二頭の龍
維月が先に、部屋へ帰って来た。維心が遅れて後ろから飛んで来て、自分の対へと戻って行く。十六夜は、一体どうなったのか知りたかったが、維月が珍しくとても深く悩んでいるようなので、自分から話してくれるまではと待った…おそらく、維月は、自分に長い間黙っていられない。いつも何でも相談し合って来たからだ。
思った通り、維月は目に涙を溜めながら十六夜の前に立っていた。
「十六夜…。」
十六夜はかわいそうになって、手を差し伸べた。
「どうした、維月?何を悩んでるんだ。」
維月は十六夜に抱きついた。
「十六夜、私、指輪のこと何も知らなかった。だって、これまで特別なことはなかったし、きっと何もないものだと思っていたの…でも、今日維心様の指輪と、私の指輪が、全く同じだってことに気が付いて…中に掘ってある言葉まで。しかも、名前まで。」と、十六夜を見上げた。「維心様のことは嫌いじゃないわ。最初に会った時から、なんて素敵なかたとは思ったの。でも、私、嘉韻と…。」
十六夜は顔色を変えた。
「…あいつと、行くとこまで行ったのか?!遅かったってことか?!」
維月は涙を流しながらきょとんとした。
「行くとこってどこ?森の中?」
十六夜は後悔した。そうだった、人の記憶のない維月だった。
「つまり、オレと夜ここでするようなことを、したのかってことだ。」
維月は、ああ、という顔をした。
「してないわ。会ってたのは外よ?そこであんなことするの?」
十六夜は渋い顔をした。
「…まあ、その気になれば、どこでも出来らあな。」
「でも、唇は合わせたわ。」維月はあっさりと言った。「それって、好きってことよね?私、嫌じゃなかったの。だから、きっと嘉韻が運命のひとなのかもって…でも、違ったのね。だって、あんなにはっきり書いてあったのですもの。」
十六夜は困った。運命以前の問題として、まさか維月は完全に嘉韻に惚れちまったのでは。
「…で、嘉韻が運命でなかったと、悩んでたのか?」
維月は首を振った。
「違うわ。どうしたらいいか分からないの…だって、維心様は私なんて望んでないでしょう。でも運命の人で。嘉韻は運命じゃないけど、私を望んでくれるんだもの。私、十六夜みたいに大事にしてくれるひとがいいの。運命だから仕方ないって結婚なんて嫌。想い合って、結婚したい。」
十六夜はフッと笑った。維月はいつでも変わらない。考えかたは同じだ。前世の維心も、ほとんど力技で維月を押して押して、あの愛情で押し倒したようなところがあるから。その愛情に応えなければと、維月も維心を愛したのだから。
「ああ、維心が元に戻ったら、あの愛情には誰も追い付けないってのになあ…。」
十六夜が呟くように言う。維月は十六夜を見た。
「元に戻るって何?」
十六夜は首を振った。
「きっと、まだ知るべきでないんだな。維月、お前の心はどうなのか、しっかり考えな。お前は誰を愛してる?」
「十六夜。」
維月は間髪入れずに答えた。十六夜は苦笑した。
「いやそれはわかってるが、あの二人のうちどっちかだよ。」
「わからないわ。」維月は言った。「わかってるのは、十六夜を愛してるってことと、そこまで二人ともまだ愛してないってこと。だから、どっちか選べと言われても選べないの。今三人のうち誰を選ぶと言われたら、迷わず十六夜を選ぶわ。」
十六夜はそれを聞いて、少しホッとした。維月は、オレと維心は選べなかった。でも、今は選んでいる。つまり、嘉韻ともまだそんなに深く心の繋がりはないということだ。まだ、間に合う。
「急がなくてもいいんじゃないか?ゆっくり話して知って行ったらいい。自分の中で結論が出るまで、どっちかとアレをしちゃならねぇぞ。」
十六夜は寝台を指して行った。維月は頷いた。
「わかった。アレって、こっちに決めたって意味ね?」
十六夜はなんと答えたらいいのか分からなかったが、頷いた。
「まあ、わかったんなら、そう思ってりゃいい。」
十六夜は、神の世の性教育が親任せという所を呪った。確かに人の世のようにそこらじゅうに氾濫しているのもどうかと思うが、神の世のように家で伝わる巻物を読ませるだけとかどうだろう。碧黎は地だから、月の子供の性教育など考えもしなかった。結果、前世の記憶のない維月はこんな感じになってしまっている。苦労するのは、いつも自分じゃないか。
十六夜はため息を付いた。明日から、維月と維心を徹底的に話させなければ。そして、維心の記憶が戻った暁には、散々文句を言ってやろう。
維心は、胸を抑えて左手の指輪を見た。
自分は、維月を求めて必死に己を抑える術を身に付けたのか。あの書をしたためた自分は、間違いなく維月を知っていた。そして、早く成人として独り立ちし、維月を迎えに来るように願い、なぜなのかは分からないが、その記憶を捨てて、記憶のない自分に託したのだ…誰かにかすめ取られない間に、維月を手にすることを願って。
維心は、今まで感じたことのない、しかし、なぜか覚えのある苦しさを感じていた。維月は美しい…神の女で、維月より美しい者を見たことはあるが、それでもこれほどに心を震わせた姿はなかった。話す様も、あの声も、笑う顔も、全てがただ胸を震わせ、あの懐かしい気は、自分を酔わせて捉えて離さなかった。運命なのだと知った時、自分の中から思いもしなかった喜びがわき上がった。
なのに、維月はただ戸惑っていた。そして、どうすれば良いのか分からずにいるうちに、考えるお時間を下さいませ、と、小さな声で言って、飛び去ってしまった…。
初めて会った時に見た、金髪の龍が気にかかる。二人で散策していたのか。しかし、二人の間の空気は、ただの友人ではないような気を発していた。
…かすめ取られる…。
維心は、また苦しくなった。このままでは、自分を信じて維月との未来を託した、記憶のある自分に申し訳が立たない…。何より、自分が維月を失いたくない。もしも記憶が戻るようなことがあれば、自分はどれ程につらいだろう。記憶が無くてこれほどに苦しいのに。記憶が戻れば、我は狂うかもしれぬ…。
維心は、眠れないまま夜を過ごした。十六夜は、なぜか我を助けてくれようとしている。十六夜に、もう一度維月と話をさせて欲しいと頼んでみよう。明日は、きっともっと維月と話す事が出来るはず…。
維心は、月を見上げてそう思っていた。
次の日、二人の部屋を訪ねた維心を、十六夜が対応した。
「なんだ、維心。早いな。」十六夜は寝ていたようで、伸びをした。「維月か?えーと…」
十六夜は振り返って、顔色を変えた。
「…居ねぇ。あいつ、さては眠れなくて散歩に出やがったな。油断した!」
十六夜は、じっと何かを探しているような顔をした。だが、ますます眉が寄るだけだった。
「…オレに気配が読めねぇのは、オレの結界の中に別の結界があるってことだ。お前の宮でもそうだろう?将維も、お前の対の結界の中は読めねぇ。」十六夜は考え込んだ。「…軍神の部屋か…。あいつらは結界を張って寝るからな。だとしたら、嘉韻の所かも知れねぇ…。」
維心は、それを聞いて踵を返した。まさか、昨夜のうちに?…そんなことは、絶対に…!
