第一話:エラー
興味をもって開いてくださった方に感謝を。
目を開けると視界いっぱいにシミ一つない真っ白な壁があった。
真っ白な壁?
いやいや、俺の部屋にこんなに綺麗な白色って存在しないはずなんだが…。
と疑問が浮かぶが、答えを導こうにも頭は霞がかかったかのようではっきりとしない。
あーこういう時は無理せず待つに限るなぁと、一先ず頭と身体に血液が巡るのを待つ。
徐々に頭の靄と身体の縛りが解けていくのを実感するにつれ、現状をうっすらと把握していく。
カーテンから漏れる光は薄暗いだとか、どうやら壁だと思っていたのは天井だったとか、鼻をつくのが微かなアルコール臭の混じる独特な臭いであるとか、腕に伸びる点滴が新しめであるとか。
ぼやけた意識で推察する、ここは何処なのかを。
見当はすぐに付いた。
職業柄普通の人間より多く世話になる場所だったから、知らない天井だというのに少し安心をしてしまった。
まあ天井の清掃具合を鑑みるに、いつも使っていた本当の意味での馴染み場所ではないのだろうが、その雰囲気は似通っている。
ここは所謂病室である。
……
誰でも簡単に導き出せる答えに満足している自分が、なんか妙に恥ずかしい。
…
とりあえず、未だ正常に働き出さない頭を動かすために、一番身近な自分の事から思い出すとしよう。
『ジョン・スミス28歳、コルサ・ノストラ所属の掃除屋』
よしよし、最低限最小限覚えておかなければいけない事を思い出せた。
後はそれをきっかけに芋づる式で自身のパーソナルデータが脳裏に溢れてくる。
尚よし、自分の事は恐らく完璧に思い出せた。
次いで自分が何故病室にいるのかを思い出そうとして、フラッシュバック。
「くそっ、エレ、イン、なぜおれをっ!」
声を出した瞬間、言葉を吐き出せる状態じゃないことに気付かされた。
がらがらの口内、弱った声帯。
しかしそれを理解しても、叫ばずにはいられない。
思い出した内容があまりにまずかったから。
激情に突かれて身体が跳ね上がるが、途端にやってきた気持ち悪さを伴う目眩に抵抗できず、身体は再びベッドに沈む。
「なんつー、初歩的な、ミスを」
病室にかつぎ込まれるような状態で寝かされていたのだろうに、急に身体を起こそうなんてそりゃ無理難題なお話。
焦り逸る気持ちを抑えつつ、自分に言い聞かせる。
とにかく今は一つ一つの事象を解きほぐすように現状の把握に努めなければ。
意識の覚醒はまた暴発する可能性があるので、まずは自分の身体を調べて一息をつこう。
未だに先程の反動でどうしようもない程の気だるさがあり、掛けられているシーツを退けての確認はまだだが、微かに力を入れて軽く身じろぎをすることで四肢から反応が返ってくるのを確認。
まず四肢欠損の可能性が消えて大きく安堵する。
安堵によって激情がある程度落ち着いたのを感じ、一息つく。
心に余裕が出来た今の内に、記憶を掘り返そう。
病室に至るまでの、恐らく一番新しい記憶。
それは俺がよく使っていたセーフハウス近くの路地裏で、一番弟子のエレインと向かい合っている場面だ。
記憶の確認の為、俺の初めての弟子エレインについて少々掘り返す。
藍色の髪を肩口まで伸ばし、すっと通った鼻梁は高く、切れ長の目はいつも変わらない涼やかな眼差しで、顎のラインはしゅっとしていて恐ろしく小顔様。ほりも深くて印象的。もう駄目だしするのが難しい!ってぐらいの美人である。
しかもスタイルも抜群である。全体のシルエットがすらりと細く、胴は短く足は長いという、ケチのつけようのないモデル体型。
服装はその性格を表すように飾り気が少なく、小奇麗なものを好む。仕事着としてよく着ていたタイトなスーツがまたびしっと似合うんだわ。なんというかまるっきり敏腕秘書か女社長という感じ。
実際俺の五つも年下なのに、組織からの信頼は俺より篤く、今では直属の上司の秘書の真似事まで完璧にこなしている。
あの幼かった少女が、ここまで成長したことに、俺は嬉しさを感じていた。
うむ、俺は育て方を間違えなかった。
……掘り返すべき所からだいぶ逸れてしまったな。
ま、まあ、これで自分の事だけじゃなく、他人の事も正常に思い出せることが分かったし、良しとしよう。
さて、次こそはちゃんと最期の出来事をゆっくり思い出そう。
エレインはいつもの冷静沈着な仮面をかなぐり捨て、泣きながら叫んでいた。
「何で、何で私が先生を殺さなきゃいけないんですか!」
普段なら見せない感情丸出しの顔、普段なら出さない叫ぶように荒れた声量、普段なら呼ばない昔昔に呼ばせた戯れの愛称、普段なら気にかけない仕事への疑問。
そんな様を見せつけられて、ああ、俺はこいつに愛されてたんだと、深く実感する。
「お前が組織から命令されているからだ」
「だからなん」
「俺が組織を裏切ったからだ」
「なっ!」
こらこらターゲットを前にして、そんな阿呆で可愛い間抜け顔をするんじゃない。
「まっ、という筋書きなんだけどな」
お前がそんな体たらくじゃあ、俺もシリアスを保てなくなるだろう?
