椅子をめぐる4つの話 第2話
椅子をめぐる4つの話の第2話です。
シリーズものではなく連載小説とすべきだったことを反省しています。申し訳ありませんが、第1話から読んでくださるようお願いします。
(2)冷え性の彼女の場合
夜10時半を回った社内は人気がなく、静まりかえっている。維持管理費を削りたい総務部の意向で、オフィスの照明は遅くとも8時消灯、空調も一緒に落ちるようになっている。自分一人しか残っていないフロアでは、冷気がしんしんとにじり寄ってくるようだ。ノートPCのキーボードは熱を持っているけれど、かじかんだ指先は結露したように、変にしっとりと濡れ、手を重ね合わせて押し包むようにぎゅっと握り込んでも、全く暖まらない。
(辛い季節が来るな、)
毎年のこととはいえ、憂鬱になる。重度の冷え症で──と、勝手に自分で認定している──、酷いときは爪が紫に変色する。生姜紅茶にホットヨガ、いろいろ試したけれど、いっこうに改善の兆しはない。
(そう、ないのよ)
つま先でキーボードをタッピングし、ディスプレイを見つめた。広げているのは、次号の特集記事の編集画面。
『今年こそ撃退!冷え性対策!あなたの冷えはどんなタイプ!?』
冷えに悩まされているから適任じゃない?と担当にされたが、もうやり尽くした身としては虚しさがつのる。
カラーバランスと文字の分量を確認して、私は念のため、上書き保存を二度押した。
紙面構成は、こんなところでいいだろう。
画面から視線を外す。暗い事務所内、消灯後の残業のため配布された卓上ライトと、PCのディスプレイだけが、ぼうっと、行灯のような淡い光の空間をつくっている。その光の届かない暗闇で、携帯電話がぴこんぴこんと、一定の間隔で青く脈動している。着信を示す点滅。
(まるで、死にかけのウルトラマンみたい)
自虐的な形容に、古いな・・・・、と失笑が洩れた。
昼休み、アルバイトの子とジェネレーションギャップをネタに盛り上がった。彼らのウルトラマンは、ガイアだのダイナだの言うらしい。名前が“いまどき”なのが笑える。
青い点滅の理由はわかっている。着信時のメッセージを確認したから。
『結城亮さんからメッセージが届きました』。
どうせ本文は、「祥子ちゃん、いま暇?」
見ていないけど、十中八九、間違いない。
(暇じゃないよ、忙しくもないけど)
編集ソフトを終了し、スケジューラーとメールソフトを立ち上げた。軽く目を通して、それらも終了し、ノートPCのシャットダウンを選ぶ。
(帰ろう)
ディスプレイでは勝手に設定の保存だのセキュリティチェックだののメッセージが流れる。PCが落ちるまでの少々の時間を利用して、明日の仕事の予定を簡単に付箋にメモし、キーボードに貼り付けた。画面が暗転すると、一段と闇が深さを増す。けれども、外灯や近くのビルの照明のあかるさで、真の闇にはならない。
鞄のなかに、財布、定期入れ、化粧ポーチがあるのを確認して、卓上ライトも切った。あらかじめロッカーからとってきていたジャケットを羽織り、さあ帰るぞと最後の気合いを入れる。
あ、携帯。
相変わらず、点滅をつづける携帯に気付き、僅かなためらいのあと、それを掴んで、操作しながら事務所の出口に向かった。
(画面の光が懐中電灯のかわりになる、なんて、ただの言い訳)
そう自嘲しつつ、見なければいいのに、どうせ内容は知れているのに、メールを開いた。
『祥子ちゃん、今ひま?』
彼は、年下にもかかわらず、こちらのことを祥子ちゃんと呼ぶ。
発信元は、結城亮。社の後輩だった。数年前リクルートに成功し、今は別会社で働いている。退職寸前に大学生からの彼女と結婚、寿退社と揶揄された。そのくせ、こんな簡単なメールでたまにお互い呼び出し、飲むかセックスをするか、両方か。こちらの縁はまさに腐れる一方だ。
