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その時

阿久は、その宮を訪れていた。

今、拾われて世話になっている神は、そこそこの力を持っているらしく、龍の宮にも懇意と聞いていた。なので説き伏せて、新しく妃を迎えたというその王を、祝いに行く事に同意させたのだ。

己多からの命を受けた阿久は、この地で長く仙術で、生まれて来る神達の気を奪うことを続けていた。己多からは細やかに命の書状が届けられていたが、それが、龍王に気取られ、西の地へ攻め入ったのを聞いた時を境にふっつりと途絶えた。

己多が捕えられたと聞いた阿久は必死に己多の気を読んだが、己多は既にその記憶を無くしていた。そして、殺されては居なかったものの、それは阿久の知らぬ己多となってしまっているようだった。

身を寄せる場所もなく路頭に迷っていた阿久を、突然現れた、穏やかで優しい気の神が声を掛けてくれて、拾われた。

その神は不思議だった。男神であるので、おそらく阿久を拾ったのはそういう相手にするためであるだろうと思っていたのにも関わらず、その神は全く阿久には興味が無いようだった。

なのでせめてと、阿久は身の回りの侍女のようなことをすることを申し出た。なぜなら、その神の屋敷はまだ新しい香りがし、召使いもとても少なく、またいろいろなことに慣れないようだったからだ。

阿久は時にその神の話し相手になっていたが、その神はとても大きな気を持っているにも関わらず、とても無欲に見えた。

ひたすら地を平和にとそのことばかり考えていて、阿久には別の世界の住人のように思えたものだった。

やっと頼んで連れられて来た龍の宮は、とても大きく美しい宮だった。

仕える神は大勢居て、これほどに美しく洗練された宮を見るのは始めてだった。こんな大きな宮の王を仙術でなど…我に出来るだろうか。

阿久は、意を決してここへ来たというのに、その自信を揺るがせていた。

順番を待つ間、ふと一人庭を散策していた阿久は、覚えのある気を感じて急いでそれを探した。

そしてそれは、池の近くで見つかった。

「さあさ、こちらですわよ。」まるで子供に話し掛けるような感じだ。「これは、鯉、鯉ですわ。」

侍女らしき女は、その男の手を取って池の中を指しながら言った。男は言った。

「鯉…?池だ。」

侍女は嬉しそうに笑った。

「そうですわ!よくわかりましたこと。」

脳の病か何かだろうか…阿久が思っていると、その顔と気が遠目に見えた。

「ああ、己多様!」

阿久は思って、もっと傍で見ようと必死に寄って行った。己多は侍女に笑い掛けている。

「もう、かなりのことを覚えたぞ。我は…なぜに何も知らぬようになったかはわからぬが、だが、こうして覚えて行けば良いのであるな。」

侍女はそんな己多を見て微笑んだ。

「はい、さようでございまする。己多様はとても物覚えが早いかたでいらっしゃるから、きっとすぐに一人前になられます。」

己多は頷いた。

「王が、頑張れば軍に入れてくださると言っていた。我はそうなるように、努力しようほどに。」

侍女は己多の手を握った。

「はい。己多様ならきっと、お早くそのようになられまする。」

己多は嬉しそうにまた、池の畔を歩き出した。そして、ふと、傍に茫然と立ちつくす阿久に目を止めた。

「…このような所に誰か?」

侍女は、慌てて己多に追い付いて来て、言った。

「きっと、王のお客様でいらっしゃいまする。」と、阿久を見た。「失礼を致しました。ごゆっくりご散策くださいませ。」

己多も阿久に軽く頭を下げた。

「王の客人と。失礼した。」と、その侍女の手を取った。「さあ、参ろう。」

侍女は嬉しそうに頬を染めたが、その手を取って、己多と共に歩いて行った。離れて行く向こうから、侍女の声が聞こえる。

「まあ己多様…このようなことも覚えられたのですね。でも、我などただの侍女でありまするのに…。」

己多の声が言った。

「何を申す。主は我の恩人であるぞ。このように何もかも世話してくれておるではないか。始めは言葉すらわからなんだ我を。主のためにも、我は早く軍へ参って一人前にならねば…。」

阿久は確かに己多の声で、それを言うのを聞いて愕然とした。己多様は、完全に何もかも忘れてしまわれている。龍の王を、自分の王と呼び、それに仕えるべく精進するなど…。

それに、己多からは同じ気であるのに、阿久の知っている恨みの念などは全く感じなかった。苦しみもまたなかった。全て、取られてしまわれたのか。我を妃に迎えるために、この世を平定しようとおっしゃった、そして長く離れておってもそれは違えぬとおっしゃった、あのお言葉は全て消えてしまったのか…。

阿久は、絶望した。やはり龍王を消さねばならぬ。そしてこの術を解いて、己多様を我の知っておったあの己多様として取り返さねば…!

