5・ばいばい
僕がここで過ごす最後の夜が、ついに来た。真っ暗な新月の日だった。
僕はいつかのように、屋根へ上っていた。なんとなくだ。本当に、なんとなく。昼間の墓参りの帰りに、思いついたから。だけど根拠はないものの、確信も抱いていた。
屋根の上に顔を出すと、果たして、そこにメイがいた。かれこれ2週間程だったはずなのに、3シーズン置くよりももっと、久しぶりに感じた。
暗闇に浮かぶ白い影になんと声を掛けたらいいかわからない。あれだけ探しても呼んでも出てこなかったのに、いざ目の前にいるとなるとどうしていいか迷う。するとその逡巡が空気を伝わったのか。
「こんばんは、めーちゃん」
ゆっくり振り向いた彼女が、控えめに笑った。静かな笑みに纏わりつく、その強烈な違和感に、僕はすぐに気付いた。
彼女の向こうにみえる夜空が、とても濃い。
なんだかメイは透けているようだ。いや、そもそも幽霊だしいつもそりゃ透けてたんだけど、今は特に、なんというか希薄なのだ。
「メイ」
「ふふ、久しぶりだねー。私に会えなくてさびしかった?さびしかったでしょ?」
「そんなことよりお前」
「あーあー、わかってるって、あんなのちょっとした可愛い悪戯じゃん。怒らないでよ」
僕に向かってどーどーという彼女は、まるでいつも通りのようだった。可愛いものか、と言う隙もない。しかし。
「最後の夏なので、幽霊ごっこをしてみました」
照れたような自慢するような口調は、儚げな存在感で紡ぎだされる儚げな声音には似合わなかった。それに対して突っ込もうとして、脳内リピートを経て気付いた。なんだって?
「……最後?」
「ん、そうそう。だから思い切っちゃったー。私を探すめーちゃんなんて初めて見たから、なかなか新鮮だったよ。面白かったなぁ。もっとちょくちょくやってみたら良かったな」
思い出し笑いをする彼女に、僕は戸惑いを隠せなかった。
最後の夏。やってみたら良かったな、なんて、なんで過去形なんだ。見慣れた笑い顔のはずなのに、どこか残る影は一体なんなんだ。
次から次へと浮かぶ疑問形だったけれど、僕には全部、きっと分かってしまっていた。うっすらしているその存在感が、答えだ。それが目の前にあるのだから。
「メイ、それ、どうしたの」
それでも僕は訊く。何がとは言わなかったけど、メイは何を意味したのか理解したらしい。
「あ-うん。ちょっともうね、なんか、ダメみたいなんだよね」
「なんで、そんな。いきなり」
「そうだねぇ、いきなりかもねぇ。私はこれでも、長居した方らしいけどね」
自慢げに告げる彼女に、どこ情報なんだ、という突っ込みはさすがにできなかった。
「めーちゃんも大人になったしさ。なんかもう、私もいなくてもいいかなって」
「なんだそれ……」
「そのまんまだよ。めーちゃんが聞いたんじゃない、私が成仏しない理由。実は私もあんまりちゃんと考えたことなかったんだけどね。死んだことも、幽霊として現世にいることも自覚してたのに、なんでだろう」
メイがまた笑うけど、もうそれが何笑いになるのか分からない。でも、と彼女が、真っ黒な目を合わせる。
「そういえばめーちゃんに会うのが、それだけがいつも楽しみだったな、って。きっと私は、めーちゃんに会いたかったんだと思う」
まさか。僕のせいで。だって僕は、短い夏休みの間だけの存在で。確かに僕にしか見えず僕にしか触れないとか、僕だけが特別だったけれど。ただそのためだけに?
「……僕が、メイを引き留めてたの?」
「うーん、言い様によってはそうなるのかなぁ」
何を言っていいのかわからなくて、僕は「ごめん」と呟いた。それだけしか言えない自分が馬鹿みたいだ。メイはゆるゆると頭を横に振った。
「めーちゃんに謝られることなんかないけど。楽しかったよ、私は。ずっとずっと会いたかったから。生まれてくる弟に」
昼間の祖母ちゃんの話が蘇る。僕を一番楽しみにしていたのは、メイだと。
「実はずっと見てはいたんだけどね。小っちゃい頃とか、めーちゃんは本当泣き虫だったよねぇ。お引越しして会えなくなって、夏に帰ってきためーちゃんに、思わず声を掛けて、見えてるし聞こえてるって知った時は嬉しかったなぁ。でももう、十分。おっきくなっためーちゃんには、私は必要ないでしょ?シスコンじゃあるまいし」
「ブラコンに言われたくない」
「あはは、それは否定できない!」
今日一番で明るい笑い声だった。でも僕は笑えず、そして、沈黙。
「……もう、いなくなるの?」
「そうだねぇ、今日は新月だし。めーちゃんへの仕返しも済んだことだし」
「仕返し?」
「そうそう。あの嫌がらせはねぇ、まるで私を邪魔者のように言った罰だったのです!」
「嫌がらせ……」
僕の体中にあざを作ったことなら、まさしく嫌がらせだったことは間違いない。祖父母への誤解はいまだ解けないままなのだ。
「めーちゃんも明日帰るんでしょ?」
「うん」
「だから、ちょうどよかったよ。ちゃんと最後に会えたしさ」
あっけらかんと言うメイが、滲む。彼女の力が弱くなっているせいだけじゃないのは分かっていた。だって、でも、最後とかさらっと言うことじゃないだろう。
「あーもう、湿っぽいのは好きじゃないの!男の子でしょー。来年には大学生でしょー」
「……うん」
「ほら、明るく!笑ってよ!」
そういうメイの目には、本当に涙1つ浮かんでいない。なんなんだよ、いつもは僕以上に泣き虫のくせに、こういう時ばっかり。薄情者め。僕の方がよほど素直じゃないか。苦笑したメイが僕の頬をぬぐおうとして、迷った指先は結局、離れていく。
そして。
「ありがとう、アキヒコ。ばいばい」
遠くで鳴った鈴のような、幻のように軽やかな響きを残して、彼女の気配は完全に消滅した。
僕は姉さんに、さよならを言えなかった。
***
思い出したことがある。
それは彼女に初めて会った夏。僕が田舎へ帰る前夜、危ないからやめようと渋る僕を彼女が引っ張って、屋根裏から屋上へ連れ出した時のこと。
「ねぇ」
「ん?なぁに?」
「どうしてお姉ちゃんは、ぼくのことめーちゃんって呼ぶの?」
「だって、めーちゃんは明彦じゃない」
「うん。アキヒコだから、めーじゃないよ」
「うーん。明るいって漢字、わかる?」
「そんなのわかるに決まってるだろ。とっくに習ったよ」
「そうだよね。……メイお姉ちゃんの名前はねぇ、ほんとはメイコっていうの」
「めいこ」
「そう。明るい子って書くんだ」
「明子」
「うん。めーちゃんとおそろいの明るいっていう漢字なの。それが嬉しくて、そうやって呼んじゃうんだ。ダメかな?めーちゃんって呼ばれるの、きらい?」
「……ううん。それでいいよ」
「そっか。良かった」
彼女の表情は、よく変わる。目まぐるしく変わる。だけど圧倒的に多いのが笑っているところなのは間違いない。
そして一番きれいだと思ったのが、このほっとしたような、月夜に照らされた笑顔だった。
***