり人人人。商人風の者から、冒険者風の者もいる。中には貴族らしき者達も。或いはアーヴァインのように頭から耳を生やした獣人もいる。様々な職種人種が溢れかえる。それが帝都<ペード>だった。
そしてその中には、所謂『あの身分』も──。
「よし、こういう大都市に来てやることと言えば一つしかねえ」
不知火は覚悟を決めた。
§
喧騒を掻き分け、酒場のような建物からのそのそと出てくる不知火。その手には、大量のゴルドが入った革袋が握られていた。
「やべえ。一気に貯まったわ」
喉を鳴らし、小物臭く笑う。アーヴァインと別れた後、不知火が向かったのはギルドなどではなく、カジノ。不知火はアーヴァインから聞いた、「アイテムドロップは毎回発生するわけではなく、確率は幸運値に依存する」という情報と、今まで全ての戦闘においてアイテムを入手してきたという事実から、自身のゲーム的LUCK値が凄まじく高いことを確信した。高いも何もカンストである。
さらにこの幸運値は、発揮される場面がある程度限られるらしい。即ちそれは『勝負事』である。客観的な勝ち負けが表れるようなものであればある程、幸運値はその効果を発揮する。
「んぬふふふふ。チート様様だぜ」
袋の底を、空いている手で持ち上げたり下ろしたりして、金の感触と重さを楽しむ不知火。手の上下に合わせて、革袋がじゃらじゃらと形を変える。しかし何時までもそんなことをしているわけにもいかない。そっと周囲を確認し、物陰でアイテムボックスに革袋を放り込む。するとステータスの所持金欄がパッと更新された。
──『所持金:2,000,000G』
にんまりと笑みが浮かぶ。気色悪い笑いが止まらない。必死に押さえつけようとして、さらに不細工なことになる。周囲が怪訝な顔で不知火を避けていく。しかし無理もないことだった。殆ど無一文の状態から、その辺のどうぐ屋程度ならば丸ごと買い占められそうな程の金を手に入れたのだ。
(いやはや、ようやくチートらしくなってきたじゃねえか。この調子であと何回か荒稼ぎさせてもらおうか)
ちなみに既にブラックリスト入りは確定である。相変わらず不知火は都合の良い頭をしていた。
さて、たしかにRPGなどにおいて、金は稼げる時に稼ぐというのはごく普通の考えであり、縛りプレイやタイムアタックをしているわけでもなければ、所持金を増やす事はプレイヤーとしてやるべきことの一つである。
しかし不知火は今回、手っ取り早く稼ぐことのできるカジノを選んだ。且つ、それをこうして切り上げてきた。それには一つ、重大な理由があった。
(こういうのは迅速さが命だ。良い商品は早く売れていくからな)
足を速める不知火。日本トップのメトロポリタン──東京で培った人混み歩行スキルを最大限に駆使し、誰ともぶつかることなくクネクネと進む。急がなくては。もっと速く進まなければ。不知火の目はぎらぎらと燃えていた。
途中案内板と睨めっこしながらも、移動すること数分。不知火は己の目の前に広がる光景に、思わずごくりとつばを飲み込んだ。自然と口元が吊り上がる。
「お、おおっ……! ここが……」
ついに辿り着いたのだ。今回の最大の目的地。不知火の知る限り、もはやお約束と言っても過言ではない市場。ここに来る途中にも見かけた、首輪と鎖で繋がれた小汚い格好の者達。ある者はペットのように主の後を追い、いくつもの荷物を運ぶ。ある者は工事現場のような場所で、監視員の下、きりきりと労働に勤しむ。そして今、この場所においては、そんな者達が牢に入れられ、或いは埃っぽい敷物の上に並べられている。そうこの場所こそが不知火の目的地。その名は──
「ついに来たぞ。『奴隷市場』……!」
§
奴隷市場には様々な人種が溢れている。人間もいれば獣人もいる。中には耳の尖ったエルフのような出で立ちの者もいる。奇しくもそれは、不知火がこの街で最初に抱いた印象と同じだった。しかし一つだけ違う点がある。
(誰にしようか……)
それは不知火の視線だった。不知火の目には女性奴隷しか映っていない。舐めるような、粘着質な眼差しで奴隷達を見つめる。顔、胸、腰、尻、太もも。何とも分かりやすい視線だった。
「まあ、奴隷を買って育てて強くするってのも、割とよくある話だし……この先戦力はあった方がいいし……」
もごもごと口にする不知火。無論そんなつもりは毛頭ない。裏切らない戦力を確保しようなどという真っ当な考えは、不知火の中に存在しない。
そう。不知火がなぜここにいるのか。それは即ち、性奴隷を購入するためである。
(レイプは犯罪だけど、性奴隷なら合法だよね!)