「維心!」
十六夜は、後を追った。昨日とは全く違う、維心の反応…。維心は、維月を想い始めたのか。維月には、昨日言って聞かせたからわかっているはずだ。だが、相手が本気で掛かればひとたまりもない…。
その数時間前、維月は眠れなくて起き上がった。月の宮の結界の中で、夜、危ない事など有りはしなかった。なので、維月はソッと部屋を抜け出し、湖の畔を歩いた。
月明かりで、水面がキラキラと美しい。維月はじっとそこに佇んで、十六夜に言われた事を考えた。自分の心…。
維月は、そこに座り込んだ。
嘉韻は、確かに好きだった。運命とか、維心とかなければ、恐らく迷いもなく毎日楽しく話していただろう。そのうちに愛するようになったかもしれない。
だが、維心が現れた。初めて会った時は、その姿に思わず見とれた…驚くほど自分好みだったからだ。
そして、懐かしく慕わしく、思わず駆け寄ってその胸に飛び込みたくなるような、そんな気持ちがした。でも、初めて会った神にそんな感情が起こることに驚いて、反応することも出来ずただ見ているだけしか出来なかった。
あまつさえ、その前に嘉韻に抱き締められ、想いを打ち明けられたところだったからだ。
…そんなにも愛してくれるのなら…。
維月は、その時そう思った。でも、維心を見て気持ちが揺れた。このかたに愛されたい…。
でも、そんな浅ましい事を誰にも言えなかった。ただ逃げ帰り、心の整理を付けようと思ったのだった。
そして、運命を知った。あの懐かしさ、慕わしさは、運命の呼び声だったのだ。でも、維心は何も言わなかった…きっと、自分などと運命なんて、戸惑ったのだわ…。
維月はなんだか悲しくなった。どうすれば良いのだろう。もういっそ、誰かに決まってしまったら…。
「…維月?」
聞き慣れた声が、自分を呼んだ。維月は驚いて振り返った。
「嘉韻!どうしたの…こんな夜更けに。」
「それはこちらの台詞ぞ。」嘉韻は維月に並んで座った。「いくら安全とは申せ、女が一人、夜中に歩き回るとは感心せぬな。」
維月は下を向いた。
「私、月だから。」維月は言った。「命に危険はないの。」
嘉韻はため息を付いた。
「そういうことではない。」と、維月の肩を抱いた。「男は、何をするか分からぬのだぞ?」
維月は嘉韻を見た。
「嘉韻はなぜ、ここに?」
嘉韻はしばらく黙っていたが、言った。
「我はの、軍神の中で、数少ない独り身であるゆえ、女が忍んで来ようとしよるのよ。それで部屋に結界を張っておるが、それに掛かると音が少なからずする。うるそうて目が覚めて…腹が立つゆえ出て参った。中に我の気がせねば、入ろうとはせぬし。」
維月は、それを聞いた事があった。押し掛けて妻になるなんて、プライドがないのかしらと思った。でも、変なことは言わずにおこうと思った。
「困ったわね。どうしたら、結界に触れなくなるの?」
嘉韻は驚いた顔をしたが、湖の方を見て、言った。
「…そうよの。今まで他に友が居たりしたら、その気を感じて少なかったの。それに、先客…つまり女の気がすると、来ない。」と、維月を見た。「主、番をしてくれるか?我は明日、任務が入っておるのよ。少しは眠りたいの。」
維月は、気の毒になった。別に、居るのは全然構わないけど。ただ、十六夜から、アレはしてはだめと言われているから、もしそれをしようとしたら断ろう。でも眠りたいと言ってるし、ないわね。
維月は頷いた。
「いいわ。私眠くないし、そこで座って書でも読んでるから。嘉韻、眠って。」
嘉韻は見るからに驚いた顔をした。微かに肩に回された手が震えている。維月は、どうしたのだろうと嘉韻の顔を覗き込んだ。
「嘉韻?夜が明けるわよ?」
嘉韻はやっと頷いた。
「では、参ろうぞ。」
嘉韻は維月を抱き上げ、自分の大きな宿舎の部屋に戻って行った。