6月2日
同じような形だけど、色合いが少しずつ違う家々が林立する住宅街が続いている。きっとここは同じ時期に一斉に建てられ、同じく一斉に人が流れ込んできたのだろう。そういう家だという印象を受けた。
割と新しい感じがするその景色を眺めながら、そんなつまらないことを考えていると、カラフルな家がまばらになっていく代わりに、今度は青々とした木々が姿を現した。
私と師匠、あと運転手の田沢さんを乗せた車は、森を目指して走る。舗装された快適な道路は、いつの間にか土がむき出しのでこぼこした山道に姿を変えていた。
「そろそろ現場になります」
田沢さんが鏡越しに後部座席へ視線を送りながら言った。その声はどことなく緊張しているような気がした。朝からこんな調子だったが、まあ無理もないだろう。私と、その隣に座る師匠は軽く頷いて返事の代わりとした。
彼は運転手の田沢さんで、たしか下の名前は恭平だったと思う。今日まで面識はなかったし、顔を見たこともなかったと思う。もっとも気付いていないだけで、すれ違ったことくらいはあるのかもしれないが。薄手の紺のジャケットに、青のギンガムチェックのシャツ。デニムのパンツをはき、濃紺の地に白いラインの入ったハイカットスニーカーを履いている。全体的に青い印象だ。青が好きなのだろうか。
何より目立つのが、胸元に輝くバッジだ。大きさは2センチほどで円形。円周に沿った緑色のラインは下の方で左右の手の形に変わっていて、さらに手の上には手をつないだ人の図が描かれている。NPO法人「国際文化保存協会」に所属していることを示すバッジである。バッジは私と、隣に座る師匠のそれぞれの胸元にもある。
しかしそのバッジは表向きのもので、多くの人々がフィクションの中にしか存在しないと考えている"力"を使うことで、そのバッジは尾を咥えたウロボロスの環の中に剣を湛えた図案に変わる。
虚空に業火を生み出し、水を凍て付かせ、木々を薙ぎ倒すほどの暴風を操る。そんな特別な力を魔術と呼び、魔術を扱うことができる私たちは魔術師だ。もっとも私はまだ見習いであり、正式な魔術師になるには年齢が足りていない。規定では18歳にならないと魔術師にはなれないので、あと2年待たなくてはならないのが少し歯がゆい。
私たちが所属している組織の正式な名前は「A.O.スコープ魔術師協会」というが、その名前で呼ぶものは少なく、大抵は単に「協会」と呼んでいる。元々はギリシャで発祥した魔術師の組合だったらしい。段々と人が増えて大規模になり、さらにプラハの錬金術師の協会と併合し今の協会になったというが、あまり詳しい歴史には興味がないのでよく知らない。数ある魔術師協会の中でも最大規模であり、世界中に支部を持っている。今回の任務は日本で発生している事件の調査であり、今は近場の支部の一室を借りて寝起きしている。
協会では元々は制服の着用義務があったらしく、今でも祭事や敷地内での活動では制服の着用義務がある。しかし何時からか外で活動する場合は私服にバッジを着ければよい、という規定に変わったそうだ。なんでも、特徴的な制服で外をうろうろするよりは、私服での活動の方がまだ目立たずマシだからとか、そんな感じの理由らしい。威圧感がある制服よりも、多少は好きな服が着られた方が気楽だとは思う。何より、真っ黒な服に金の装飾が施された、いかにも不審な格好で今まで表を歩いていたのかと思うと、その事実に眩暈がしてしまいそうになる。
田沢さんのようにラフな格好をする人もいれば、かっちりとスーツで身を固める人もいる。私はどちらかと言えばラフな格好で、ファーのついた黒のノーカラーコートに白いシャツ、オリーブのボトムスにブラウンのショートブーツといった感じだ。正直、あまりファッションには興味がなく、またセンスがあるわけでもないので、いつも似たような組み合わせになりやすい。
「桐子、気分は大丈夫かね」
「ええ、大丈夫です」
私の名を呼んだ、最も親しいが血のつながりのないその人のことを、私は師匠と呼んでいる。
"鉄槌エリヤス"の異称を持つ偉大な魔術師、エリヤス・アウクスティ・フーノネン。たしか今は63歳。もみあげから顎まで続く、鬱陶しいが見慣れてしまった白髭が特徴の、酒好きの老人だ。