素直な男である。
ここにいる女性奴隷達。もはや不知火の目には、いつでもどこでも犯すことのできる肉穴としてしか映っていなかった。労働力や戦力としての期待など端から無い。皆無だ。ここにいる中から、自身の性欲のはけ口を金にものを言わせて手に入れる。もっと金を稼いで家も買おう。そして奴隷達を裸で侍らそう。不知火の頭に杜撰且つ都合の良い将来設計が組み上がっていく。
(奴隷なら好きに扱っていいんだよな? ほら、この世界ではそういうルールだから! だいたい奴隷になるやつってのは犯罪者か返せもしない借金抱えたやつって相場が決まってんだよ! 要するにそいつらに問題があるわけ! 金を払った俺がそいつらをどう扱おうが文句を言われる筋合いは無いね! 人権? 知らん知らん! フハハハハハハッ!)
内心で出来もしない高笑いを上げる不知火。実際にやろうとすれば空気の抜けるような声で「ふぇひゃははは……すいぁせん……」などと口にするのが関の山である。
いつも通り自己正当化をしつつ、ねっとりとした視線で物色していく。どの奴隷も、不知火目線で見ればなかなか優れた容姿をしている。少なくとも、日本における不知火の周囲の女性達では到底太刀打ちできないだろうと不知火は考えていた。その女性達からしてみれば、不知火こそその辺の奴隷にも劣る評価だったのは言うまでもない。
(おっ! これは!)
不知火の濁った視線がある奴隷を捉えた。豊満な乳房。柔らかい線を描くヒップ。不知火とは違ってくびれた腰。可愛らしい小顔。緩いウェーブを描く亜麻色の髪。そしてより……
(犬耳! 犬耳! そうだよ、これだよこれ! あんなアーヴァインじゃなくて、こういうのを俺は求めていたんだよ! これぞ獣人! これぞ異世界!)
最初の仲間をまさかのパチモン呼ばわりする不知火。しかし実際、不知火にとっての獣人とは彼女のような存在を指す。というより女性を指す。男の獣人など獣人ではない。ただの獣だ。噛ませ犬だ。猪突猛進気味に主人公に絡み、そして主人公を持ち上げるためのステージギミックとなってあっけなく敗北する負け犬なのだ。あるいは描写すらされない。存在してはならないのだ。不知火はそう考えていた。
「あ、あの……」
スタッフを呼ぼうと、片手を上げる。今にも消え入りそうな不知火の声は、雑踏に紛れて本当に消えてしまった。不知火は一先ず、この犬耳女奴隷を購入しようと考えていた。そう、"一先ず"である。金は大量にあるのだ。たった一人で終わらせるつもりなどない。不知火の目は爛々と輝いていた。そんな不知火を、犬耳奴隷が死んだような目で見つめていた。
やがて不知火による必死の訴えが功を為したのか、たまたま近くを通りかかった一人の男性スタッフがニコニコと笑いながら近づいてきた。
「お客様。ご購入なされる奴隷はお決まりですか?」
「え、あ、この、この犬の……」
なぜか急に恥ずかしさを覚える不知火。例えるならば、初めてエロ本を買いに来た時のような感覚。まるで自分の欲望とその先の行動が見透かされているような気まずさ。煮え切らない様子で辛うじて犬耳奴隷を指さす。
「なるほど。この狼人族ですね? いやはやお目が高い。狼人族は見た目が若い期間が長く、さらに鍛えれば労働力としても──」
慣れた様子で犬耳奴隷のメリットを語るスタッフ。恐らく初めて奴隷を買う客などに対してはこのように様々な観点からのメリットを説明することで、客の中に外聞の良い購入理由を構築していくのだろう。そして案の定、最初は丸出しとなった性欲を見られた気恥ずかしさに狼狽えていた不知火も、「そんなメリットが沢山あるなら奴隷を買うのも仕方ないよね!」という顔つきになっている。流されやすい男である。もちろん結果購入した後にやることは変わらない。
そしてスタッフの語りが終わると、不知火はビジネスマンのような面持ちで所持金を確認した。もはや購入の意思に揺らぎはない。
「ん? この子……」
金額について詳しい話を聞こうとする不知火。その時ふと、不知火の耳をイケメンボイスが襲った。
「すいません!」
鋭い声と共に、不知火とスタッフの間に人影が現れる。突然のことに呆けて口を開ける不知火。
「はい何でしょう」
「この子、実はオレが予約してたんですよ」
突如として現れ、爽やかな笑顔でそんなことを宣う謎の人物。よく見れば、その子はまだ幼い少年だった。不知火の目には、小学校高学年から中学生程度の少年が奴隷市場に客として存在するという、凄まじいカルチャーショックを体現する光景が映し出されている。