「えぇっ?!」
「本当はネタバラシせずにお前に殺されるのが格好良くてまさしくハリウッド!って感じなんだろうけどさ…お前はとことん探るだろうし、しょうがなく他言無用っつー事で話す」
お前が余りにも取り乱してるから、俺はいつも通りを振る舞いたくなるじゃないか。
「先生?」
「先に結論だけささっと言っておく、俺が死ぬのは避けられない。もう筋書きは完成されていて、包囲網も完璧に仕上がってる。
次いで理由な、これまた簡単な話で、お仕事をしすぎた俺はここいら一帯を無事に統合させちゃって、そのせいでまんまと用済みになっちまったつー訳」
「そんなっ、そんなの!」
「お前は賢い奴だ、色々複雑に絡み合った思惑ってのを、そしてそこから俺が助かる術がないって事も理解できてるだろ。
全く、小さく降り積もった事情って奴を、軽視しすぎちまったなぁ」
自分でも乾いて、苦りきった笑いを浮かべているのが分かる。
軽口ではなく本音で、こんな弱々しく、後悔を乗せた言葉を他人にぶちまけるのは、人生で初めての経験かも知れない。
「……一つだけ、包囲網を抜け出す方法はあるじゃないですか」
俺が今しているであろう表情に、恐らく似ている笑みをエレインは浮かべる。まるで鏡の如く。
「あるなぁ確かに」
まあけどな、と続けて答えを返す。
「アイリスを見捨てることは出来ない。俺は俺の仲間と家族を決して見捨てない。もしそれをやっちまったら、俺には何も残らん」
そこには苦い笑みも乾いた感情も、後悔の一片も無い。
「…ですよね。だから私も先生もこんな状況に陥ってるんですよね。
じゃあ、先生。何で態々私なのかを聞いていいですか?」
エレインは苦味こそ消えたが、少し困ったような笑みを浮かべた。
先生と言う語句に力を込めて、何故態々貴方と近しい私を選んだのか?と問うてくる。
「今回は俺が死ぬ事でアイリスを助けられる、けれど俺の娘という肩書きは別の厄介事を生むだろう。だから守ってやって欲しいんだ。俺を殺して得られるだろう組織内の権限で、少しの間組織内の不穏を抑えてやってくれ」
「酷い話です、酷い人です。私が一番の貧乏くじです」
「ああ、家族を見捨てないなんて言いつつ、お前に責任を押し付けて俺は逃げようとしてる。それは本当にすまないと思っている。
けどこんな願いを託せるのは、世界中の誰よりも信頼できる仲間で、そしてアイリスを本当の妹のように愛してくれている家族の、お前しかいないんだよ」
「ぅ!それは‥不意打ちすぎませんか、せんせぇ」
涙ぐむエレインの姿に少し焦ってしまう。
あれ?この綺麗な生き物はこんなに可愛いかったっけか?