背は高く180センチ以上あるので、互いに立ったまま長話をすると首が疲れる。老齢にも関わらず、日々の鍛錬の賜物である筋肉の衰えのない肉体は、若者には負けまいと主張するかのような精悍さを誇る。彼は私にとっては第二の父であり、また時折見せる甘い顔は祖父のようであり、何より魔術の扱い方を教えてくれる師匠である。
私たちが所属する協会において、その名前を知らない者は皆無であると断言できる。それくらい偉大な人なのだ。破壊魔術の扱いにおいて協会内で五指に入ると聞いている。
そんな人物であれば、当然師事を請う人物も多いわけだが、師匠は協会で教鞭を執る以外に一切弟子を取っていない。私を除き、だが。幸か不幸か私に魔術の素質があって、偶然師匠に引き取られたために、例外的に魔術を教わっている。重なった偶然の結果に過ぎないが、それでもやはり、私は色々な人から羨まれ、妬まれているのだろうなぁ、と思うことがある。たまに協会内で歩いている時に背中に刺さる視線が、それを実感させた。
そんな偉大な師匠が、どうして瑣末な事件現場に直接足を運ぶのだろう。もしや知らされていないだけで、これは大事件なのでは――きっと田沢さんは、運転しながらもそんな風に思っているだろう。なんてことはない、過保護な師匠が私の修行の一環で実地研修に来ているという、それだけのことだ。無駄に緊張を強いることになって申し訳ないと思っている。
気がつくと車が速度を落とし、数秒後には停止した。横の窓に向けていた視線をフロントガラスに移すと、木々が道を塞ぐ様にして立っていた。ここから先は車で入れそうにない。
「現場はここから500メートルほど歩いたところです」
車を降り、少しぬかるんだ道路に足を下ろす。泥のねちょっとした感触が靴先から伝わり、何とも言えない不快感を覚える。梅雨入りはまだだが、連日のぱっとしない曇り空と時折降る雨の所為で、日の当たらない森の中は嫌な具合に湿気ているようだ。
「師匠、こけないでくださいね。手、貸しましょうか?」
私の半分冗談半分本音の軽口を聞き、師匠の皺深い眉間に、さらに深い皺が数本増えた。
「私は確かに老人だが、いざ気遣われると、老いを益々実感するからやめてくれないか」
その言葉を聞き、田沢さんの高齢者への気遣いの手がビクッとして止まった。引きつり固まった笑顔を見て、私は少しだけ笑った。
三つの足跡を残しながら、異常が検出された地点を目指す。各々調査に必要な器具の入ったリュックサックを背負いながら黙々と歩く。植物に造詣が深くないのでよくわからないが、ケヤキとかスギとか、そんな感じのすっと伸びた木々の間を縫って狭い道が延びている。
今日の曇り空は昨日や一昨日と変わらないはずなのに、嫌味なほどに重苦しく感じる。シャツをべとつかせる湿気と、少し上がり始めた気温の所為もあるのだろう。うっすらとかいた自分の汗も相まって一層気持ち悪い。ただそれらは私の不快感の一因ではあるものの、根本の原因ではない。
一番の原因は、先ほどから皮膚を刺激する圧迫感のある空気。それは現場に近づくにつれて濃度を増し、ぶよぶよした薄い膜で押されているかのような感触が強まっていく。この大気とは似て非なる空気抵抗のような圧力こそ、世界に満ちている魔力の"波"である。この先には何かがあり、微弱ながらも気配を感じる。
「二人とも気をつけたまえ。言わなくてもわかるだろうが、君たちが想像している通りのものが居るぞ。」
師匠の言葉を聞いて、私は周囲への警戒をさらに深める。田沢さんも同様に、まだいささかの緊張を残しつつ、いつでも事態に反応できるように身構える。師匠は何も変わらないように見える。ジリジリと、ほんの少し移動速度を緩めて進む。すると、遠くにボロボロの小さな社があるのが見えた。社のあたりまでは辛うじて粗末な道があるが、その周囲は草が気ままに背を高くしている有様だ。
その瞬間、先ほどから感じていた気配が、私たちに近づいてくるのがわかった。草を踏む音と気配から察するに、数は4体。私たちに向かってくる"波"には悪意が込められ、温厚に済ますという選択肢がないことを物語っていた。
