焦り
維心は、今日も訓練場に居た。
最早自分の相手になる者は、この宮には居なかった。父である王の将維でさえ、既に維心に付いて来れなくなって早50年、維心は何かに急かされるように、毎日訓練に明け暮れていた。
思えば50年前、いつ書いたのか分からないが、間違いなく自分の字で書かれた書が、自室の机の上にあった。
それには、こう書かれていた。
『己の中の龍を、一刻も早く凌駕せよ。必ず出来るはず…常やっていたことなのだから。それを成し遂げたのち、必ず求める者が主の前に現れる。しかし遅れれば、それは他にかすめ取られようぞ…。』
維心は、焦っていた。成人して数十年、確かに己を抑える術を身に付けた。なのに、我は何を求めているというのだろう。何も目の前に現れず、答えは見付からない。遅れれば、かすめ取られるとあったのに。
維心は、無意識に左手の指輪に手をやった。自分が生まれた時に、握りしめていたのだという。父はいずれ意味が分かる時が来ると言っていた。なので、肌身離さず身に付けよと。
言われずとも維心は、それを外す気にはなれなかった。これは我の求める者と、何か関係があるのだろうか…。
自分付きの軍神、義蓮が膝を付く。維心はそちらを見た。
「義蓮。何用ぞ。」
義蓮は顔を上げた。
「は。維心様、既に敵は居られぬようになられたご様子。それで我はお調べし申し、月の宮にたいそう変わった動きをする軍神が居ると聞きましてございます。」
維心は興味を持った。では、もっと技術を上げる事が出来るやもしれぬ。
「それは誠か。」
義蓮は頷いた。
「はい。どうやら月の力を持ち、未だ負け知らずとのこと。同じ月同士でなければ、相手をすることも叶わぬほどだとか。我が皇子なら、きっとお相手出来るものと、思いましてございます。」
それほどとは。
月の宮は、父もよく出掛けて行く。王の蒼とは昔から仲が良いのだと聞いている。維心はまだ、月の宮には出掛けた事がなかった。別に避けていたのではないが、将維が出掛ける時は自分が政務を代行しなければならなかったし、自分は月の宮に知り合いは居ないしで、行く機会がなかったからだ。
維心は父に許可を求めるため、父の居間へと向かった。
父は、いつものように定位置に座って、物思いにふけっていた。維心が頭を下げて入って行くと、顔を上げた。
「維心。何用ぞ。」
維心は言った。
「月の宮へ出掛ける許可を頂こうと思い、参りました。」
将維は驚いたように維心を見た。それには維心のほうが驚いた。どうしたのだろう。
将維はじっと維心を見つめていたが、言った。
「そうよの。」将維は言った。「それは構わぬが、急にどうしたのだ。主はあの宮に、行ったことはあるまい。」
維心は頷いた。
「はい。義蓮より、あの宮にたいそう強い軍神が居ると聞き、立ち合うてほしいと思いましてございます。」
将維はじっと維心を見つめた。前世の記憶が戻った訳ではないらしい。確かに、このかつては父であった、今は息子の維心は、転生前と同じように、最早自分では太刀打ちできないほどの速さと技術を身に付けている。より強い者と対峙したいと望むのもわかる。最近では、すっかり龍の気質を抑えることが出来るようになって、落ち着いた風情であるし、万が一記憶が戻ったとしても、もう良いかもしれない。
将維は侍女を呼んだ。
「先触れを。」侍女にそう、指示を出してから、維心を見た。「外出など久方ぶりであろう。蒼に知らせておくゆえ、ゆっくりして来るがよい。折角であるから、あちらを学んで参れ。ひと月時をやろうぞ。」
維心はびっくりした。ちょっと出かけるだけのつもりであったのに。だが、確かに龍と親交が深い月の宮、知っておかねば先々困るとお考えなのだろう。
維心は頭を下げた。
「はい。父上、行って参りまする。」
将維は頷いて、出て行く維心を見送った。しかし、全てはままならぬもの…果たして、此度もうまく行くのかどうか。
維月は、湖に座って釣りをしていた。最近は退屈で仕方がない。十六夜が軍神の真似事を始めて、それが面白そうだったので一緒にやってみたりもしたが、元々闘神ではないので、すぐに飽きてしまった。でも、十六夜は軍から指南の為に引っ張りだこで、共に何かして遊ぶという訳にもいかない。そもそも父の碧黎から、もう遊び回ってばかりではいけないと言われていた。女は内に篭ってじっと書を読んだり、縫物をしたり、茶をたしなんだりするのだそうだ。維月は自由にさせてもらって来たので、そんなことはカビが生えてしまいそうで嫌だった。それでも仕事だと言って出て行ってしまう十六夜を見送った後、しばらくは縫物をして、そして天気の良さに外へ出て来たのだった。
一向に糸は引かないが、外で風に吹かれているだけも維月は良かった。清々しい風…月の浄化の力のおかげだ。ふと横を見ると、軍神の将である嘉韻が歩いて来ているのが見えた。嘉韻は、鳥と龍の間の子で、金髪で赤い茶色の瞳の鳥の外見だったが、龍だった。最近、よくここで会う…嘉韻は、休みの日にここへ釣りに来るのだと言っていた。なので、週に二回はここでこうして会って、話していた。