うぅむ、これは少し死ぬのを躊躇っちゃったり、
…
いや駄目だろ俺。
「まあそれにあれだ、殺されるなら自分の女の誰かにって思ってたしな!」
空気を無理矢理茶化して入れ換える。割合最低な方向で。
「……色々と最低過ぎます」
「ははっ、すまんな。
まあお前には絶対、俺の最後のわがままに付き合ってもらうぞ。
色々手筈はこっちで整えてる。俺が死んだらアイリスは人質から解放されるし、解放されたらマエダさんに日本まで運んでもらって用意もしてもらってくれ。
金はかなり積んだから我が儘言いまくって大丈夫だ。あの人は信用もできる」
方向性を完全に間違えたことを流すように早口で捲し立てる。
「確かにでかい仕事があるからとしばらく会ってませんでしたが……先生が言った少しの間というのは彼の準備が整うまでという事なんですね。
しかし何故日本なのですか?」
「ここから遠いし治安もいいからだな、あとアイリスが好きなジャパニメーションの影響で日本語そこそこ喋れるし」
「そうですね、あの子にはこんな血塗れの地より、アニメを見てはしゃぐ平穏こそが似合います。
分かりました、あの子の事は任せてください。ちゃんと送り出してみせます」
おお、それは勘違いだ、送り出して貰っちゃ困る。
「違う違う、俺がわざわざ付き合わせると言ってそこまでな筈無いだろ。
お前が俺を殺す理由はもう一つある、それはお前がこの世界を抜け出す為だ」
「!!」
お前、さっきから驚いてるか困っているか泣きそうになっているかの三種限定だなー。
「本当はこんな仕事嫌だったろ。あの頃の俺達はこれが前提のスタートラインで、これしか生きる手段が無かった。けど、今のお前は違う。
手筈はクラウに頼んである。偽装の内容まではわからんが、俺を殺した影響で銃が握れなくなったとか何とか適当な理由をつける筈だ。今の上司様の権限だったらそれぐらいの無茶は通せる。
とゆーわけで、お前には組織を抜けてもらって、家族としてアイリスに付き合い続けてもらう」
お前は送り出される側だ。
「それはっ、先生を置いて私達だけ救われろって言って」
「そうだよ、そう言ってる。俺はもうどうしたって無理なんだから、それ以外はハッピーエンドで終わって欲しいだろうが」
「‥…先生はいつも、私の言葉を遮っちゃいますよね」
「悪い想像をして、口に出して更に深みに嵌るのはお前の悪い癖だからな、これを機に直せよ。
もう俺が止める事はできないんだからさ」
「っ、ぐすっ、はい、せんせい」
どんどん可愛くなるな、この23歳。
「あらら、また泣き出しちゃって。
と、思わず長話しちまったな。焦って組員の誰かが来るかも知れないし、そろそろ頼むわ」
「…はい、先生」
「最後にさ、日本に渡る前に会ったらで良いから、俺の代わりに挨拶しといてくれ。
えっと、アルとフレッドだろ、ミャンにキリエ、サリーとエリー、フレデリカetcetc.辺りによろしく頼むわ」
「最初に挙げた二人の弟弟子以後の数十人の名前が、全部女性と言うのは純粋にヒキますね。
今までよく刺されなかったと感心します」
「かかっ、次の人生はそうやって死ぬとするわ」
「あと先生、アイリスとクローディアさんには?」
「アイリスとクラウには一応もう伝えてある。
けど、なんか引き摺ってるようなら引っぱたいて、俺が”前を向いて生きろ”と言っていたのかを忘れたのか、と言っとけ」
「はい、わかりました」
「んーじゃあそんなもんかね、後は頼んだ。
お前自身も、絶対幸せになれよ」
「はい、はい先生っ。
……それではさようならです、良い次世を」
さよなら、エレイン。口に出さず、顔に笑顔を貼り付ける。
頭を撃ち抜かれても笑みだけは残るようにと強く念じて刻み込む。
俺の死にお前が必要以上の物を背負わないように、あの人らしく逝ったのだと納得できるように。
そうして心臓二発の銃弾が撃ち込まれる。
身体を突き抜ける衝撃に、この身が確実に助からない致命を負ったのだと頭で理解する。
ありがとう、エレイン。お前は最高の弟子で相棒だった。
だけどまあ俺の教えた手順を間違えたのは減点だ、一息に心臓に二発と脳に一発は撃ち込まなきゃダメだって教えただろうに。
全く、最後の最後で締まらない奴め、なんて事を考えて、俺の意識は亡くなった。
筈なんだが、
いやいや、エレインはちゃんと俺の事殺してくれてんじゃん。えっ、何で俺生きてんの?
エレインが持っていた銃は俺があいつにやった物で、その威力の程はよく知っている。銃弾が心臓を撃ち抜いて貫通していく衝撃も確かに感じた。
だから実は麻酔銃でしたーなんて事は無い…筈。
……
…
上手い具合に心臓に影響を及ぼさないような奇跡の弾道で体内を通り抜けた?