潜んでいるものの正体は、人ではない。既存の生物の姿である場合もあるし、古今東西の伝承に現われる怪物や妖怪に似ていることもあれば、ホラー映画で見られるような醜悪な怪物に似ていることもある。
それら混沌とした変質生命のことを、私たちは"ケイオス"と呼称している。その名前を思い浮かべるとき、私の胸中は、炎のような怒りと冬空のような悲しみに包まれる。
「来たぞ」
皮膚に触れる泥のように纏わりつく圧迫感が、棘のような殺意に変わった。
先ほどまでの感情に使命感で蓋をして、冷静さと冷酷さを研ぎ澄ます。周囲の"波"を感じ取り、両手に意識を回す。すると掌の中で"波"が震え、球状に高速回転し、空気を巻き込み更に加速して塊と化す。
破壊魔術の基礎"衝撃"。視線を最も近い敵に向け、視線に沿わせて右手を上げ、切り分けられた暴風の如きそれを発射した。
およそテニスボール大の"衝撃"は、風切り音を上げながら、右前方の木々の間を弾丸のように潜り抜け、草薮の中にいるケイオスに命中した。"衝撃"の勢いによって吹き飛ばされたケイオスは、命中と同時に「ゴキャ」という硬いものが砕ける音を発し、先ほどまでの気配が霧散して無に帰っていくのを感じた。
直後に破壊音と共にもう一つ気配が消えたことで、田沢さんが一体倒したことを確認し、別の目標に焦点を合わせる。
草薮の中から勢いよく飛び出し、私へ向かってくる異様なもの。学術的な分類にはおよそ当てはまらないそれは、40センチほどの石の塊に、同じく石造りにも関わらず自在に曲がる六本の足を備えた、武骨な虫といった風体だった。恐らく、先ほど倒したケイオスもこれと同様のものだろう。
観察はひとまず止めて、再び掌の中に"衝撃"を装填する。先ほどよりも小さく、しかし回転速度を上げて、より破壊力の増した"衝撃"を放つ。
一直線に私へと向かってくるケイオスの中央に命中すると、あっさりと貫通し、そのまま動かなくなった。それでも油断はせず、左手の"衝撃"の盾を構え、右手にも"衝撃"を補填しておく。
視線を横に移すと、ちょうど田沢さんが最後の一体目掛けて"衝撃"を放ったところだった。難なく命中し、この場からケイオスの気配は完全になくなった。
「…ふぅ」
田沢さんがため息を漏らし、それを聞いた師匠が肩を叩き「ご苦労様」とつぶやく。釣られて私も少し緊張が解けかかるが、まだ何が起こるかわからない。周囲への警戒を行いつつ、臨戦態勢を解除した。
私の肩を叩きながら師匠は「大丈夫だ」とつぶやいた。表情はいつもと変わらなかったが、私を見る目には、何らかの感情が込められているように思えた。しかしそれがどういう感情なのかは読み取れなかった。
「さて、これより現地調査を行う。まずは状況の確認だ。昨日、6月1日に不自然に発生した"波"の異常。その原因の調査が今回の任務である。ここ一週間ほどで既に数箇所で同様の異常が発生しており、いずれの地点にも現在調査員が派遣されているので、連絡を受けた者は速やかに情報共有を行うこと。また、調査の際はまだ何が潜んでいるかわからないので、互いに20メートル以上離れないこと。それでは調査開始とするが、まずは社を確認する」
師匠に言われて三人でまず確かめることになったのは、現場にある唯一の人工物である、高さ50センチほどの小さな社だった。正確には、社だったもの、である。
「あー…酷いなぁ…」
「完全に破壊されてますね」
田沢さんと私はただ見たままの感想を述べた。
元々特別綺麗にしていたとは思えない社なのだが、経年劣化による崩壊の仕方とは明らかに異なるものだった。社は外部からの圧力によって壊れ、大小さまざまな木切れになってしまっていた。特に原因らしき物も見当たらないので、人為的に破壊されたと考えるのが妥当だろう。
支給されたカメラで様々な角度から撮影を行う。そのうち、破壊のされ方に特徴があるのがわかった。
「これ、どこか一方から力が加わってる感じじゃないですね」
師匠は小さく頷き、田沢さんも「あー」と間の抜けた相槌を打った。
「ふむ、どうやら複数方向から内側に向かって破壊されたようだな。蛇が絡み付いて獲物を圧迫したような壊れ方だ」