着信は8時40分。まだアンケートデータを照合していたころだ。電子データ全盛の時代であれ、否それゆえにか、入力ミス、コピーミス、変換ミスなどのケアレスミスは多い。他にも、半角や全角が入り乱れて体裁が整っていなかったり。そういうものの修正は意外と時間がかかる。
忙しい、というのとは、違う感覚。ただ、時間を取られているだけ。充実も快感もない。
メールは、気付かないうちに、もう一通来ていた。
『10時まで飲んでるけど』
もう10時半だしね。返信する気も起こらず、ジャケットのポケットに突っ込む。
オフィス出口でセキュリティを起動し、職場にしばしの別れを告げて、駅に向かった。
駅は、徒歩5分とかからない距離にある。
地方都市の主要路線、快速は止まるけれど特急は日に数本、という駅だから、人の姿は少ない。パスケースでICカードの読み取り機をはじいて、改札を通り抜けた。
いつものホームにエスカレーターでのぼる。
ホームには誰もいない。私は、この駅のプラットホームが好きだ。ちょうど目の前に、巨大な橋が雄大な弧を描いて伸びていくのが見える。奥に深く刳りこまれた湾の出口を結ぶ橋で、かつては日本一の吊り橋、と言われていた。ホームから見ると、ちょうど視線と同じ高さを、4車線の車道を擁した道路の部分が、ゆるやかな湾曲を描きながら遠ざかっていく。橋は赤く塗られていて、それは全国的に珍しいそうだが、曇り空でも、ほんのひととき、旅立ちの高揚感といった、非日常の気持ちをかきたててくれる。
少し橋に見惚れたところで、違和感に気付いた。タイミングを図って会社を出たはずなのに、電車が来ない。
おかしい。
ホームの発車予定を見上げ、がっくりさせられた。15分、遅れている。
深くため息をついて、私はポケットの中の携帯電話を取り出す。10分なら考え事をして過ごせるけど、15分は長い。メールを送るのは格好の時間つぶしになる。
私は、ベンチを探した。どうせ人はいないのだから、少し座りたい。
と、そのとき。
如実に、あからさまに動揺が見て取れるほど、私ははたと足を止めていた。
(・・・・・なに?・・・・冗談でしょ)
──椅子だ、それも、社長椅子だ。
色あせたプラスチックのベンチと、自動販売機の間、白々とした蛍光灯に照らし出されて、いわゆる社長椅子が、そう、鎮座していた。厚みのあるクッション、屹立する背もたれ、深くきっちりとした縫い目、そういった特長を余すところ無く備えた社長椅子がそこに在る。何故もなにも、わき上がってくる様々な疑問など圧倒する存在感でもって、鎮座している。
(いや、あの、だってさ・・・・)
馬鹿な小娘のように、稚拙な単語しか出てこない。思考停止している。
(ここまで運ぶには、かなり重い代物でしょ。駅員さんの許可、いや、あの大きさだし、改札通らないよ、)
見れば見るほど、そこに在るのが不自然だ。ホームには誰もいない。艶々とした革張りが蛍光灯の光を照らし返し、ほの白く光っている。
触れていいものか、私は迷った。どこかの量販店で買った誰かが、運ぶのをあきらめた?誰かの所有のものなら触るべきじゃない。
けれど、いざなわれるように、すうっと、指を滑らせていた。吹きっさらしのホームに放置されていただけあって、表面は冷え切っている。けれども、冷たくて味気ないプラスチックのベンチに体を預けるのに比べれば、はるかに座り心地が良さそうだ。
魔が差した。私は、とすっと、体を預けていた。椅子はしっかりと体を受け止めてくれた。肘置きの高さも幅もちょうどいい。
(ああ、いいな・・・・)
目をつぶって深呼吸、数秒、体の伸びを堪能する。
がくん、と揺れが来て、進行方向にGがかかった。車輪を回転させるモーター音が、耳の底に響く。がたん、がたん、電車特有の揺れ。
驚いて、目を見開いた。いつの間にか電車に乗っている。車内は明るく、車窓には穏やかな田園風景が広がっている。
(ええ!?)