阿久は、胸にその決意を持って、祝辞を述べる順番を待つ、神の元へと戻った。


将維は、昨日と同じように一人一人の祝辞を受けて、維月と並んで座っていた。

その様子に変わったところなどなく、維月は逆に心配だった。将維は、維心と同じで変に落ち着いている。自分の死を前にしても、落ち着いて居られるのは、やはり王であるからなのだろうが、維月にはそんなことは理解出来なかった。将維は、誰よりもかけがえのない息子。今生では親子ではないけれど、この記憶がある限り自分は冷静ではいられない。なのに、少しも自分の身を守ろうとしない将維に、維月は焦燥感を持った。いつ、あの縁の相手が来るかわからないのに…。

一方将維は、特に気にしていなかった。

王であるのだから、今まで命を狙われることなどたくさんあった。皇子の時よりも増えたほどだ。だが、王座に就いた最初は、維心ほどではないだろうと甘く見て掛かって来た賊も、将維の気が同じように強いと知って、最近では少なくなっていた。今も、維月には言わなかったが殺意を持って入って来る客も混ざっていたが、将維の強い気を感じてその殺意を萎えさせて、黙って出て行くのを何人か見ていた。

命を狙われていると言って、いちいちそれに反応していては、王は務まらないのだ。

臣下が言った。

「東の大氣(だいき)様、お越しでごさいまする。」

将維は顔を上げた。東に、そのような神が居ったか。

それでも将維は頷くと、抜けるような青い瞳で、透き通るような空色の髪の男と、黒髪の女が揃って入って来るのを見守った。その男は言った。

「龍王、将維殿。初めてお目に掛かりまする、我は東の小さな領地の神、大氣と申しまする。こちらは阿久。蛇族でございます。」

将維は軽く返礼した。

「確かに初めてお目に掛かる。わざわざのお越し、感謝し申す。」

大氣は頭を上げた。

「父王の代にはこちらへも何度か来ておりまするが、将維様には初めてでございまするね。この度の祝い事、ではこの機会にとご挨拶に参った所存。以後、お見知りおきを。」

話しが進む中、阿久は手に握り締めていた魔法陣をベールの中で開き、そっと詠唱を始めた。このまま大氣様が長く話して下さっていたら、きっと出来るはず…我は仙術には長けている。

阿久は気取られぬよう、慎重に術を進めて行った。


維心が、こちら側で様子を伺っていて呟いた。

「…大氣と?我は知らぬ。」

十六夜が眉をしかめた。

「しかしあいつは何度が前世のお前に会ってるって言ってるぞ。」

維心は首を振った。

「知らぬ。我は神達のことは皆知っておる。何年生きておったと思うておるのよ。我は記憶力は良いほうぞ。」

十六夜は肩を竦めた。

「確かにな。お前の記憶力を疑ってなんかいねぇよ。じゃあ、あれはもしかしたら、ヤバイんじゃねぇか?」

維心は頷いた。

「我でははっきりと縁の色を読むことが出来ぬ。何しろ今日会うことも皆縁で繋がって起きておる事。全てが将維と繋がって見えて、我にはどれが殺しの縁なのか分からぬ。神威を呼べ。」

十六夜は踵を返した。

「昨日徹夜で将維の縁を切ってたから、起こしたら怒るぞ。とにかく呼んでくらぁ。」

十六夜はスッと消えて行った。維心は引き続き、じっとその東から来た二人を見つめ続けた。


碧黎は、十六夜に調べさせていた屋敷に降り立っていた。

ここは何か懐かしい匂いがする…何が懐かしいのか分からなかったが、なぜか懐かしい。

そして、ここには今誰も居なかった。最近建てたばかりであるような屋敷であったが、残っている気から感じるのはもっともっと古い記憶だった。

碧黎が不思議に思って屋敷を歩き回っていると、そこの文机の上に、書がしたためてあった。

 美しく、空に向かうは我と地の、命を分けて、咲いた花々

碧黎はそこを飛び出した。

…主か、気よ!

碧黎は思い出していた。この地に命を誕生させた時のことを。忘れていた…。いや、まだ記憶が鮮明でない時のことであったゆえ…。

碧黎は、龍の宮へと急いだ。


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