多少の散らばりはあるものの、基本的に破片はまとまって落ちていた。例えば、社の前方から衝撃を加えれば、後方に向かって破片は飛散するはずだ。
「何か意味があるんですかねぇ」
「現状では何とも言えんね。追々考えるとしよう。さて、肝心の中身はどうなってるかな。ここには金属製の鈴が奉納されているという話だ」
木片をどかしてみたが、祀られているはずのご神体の姿はどこにも見当たらないどころか、破片らしきものすら見つからなかった。ということは、ご神体を持ち出した後に破壊されたのだろうか。そうでなくては、ご神体の破片すらないというのは考えづらい。それにしても、どうしてわざわざ社を壊したんだろう。
「ない以上は持ち去られたと考えるのが妥当でしょうね」
「まあ、そうなんだろうねぇ」
何とも頼りない返事をするなぁ、この田沢さんという人は。
「結論を出すのはまだ早い。次はケイオスの遺体回収を行う。回収地点を地図に記録後、写真撮影を行ってから回収すること。細かい破片は袋に小分けしてから、容器に収納すること。それでは回収を開始してくれ。とりあえず二人は自分が仕留めたものから回収するように。私は他を探す」
まずは師匠の言うとおり、私が仕留めたケイオスの遺体に向かう。もうケイオスが放っていた嫌悪感を伴った"波"はなく、清浄で人気のない静かな森になったにも関わらず、私の心を乱す感情は燻り続けている。仕事をしなければ、という使命感で足を進める。
背の低い雑草の間に、二番目に倒したケイオスの遺体があった。小刻みに動いていた節足動物のような足はもう動かない。改めて命を奪ったことを確認し、心の中で魂の平穏を願った後、ポケットから端末を取り出して位置を記録した。続いて数枚撮影してから、手袋をはめて遺体をケースに収納した。
表面は見た目の通り、石のゴツゴツとした感触だが、傷口から除く体内や関節部分は柔らかい肉のようだった。色に赤味はなく、黒に近い灰色をしていた。泥のような色と粘度の体液が、少しばかり流れ出していた。
続いて最初に仕留めたケイオスの遺体へと向かう。数メートルほど離れた木の下に、力なくだらりと腕や足を放り投げたそれを見つけた。
先ほどのケイオスと異なり、こっちは二本の手足が生えていて、鼠に近いフォルムをしていた。光沢のない灰色の石で出来ているという点は同じだ。体長30センチほど。腹部は"衝撃"によって多きく抉れており、近くにはいくらかの肉片というか、石片が落ちていた。手順通りに撮影、回収し、一旦師匠の下へと戻る。
少し離れたところに師匠の姿を見つけ、近づいていった。膝を着いて、別のケイオスの回収をしているようだった。
「師匠。こっちは回収終わりました」
振り向くことなく、淡々と師匠は「そうか」と言った。
「あの辺りにまだ遺体があるから、回収しておいてくれ」
すぐ近くを指差したので、その地点を見てみると、そこだけ草が不自然に倒れていた。「わかりました」とだけ言うと、すぐに回収に向かった。
そこには既に事切れたケイオスの遺体があった。もちろん、私が倒したわけでも、師匠や田沢さんが倒したものでもない。私たちが来る前に、誰かが――まず間違いなく社を破壊した犯人が――仕留めたものだった。目的はまだ何一つわからないが、やはりこの事件には魔術師が関わっている。
遺体には奇妙な点が合った。外見は先ほどまでの石造りとは異なり、樹皮に覆われた植物のようであった。強いて言うなら、根っこが触手のように枝分かれしており、タコとかイカに似ている。だが問題はそこではなく、傷口が奇妙なのだ。
致命傷になったであろう傷口からは体液が漏れ出ることなく、焼かれたようになっていた。さらに、表面には焼けたような後はなく、近くを見ても延焼の痕跡は見当たらない。たしかに、レーザーのような高熱を発射する魔術も出来ないわけではないが、その場合間違いなく近くに傷痕が残る。遺体を貫通しているにも拘らず、現場には何の痕もない。空中で仕留めたのだろうか。
まずは撮影と回収を済ませる。一体どうしてだろうかと考える間もなく師匠に呼ばれ、状況報告をすることになったので一旦社へと集まる。