んな馬鹿な。
しばらく悩んで、これは頭を捻って唸ってもしょうがないなぁと見切りをつける。
下手な考え事より、的確な状況確認を、だ。
早速身体は動くか再確認に入る。
気だるさはまだまだ纏わりついているが、ちょっと休めたおかげで動かせないわけではなさそうだ。
ゆっくり身体を起こして一息をつく。上半身が起き上がったことで血流が勢い良く全身を巡る感覚がある。
何処にも痛みも違和感も無い、更に深い安堵の息を吐き出した。
身体的精神的にある程度の余裕ができたので、ゆっくり踏んでいた段階を飛ばしていく。
腕に刺さった点滴を外して器具を遠ざける。そして胸と背中に手をやりながら、足は床に。
少し勢いをつけて立ち上がったが、軽いふらつきを感じ、咄嗟にベッドのふちに手を掛ける。……一週間寝たきりになろうが即行動ができるよう訓練はしていたのだが、思った以上になまっているな。
喉の具合を見てもそうだが、どうやら寝ていた時期は一日二日じゃ済まなそうだ。気温があまり変わっていないことを見るに一ヶ月以上経っているということはなさそうだが…。
ふぅ、と一息をついて慎重に立ち上がり、身体の負荷を気にしながら、周囲の確認を済ませる。
見たこと無いぐらい上等な部屋だな、撃ち抜かれたであろう部分に触った感じ痕が無さそう、スリッパもないから地べたに降り立った訳だけどやっぱ冷たいな、サイドテーブルには簡素なデジタル時計がありAM04:28を指している、エアコンと冷蔵庫完備でそれも結構上等なやつだ、部屋の入口付近にある洗面台の位置がやたら高い、出入口の脇にある扉はトイレだろうか、と大雑把に情報を得ていく。
部屋内の情報を素早くまとめて推論すると、備え付けられたものからして高いレベルの個室であり、ある程度の身の上の安全は守られている可能性が高い。用意したのはクラウあたりだろうか?
ともかく、ゆっくりと周囲を調べる余裕はありそうだな。
声を出してしまっている今無意味かもしれないが、それでも極力音を立てず、隠しカメラや盗聴器を仕込めそうな場所を調べていく。
オールクリア、そういった類のものがこの部屋には一切存在しない。
周囲には一切気配が無く音もしない、これなら多少大胆に動いても大丈夫そうだ。
次いで外の情報だと窓の傍まで歩いていき、あれ?やっぱなんかおかしくね?と違和感を感じた。だけど答えは薄靄の向こうだ、なんというか、もう見つけているのに脳が拒絶しているかのよう。
まあいい、違和感の正体で悩むより今はとにかく周りの情報を集めないと。
普通よりやたらと高い位置にある窓、掛けられた淡い緑色をしたカーテンの隙間から外を見やる。
見たことのない外観から俺の知っているどの病院でもない事は把握、望めるのは中庭だけで病院の外に関する情報はなし。まだ朝が早いのか、見渡せる範囲では人も見えない、とそこまで有益な情報が得られなかった。
周辺状況の確認で残された術となると部屋を出る事ぐらいだが…それはまだ出来ない。カメラなんかは無かったが、敵地の真っ只中て匿われているなんて無くはない、だから部屋を出る選択肢は最期の手段。
「状況が動くまで動かないのが賢明かね、病院によっては監獄並の監視体制ってあるし」
周囲に関しては手詰まり、なので後回しにしてきた自身の身体について。
…まあ正直だね、傷痕が無かったり、胸板が薄かったり、やけに視点が低かったりと違和感ありまくりだったんですけどね?でも見てしまったらパニックになりそうな気がしてですね?
俺はゆっくり入り口近くにある洗面台へ向かう。備え付けられていた踏み台を上り、顔を上げれば鏡と対面するというところで一呼吸入れる。
あーいや、ちょっとその前に自分の欲求を済ませよう。腹を決めるのにそれぐらいの猶予がちょっと欲しい。
蛇口を捻り、しばし水を垂れ流す。
ちゃんと透き通った水が流れているかを確認・・・クリア。
流れている水に手を突っ込んで刺激の有無を確認・・・クリア。
手で水を掬って臭いを確認・・・クリア。
舌でちょんと舐めて刺激の有無を確認・・・クリア。
恐らく安全であると判断を下した途端に、猛烈な喉の乾きが襲ってきた。
理性で渇望を押し殺し、口内を湿らせるようにゆっくりと水を口にしていく。
徐々に喉が潤っていくのを実感する。
十分だと判断した所で蛇口を捻って水を止める。ふぅ、と声が漏れた。
よしよし、これは心も落ち着いて良い状態。喉を潤している最中に腹も決めたし、避けていた真実との対面だ。
……
…
さあいざっ!
「っ!ーーーっ!」
驚きの大声を上げなかったのは精神力や覚悟の賜物と言うわけではない。
ただ単純に驚きすぎて、内心での大絶叫が表に出る前に息を詰まらせてしまっただけである。
ごほごほと咽せる喉を慌てて整えて、鏡を再度見てみる。
知らない顔の少年が、こちらを見ていた。
俺は鏡に映るそいつを震える指でさし、それ以上に震えた声で尋ねてみる。
「へいアジアンボーイ、何で俺と同じ動きをしてるんだい?」