不知火とスタッフの間に割り込むように立ち、とんとんと商談を進めようとする。貴族のように豪奢なジャケットを着ているその少年は、不知火など初めから存在していないかのように無視を決め込んでいた。
「えっ、ちょ、ちょっ! えっ!?」
不知火が叫ぶも、少年は鬱陶しそうな視線を寄越す。鬱陶しいのはお前だと、負けじと睨み返す。しかし人と目を合わせることができない不知火。一瞬で負けて視線を逸らす。しかしその一瞬で理解できた。否、理解できてしまった。
──『ジークフリート・アーレンベルグ Lv.76』
年不相応なレベルの高さ。そして茶色い髪に、強い意志を宿した双眸。まるでハリウッド子役の様に映える顔。不知火の脳内に、ジェイエースで遭遇した黒髪の悪夢がチラついた。
「少々お待ちください」
そう言ってスタッフの男は、耳に取り付けた石のような物で会話を始めた。どうやら通信機能を持つアイテムらしい。やがてこの市場の責任者の様な男性が現れた。緩いパーマのかかった、金髪碧眼の若い男性だった。
「この市場の支配人を務めさせていただいております、ロイスと申します。聞けば何やら、こちらのお客様が奴隷を予約していた、とのこと」
ちらりとジークを見る金髪碧眼の男。ロイスと名乗った支配人は、一瞬何か面白い物を見つけたような表情をするも、すぐさま支配人の顔に戻した。きょとんとするジーク。この思わせぶりな態度とやり取りに、不知火が内心で盛大に舌打ちをしたのは言うまでもない。
「さて、この奴隷市場においては"先着"こそが絶対のルールでございます。無論後から顔を出して倍の値段を払うと仰られても対応いたしません。その場において先に"買う"と宣言した方にこそ、権利が与えられるのです」
不知火はロイスの言葉に、思わずニヤリと笑った。ジークフリートという少年は自分よりも明らかにあとからやって来た。恐らくこの先に続く言葉は自分に有利に傾くはずだ。いつまでもイケメンばかりが優遇されると思うな。心の中の笑いが止まらなかった。
果たしてロイスが再度口を開く。視線はジークへと向けられていた。
「さて、そちらのお客様にお訊ねします。貴方は予約をしたと仰った。しかし現場における"先着"の"宣言"を絶対とする当市場において、そのような制度は定められておりません」
「なっ……!」
ジークが固まる。不知火は醜悪な笑みをさらに深めた。ざまあみろと、その目は語っている。
「──ですが」
しかし次の言葉で、今度は不知火が固まることとなる。
「もしその予約とやらを──『この場において先に買うと宣言した』ということを証明できるのであれば、お客様のご主張を認めましょう」
所々に敬語が入っているものの、ロイス支配人の言葉はどこか上から目線だ。恐らくそういう性格なのだろう。慇懃無礼とはこのことか。しかし不知火にとってはどうでも良かった。どういうことだ。何が起きている。不知火の脳内はちょっとした恐慌状態に陥っていた。
ロイスの言葉は一見不知火に有利な言葉を口にしたかのように聞こえる。しかしそんなことは全くない。むしろ不知火からしてみれば、自分から奴隷を横取りする機会をジークに与えたように見えた。明らかな贔屓だ。
(なんでだよ。意味わかんねえ。てめえ男だろ。女ならそこのジークなんちゃらとかいうイケメンに惚れたからって理由なんだろうけどお前男だろ。ホモかよ。もしかしてそいつが貴族だからか? いや、でもこいつ明らかにそこのガキを見下してる感じだしな。貴族相手だからって媚び売るキャラには見えねえ。見下してるっていうか、からかってる? …………まさか)
不知火の背中に冷汗が浮かぶ。
美少女奴隷を買おうとしているところに颯爽と割り込まれる。その割り込んだ人間はイケメンの少年。そしてなぜか奴隷市場のトップが登場。そのトップは、少年の持つ『何か』に気付き、面白いものを見つけたという顔をする。さらにそいつは恐らく、盤上を俯瞰し、主人公をからかうような態度でその行く末を"鑑賞"する類のキャラクター。
そう、これは所謂、一つのイベントシーン。ヒーローとヒロインが出会う場所。不知火はまたしても巻き込まれたのだ。
見れば犬耳奴隷は、死んだような目でジークを見つめている。不知火ではない。不知火の目の前に立つ、後からやって来た少年を。