維月は手を振った。
「嘉韻!」
嘉韻は微笑して歩み寄って来た。
「やはり本日も居ったか。主は釣りが好きなのか?」
維月は首を振った。
「そうでもないけど、他に外で一人で出来ることってないでしょう?嘉韻は、一人?」
嘉韻は苦笑した。
「友は皆家族サービスだと申しておった…妻や子が居るからの。我は独り身であるし、気楽なものよ。」
そう言うと、嘉韻は維月の横に腰を下ろした。
「主こそ、一人であるのか?最近は多いの。ずっと十六夜殿と一緒であったのに。」
維月はつまらなさそうに口を尖らせた。
「お仕事なのですって。別に良いけど…お父様も、それが成人するということだと言っておられたし。確かにいつまでもふらふらしていてはいけないわよね。双子だったから一緒に生まれて一緒に育って来て、一緒に居るのが当たり前で来たから、ちょっと離れてるのがいいと思うわ。ケンカばっかりしてしまうんだもの。」
維月はふーと息を付いた。その左手に何か光るものがある。嘉韻は維月の手を取った。
「これは、結婚指輪というものではないのか。十六夜殿は、していないようだが。」
維月は首を傾げた。
「そうなの?」と自分もその指輪を見た。「生まれた時に握り締めていたのですって。これがあるから、十六夜は夫だけど、他に夫が居る可能性があるのだと、父上は言ってた。だから、私には夫が二人になる予定なのですって。なんだかピンと来ないんだけど…十六夜は兄弟なんだもの。好きだけど、書とかで読む恋愛とは違う気がする…。こういう感じが夫なら、私二人も要らないんだけどな。十六夜が一番に決まってるもの。ずっと一緒に来たんだから。」
嘉韻は驚いた。確かに月は特殊だが、二人の夫とは…まるで、居なくなる前の維月様のよう。これは、やはり同じ転生した維月様なのだろうか。前世の維月様とは、接したことがあまりなかったので、よくわからないが…。
維月が、ふいに釣竿を放り出して立ち上がった。
「なんだか飽きちゃった。嘉韻、森の中へ行かない?昨日、野うさぎの赤ちゃんを見つけたの…とってもちっちゃくてかわいいのよ。地に足を付けずに気配を消して付いて来て。」
維月は答えも聞かずに飛んで行く。嘉韻は慌てて後を追った。
「維月?我は野うさぎなど…、」
しかし維月は、そんな声など聞いていなかった。
「なんだって?維心が来る?」
甲冑姿の十六夜が蒼に言った。蒼は頷いた。
「なんでも、月の宮の軍神が強いと聞いて立ち合って欲しいらしいぞ。将維はいい機会だから、こっちの事を学んで来いと、一か月滞在させるつもりらしいな。どう思う、十六夜。」
十六夜は考え深げに椅子に沈んだ。
「確かに落ち着いたようだがな。だが、そんなに簡単に記憶が戻るとは思えねぇし、すぐに維月がどうのとはならねぇと思うぞ。しかし、これで将維が維月の回りを意味有りげにうろうろするこたぁなくなるな。他の神ならいいが、あいつは維心にそっくりだから、維月が惚れちまわないか気が気でなかったんでぇ。無事に維心があいつと逢えば、万事うまく行くような気も…」と言い掛けて、眉を寄せた。「ああ、またあいつと一緒か。なんだって維月は、一人でふらふらしやがるんでぇ。」
と、十六夜は立ち上がった。月から何か見えたのだろう。軍隊の世話やら、維月の世話やらで、十六夜も最近は暇がないなと蒼が思っていると、侍女が入って来て頭を下げた。
「龍の宮の皇子、維心様のご到着でございます。」
十六夜は足を止めた。そして急いで蒼の横に立つ。蒼は玉座に座って頷いた。
「案内せよ。」
侍女が頭を下げて戸を開ける。そこには、幾分成長した外見になった、維心が立っていた。焦るゆえに成せる業か、本来20代半ばの外見のはずの230歳の維心が、今は30代の外見に育っている。前世の外見と、もうほとんど変わらなかった。蒼は思わずつぶやいた。
「維心様…。」
維心は、眉を上げた。
「蒼殿?我のことは、そのようにお呼びにならなくとも結構であるが。」
蒼はハッとして、頷いた。
「維心。将維から聞いておる。よう来られた。部屋は奥の対を使えば良いゆえ、ゆっくりしてくれ。」
維心は軽く頭を下げた。
「感謝し申す。ところで、我は今回は、軍の方を見たいと思うて参った。大変な手練れの軍神がおると聞く。」
蒼は頷いて、横に立つ十六夜を見た。
「これが、その軍神だ。正確には、軍神ではないのだ…月よ。」
十六夜は維心をじっと見つめて言った。
「オレは陽の月の十六夜だ。オレと立ち合いたいって?自信はあるのか、維心。」
維心はびっくりしたような顔をしたが、フッと笑った。
「そうでなければこんな所まで来ぬわ。手合わせ願えるか?」
十六夜は不敵に笑った。
「いいぜ。だが、来て早々帰ることになっても知らねぇぞ?」
維心は踵を返した。
「行こうぞ。訓練場へ。」
二人は並んで出て行く。蒼はため息を付いた…十六夜のヤツ、本気でやるつもりだな。
「…コロシアムの観覧場には、結界を張るように軍神達に伝えよ。」
けが人が出たらやってられない。蒼は観客を守る形を取っておくことにした。