「まだ調査は完全に終わったわけではないだろうが、ひとまず状況を確認しておきたい。二人とも、データをパソコンに移してくれ」
いかに魔術師といえど、現代の機械の利便性を否定できない。魔術は万能ではあるものの、必ずしも便利だというわけではない。座標記録にせよ、撮影にせよ、その再生にせよ不可能ではないし、手練の者であればあらゆる機械以上に高精度で行う事だって出来る。だがわざわざ全部を魔術で行うよりも、既存の技術の方がよっぽど便利で正確だ。普段の連絡は携帯電話や無線機だし、いまどきコンピューターが使えないようでは業務に支障が出る。
各々のデータをノートパソコンに移す。協会謹製のシステムでデータを統合し、地図とGPS座標、そして写真を表示させる。ノートパソコンを折りたたみ式の椅子に乗せ、操作しながら状況確認を行う。
「まず二人が倒したケイオスが、この四体。うち三体は、形は違えど石がベースになっているようだ。残りの一体は植物のようだ」
次々と写真が切り替わり、現場の写真や遺体の状況などが映し出された。私が仕留めた二体が映り、すぐに田沢さんが仕留めた二体に映り変わった。さらに別の遺体が映し出されたとき、師匠が口を開いた。
「次だ。私が回収した遺体は、いずれも何者かによって、我々が現場に到着する前に殺害されたと思われる」
六体の遺体が代わる代わる画面に現われた。いずれも見た目や特徴が異なるが、死因だと思われる傷口は共通していた。どれも焼き切られたような傷なのだ。
「武器か魔法でこんな風に傷がつくのって、何がありましたっけ」
「ふむ、そうだな。断定することは出来ないが"赤熱"によって武器に熱量を付加するか、"高熱線"で焼き切るのが一般的だろうな。あとは魔術で生み出された武器であれば、似たような性質を持つものも作り出せるだろう。いずれにせよ本部で検死してもらわないことには結論は出せないな」
突然、甲高い電子音が響く。本部から支給された通信機の着信音で、音源は師匠の胸元だった。「失礼」と一言だけ断ってから、通信機に手を伸ばし、通話を始めた。
写真に目を移し、改めて傷口を見る。石質の表層を貫いて、均一な円形の穴が空いていた。まるでトンネルのように向こう側へと完全に貫通していた。体液が流れ出たような痕跡はなく、少し赤味を帯びた黒褐色に焼け焦げていた。弾丸やレーザーでくり貫かれたようだ。
「ねえ、湯元さん…だっけ」
いきなり田沢さんに話しかけられ、思わず「はい?」と聞き返してしまう。この人とは出掛けに二言三言交わしただけだったが、少し高い声が特徴的だと思ったが、あれは緊張で上ずっていたのだろう。今話しかけられた時の声は、さっきよりも普通に聞こえた。相手が地位も年齢も上の師匠ではなく、年下の私だから気軽に話せるのだろう。
「君さ、エリヤス先生の唯一のお弟子さんだって本当なの?」
「はい。ほかに弟子を取ってる様子もないみたいですし」
「やっぱりそうなんだ。それじゃあ、先生の隠し子だっていうのは本当?」
なんてことを聞くんだ、この人は。思わず噴出しそうになった。そうか、私はそんな風に噂されているのか。状況を考えると無理もないのかもしれないと思う。とはいえ私の顔立ちに、西洋風な要素があるようには思えないのだが。
「いやいや、偶然縁があって引き取られただけですよ」
笑いながら答えた。しかし脳裏には出会いの光景が滲み出し、黒い感情が笑顔の裏に形成されてゆく。偶然の原因を忘れることは出来ない。どんなに楽しい時だろうと、何をしていようと、その記憶は私を苛む。
「へえー。え、その偶然って」
「他人のプライバシーを根掘り葉掘り聞くというのは、例え親しい間柄であったとしても慎重を期するべきだと思うのだが、どうやら君は違うようだな」
田沢さんの肩にポンと片手を置き言葉を遮ったのは、いつの間にか通信を終えていた師匠だった。一瞬にして田沢さんの顔から血の気が引き、表情が固まる。即座に「も、申し訳ございません!」という謝罪の言葉が飛び出した。きっと悪気はなかったのだろうから、助け舟を出すためにも話題を変えることにした。
「通信の内容はなんだったんですか」