ジークは座っている犬耳奴隷の前にしゃがみこみ、にこりと微笑んだ。
「オレはこの男よりも先にキミを買うと言った。そうだね?」
どこか困惑したように、ジークをじっと見つめる犬耳奴隷。垂れていた耳がぴくりと動く。
そんな二人を、ロイスは面白そうな表情で見つめている。
そんな二人を、不知火は絶望にまみれた表情で見つめている。
「大丈夫だよ」
優しげな声。ジークの言葉に、犬耳奴隷は初めてその視線に感情を滲ませた。瞼が震え、そっと俯く。まるで不知火が犬耳奴隷に何かしでかしたかのような言い草に、不知火は怒りを込めた視線でジークを睨み付けた。
「……ぃ」
今にも消え入りそうな声。されど、強い意思のこもった声は、雑踏に紛れて尚、はっきりと不知火たちの耳に届いた。
「はい、そうです……っ!」
──初めてだった。
犬耳奴隷の少女にとって、奴隷市場に来る客は皆、脂ぎった目で自分という"モノ"を見つめる者達ばかりだった。だからだろうか。きっとそれは必然だったのだろう。綺麗な顔をした少年が"自分"のことをじっと見つめていることに気づいた時、彼女の中で、今まで感じたことの無い何かが芽生えたのは。
奴隷市場に来る人間の目的など、殆ど決まっている。女性の奴隷ばかりをみている者であれば尚更だ。そんな者達の視線に毎日のように晒され、いつどんな相手に買われるのかと怯える日々だった。しかしそれも長くは続かない。やがてどの奴隷も、誰に買われてもどうせ同じだと考え始め、全てを諦める。自由も権利も認められず、家畜同然の扱いを受け、ひたすら欲望のはけ口となる。もはや確定した絶望。ここに来るどの客に買われようとも、いずれ待ち受ける未来は一つなのだ。この奴隷市場に来る人間の目的など、殆ど決まっているのだから。
この犬耳奴隷も、そんなありふれた奴隷の一人だった。
今日この日までは。
「これで証明できましたよね?」
「うっ、ぐぅっ……!」
──勝者と敗者。
犬耳奴隷の放ったたった6文字の言葉。ただそれだけで、両者の立場は決まった。
屈辱のあまり、その顔を醜く歪める不知火。勝ち誇り、笑みを浮かべるジーク。ジークが内心で自身を見下していることに、不知火は気付いていた。しかしそれを言ったところでどうにもならない。屈辱が肥大化していく。
(クソが! こんなところで女を見てたってことは結局肉便器が欲しいだけの変態の癖にぃぃっ!)
珍しく本質を抉る指摘をぐっと飲み込む不知火。しかしそんな不知火を余所に、ロイスはジークへと近づいた。
「はい、たしかに。では詳しい手続きなどはあちらで」
ジークは犬耳奴隷の手を取り、ロイスの後へ続こうとする。
「なっ、おっ、おい! まっ……」
待ってくれ。そう言いかけて口を閉じる。不知火は見てしまった。自分に向けられるその視線を。
犬耳奴隷は相変わらず死んだ目を向けてくるのかと思いきや、その瞳は生気を取り戻し、不知火にその感情をダイレクトに叩き付けた。侮蔑、嫌悪、そして拒絶。これらの色を孕んだ視線が、不知火の心に止めを刺した。
やがて何も言わなくなった不知火を残し、二人は姿を消した。
「何なんだよ……」
§
気を取り直し、のそのそと奴隷市場を歩く不知火。しかしつい1時間ほど前までのあり余る獣欲はなりを潜めていた。どの奴隷を見ても、ふとあの視線が重なる。不知火を拒絶する、あの視線が。
(……ああああああああッ! クソッ! クソッ! クッソオオオアアアアッ!)
頭を掻きむしる。
忘れろ。
忘れろ。
忘れろ。
そう思う度、視線はより強くなる。何故こうも拒まれ、奪われ、見下されなければならない。やはり見た目なのか。なぜ彼らは自分から何もかもを奪っていくのか。自分は誰にも受け入れてもらえないのか。
不知火の目には、全てが敵に見えた。
地面を見下ろす。つま先が見える。そこに敵は居ない。
「……だめだ。かえろう」
俯いたまま、踵を返す不知火。声に力は無く、憔悴しきった表情からは窺い知れない程の精神的ダメージを覗かせる。
やがて奴隷市場の出入り口が見えた、その時だった。
「お願いします! 娘が、娘がここに居るはずなんです!」
「それは有り得ません。ロリコニアにおける白兎人の隷属化は禁止されています。それとも我々が掟を破ったと、そう仰りたいのですか?」
視線の先に見える、白いウサ耳とくたびれたスーツ。よく見知った声の、良く見知った人物だった。