仰天して周りを見回した途端、ぬっと、缶ビールが差し出された。
『はい、祥子ちゃんのビール』
その人物は、明るいブラウンのセーターを着て、隣の席ににこやかに座っていた。シートのコートかけにコンビニのビニール袋が下がり、中にはチーズ鱈にじゃがりこ、干し梅。彼は袋の中を物色し、前後左右のシートの人と、和気藹々とつまみの交換をしている。お隣の老夫婦からポッキーを1袋手に入れて、コンビニ袋に突っ込む。
記憶にあるかぎり、自分のことを「祥子ちゃん」と呼ぶのは、結城亮しかいない。
『結城、くん?』
試しに呼んでみた。だいぶ、顔が違う気がするけれども。
『少し寝てたね。疲れてるんじゃないの?』
彼は気遣いを示しながら、網ポケットから大判の旅行雑誌を取り出した。旅館にお菓子の写真がでかでかと掲載されたそれをぱらぱらとめくり、こちらに見せる。
『自由時間、どこのお店に寄ろうか、僕はこのコロッケ屋が気になるんだけど。ほら、ネットのお取り寄せで10位内ランキングだって・・・・』
そう語りかけてくる表情は、春霞のように幸せそうで、かえって居心地が悪い。そもそも何の話をしているのか。
『えっと・・・・』
訝かしむのを、彼は誤解したらしい。
『祥子ちゃん?疲れてるんだったら、着くまで寝てていいよ』
ますます話が咬みあわない。
『着く?どこへ・・・・?』
『本当に大丈夫?ツアーに申し込んだじゃない、南九州の温泉巡り・・・・』
悪気も悪意も見られない笑顔が、かえって不気味なつくりもののように感じられた。
違う、私は、旅行なら自分で計画をたてる。お仕着せの、何からなにまで決められたツアーは、利用しない。その時の気分で、行き先を変えたいから。
違う、私はネットランキング上位が売りの、いつでも取り寄せられるお手軽なものに用はない。現地でしか手に入らないもの、ブームとちょっと距離を置いた、良質なものを見つけるのが好きだ。自分が本当に感動して、自分で評価したもの。
私のただならぬ様子に、結城と呼ばれて返事をした男は、ようやく不審なものを感じ取ったらしい。彼は子どもをもてあましたような曖昧な笑みで、戸惑いを隠している。
違う、こいつは、私の求めているものじゃない。これは、自分の希望の切れ端を歪めてつなぎ合わせた、幻だ。
『申し込んでないよ、私』
なるべく冷たく、宣言した。
『家に帰らなきゃ、明日も仕事だしね』
彼は、ひどく悲しそうな顔をした。がくんと電車が揺れ、キーイキキーィと耳障りなきしりが耳を裂いた。
その不快さに、私は目を瞑り、───。
「・・・・ご迷惑をおかけしております、踏切の信号が赤になっていたので、急停止しました。現在、確認中です。・・・・ご迷惑をおかけしております、踏切の・・・・」
車内放送が流れた。私は耳障りな停車音をこらえるためにつぶっていた目を、ゆっくりと開いた。
真っ暗な車窓、窓ガラスに自分の顔が写っている。
広がる闇の中に、毎日通り過ぎるネオンが浮かぶ。いつの間にか、きちんと電車に乗ったらしい。理解しがたいけれど、そういうことだ。
戻ってきた。
ひとまず、ほっと安堵が広がる。私はポケットを探って、携帯電話を取りだした。折りたたみのそれを開くと、宛先だけ入った、メールの返信画面が現れる。時刻は、10時50分。
文字が入力されるのを待つ、白紙の画面を見ながら、私は考えた。
──将来のないセックスをするたび、心は冷えて、躰も熱を奪われていくの。躰を重ねるごとに、冷え症になっていく。
私は、くす、と笑って、ぱちんと携帯電話をたたみ、鞄に放り込んだ。たまには返事しなくてもいいでしょ、どうせお互い、かけがえのない人じゃないんだから。
私はシートに深く躰を預けた。再び、車内放送が流れ始める。