田沢さんの肩から手が離れ、私たちに向き合うように立ち、口を開いた。田沢さんは心臓に手を当てて、まだ青い顔をしている。
「本部から連絡があった。他の現場でも同様に、祠が破壊された上ケイオスが数体討伐されているのが確認されたそうだ。これを受けて本部は本件を、同一犯による人為的な計画的犯行として捜査を行うことが決定された」
人為的な事件。漠然とした疑念が確信に変わり、憎悪が血流に乗って全身を駆け巡るのを、平静を装った表情の中に必死に押し留めた。
あれから今に至るまでのことを、あまり正確に覚えていない。まだ残っていたケイオスの遺体収容を機械的に済ませ、本部から派遣された別の調査隊に現場の引継ぎを終えた。私たちは入れ替わりに本部へ戻るため、車に荷物を詰め込むと足早に現場を後にした。
普段と表情も態度も変わっていない、はずだ。しかしどうやって普段通りを演じようとしても、胸の奥に沈殿していた復讐心が鎌首をもたげ、脳に仕舞い込んだ記憶を引きずり出すのを止めることができない。意識の半分以上を感情の抑制に回しても、まだ、足りない。腹の辺りで服を握る右手の力が強まり、それに合わせて服が引っ張られて、皺が深くなってゆく。座席の上で握っている左手にも爪が食い込み、痛いはずなのだが、その感覚はない。徐々に視界が赤く染まり、悪夢のような過去の光景が溢れ始める。
「桐子」
慣れ親しんだ声が、私を呼んだ。目の前にちらついた忌まわしい惨劇から、一瞬の内につまらない昼過ぎの住宅街に引き戻された。
はっとして隣の師匠を見ると、いつの間にか左手の上に自分の右手を重ね、じっと私を見ていた。師匠の手は温かく、ささくれ立った思いが少しだけマシになった。
「…大丈夫です。本当に、大丈夫です…」
自分自身に言い聞かせるように、消え入りそうな声で答えた。
「帰ったら少し眠るといい。正式な報告はその後にしたまえ」
師匠の声はどことなく、ほんの少しだけれど、いつもより優しく聞こえた。
「それじゃあお言葉に甘えさせてもらいます」
「それでいい。甘えるのは子供と老人の特権だ」
じゃあ師匠も甘えてくれていいですよ、と言いたかったがやめておいた。
それから十数分して本部に到着した。サンプルだけ渡してすぐに部屋へ帰り、上着だけ脱ぎ捨てると、ベッドに倒れこんで泥のように眠った。
森の中だった。湿気の所為で少し汗ばんで、服が肌に張り付く感触が不愉快だ。まだ午前中なのに薄暗い。何か目的があった、ということだけは覚えているので、あてどなく歩いている。
気がつくと木々の間に一体のケイオスが居た。石造りの体で虫のようなフォルムをしているのが、遠くに居ながらにしてわかった。
手に意識を集中して、空気を圧縮した"衝撃"の弾丸を放つと、ケイオスは一撃で粉々に砕けた。何時の間にか辺りには無数のケイオスの遺体があった。
仕留めたケイオスの元に駆けつけた。遺体を回収するため、肩に提げていたケースを開けながら近づく。よく見るとその石造りのケイオスは、お父さんの顔だった。見る見るうちに炎によって焼かれてゆき、踊り狂うかのような動きをしながら断末魔の叫びを上げている。
見渡す限りが火に包まれている。熱い。怖い。遠くには人々を化け物に変えながら笑っている人影が、両手を上げてその光景を見下ろしていた。
知り合いだった人が、見たこともない形になって暴れている。日曜日の夜にやっていたホラー映画で見たような、そんな化け物に変わっていた。そうかと思うと、よく遊んでいた男の子はぶよぶよとしたゼリーみたいになって、炎に焼かれているうちに段々と蒸発していき、やがて消えてしまった。
走っているうちに、目の前に倒れていたお母さんが起き上がった。ゴツゴツした手で私の肩を握ると、痛くなって血が出てきた。お母さんは泣いているのか笑っているのかよくわからない顔をしていた。
泣きながら両手をかざすと、まるで昔からそれが出来たかのように炎が集まってきて、お母さんに似ていた化け物を焼いた。
燃える家々の中で泣きながら誰かを待っていた。すると何人もの黒服の人がやってきて、そのうちの髭を生やした師匠が私を抱きしめてくれた。燃え盛る炎と焼かれてゆく死体。ごおごおという音と、昔聞いた子守唄と、お父さんの叫び声と、お母さんの名前を呼ぶ声と、黒い影のぶつぶつという声が輪唱のように重なり、エコーしてゆく。
「――っあぁああぁっ!!!」
そこが何の脅威もない安全な部屋であると認識するのに十数秒かかった。
早鐘を打つ心臓を思わず手で押さえ、乱れきった呼吸を正そうと努力する。全身のあらゆる汗腺から噴出した汗が次第に引いてゆくと、いくらか気持ちも落ち着きを取り戻し始めた。
昔。11年前、私が5歳だった頃。未だに名前も姿も判然としない魔術師によって、私が暮らしていた町は滅ぼされた。もっともその魔術師に破壊の目的があったかどうかはわからない。はっきりとした目的は、実際に本人に聞く以外に知る由もないだろう。
世界には魔力が満ちている。魔術師とはその魔力の波を操り万象に奇跡を引き起こすことが出来る、特殊な振動を発することが出来る者の総称である。普通の人間には魔力の波を感知することは出来ないし、当然振動を発することも出来ない。
ただし素質のある者は魔力の波動に巻き込まれることで、魔術師として力が発現することもある。私は先天的な魔術師ではなく、波動に巻き込まれたことで魔術師として目覚めた、後天的な魔術師だ。
では、魔力の波動を受けた際に魔術師として目覚めなかった者はどうなるか。人によって魂のキャパシティが決まっている、というのが定説である。
魂は一定までであれば魔力に対して抵抗を発揮するのだが、それは魂が固有の振動を発しているからだという。その振動数を越える波動を受けてしまうと、魂に変質が起こる。たんぱく質の塊になって崩れ去る者も居るし、近くの物質と融合して無機物になってしまう場合もある。
だがそうではなく、異なる性質を持った生物に変異するパターンがある。例えば近くにあった石と虫が波動により変質してしまうと、石の性質を持った虫になるといったような、それぞれの性質を足し算した生物になることがある。これこそが、ケイオスである。
私が暮らしていた町で、その魔術師は"攪拌波動"と呼ばれる、ケイオス化を引き起こす魔力の波動を巻き起こした。その結果、町中の人々がケイオスになってしまった。殆どの人が悪意を孕んだ攪拌波動によって、理性を失った化け物に変質し暴れまわった。
優しかった近所のおばさんも、幼稚園が一緒だった子達も、大抵はケイオスになってしまった。町は惨劇の舞台となり、どこかで生じた炎が家々を焼き、火の海となった。
父は完全に変質してしまう前に、ケイオスと化した人を見て自分もああなると悟ったのだろう、燃える炎の中に飛び込み、のた打ち回りながら絶命した。
私は適性があり無事だったので、一緒に居た母を何とか連れ出そうと思っていたが、母もケイオスになり私に襲い掛かってきた。その時の母の意識がどういうものだったのかはわからない。私は母を何とかして助けたかった。
しかし私はそれがどういうものであるか全くわからないままに、無意識的な自衛の手段として初めての魔術を使ってしまった。その結果、町を焼き尽くす炎を操り、私は母を消し炭にしてしまった。
穏やかな町が地獄へと豹変し、父は炎に包まれ、母はこの手で焼き殺した。理解を超えた状況の中で、私がどんな感情を抱いていたのかは記憶にない。悲しみだったのか、恐怖だったのか、あるいは全く別の感情なのか。もうそれはわからないし、知りたくもない。
そんな状況の中、まるでモーゼの十戒のように炎を裂いて私を救い出してくれたのが、師匠と協会の人々だった。駆けつけた師匠は私を見つけると、頭を撫でながら「もう大丈夫だ」と言い、同行してきた人達の指揮を執りながらも、私のことを大きな体で庇ってくれた。残ったケイオスの討伐、消火活動、そして生存者の捜索などを行ってくれていたのを、ぼんやりとだけど覚えている。
幼い私はそこで意識を手放してしまい、町の状況や家族のことなどを聞いたのは、数日後に目覚めてからのことだ。残念ながら生存者は私以外に居なかったそうだ。
両親を失った私に頼れる親戚がいないわけではなかったが、魔術が使えるようになったことで幼心に疎外感を覚えた。あの惨劇の中で私だけが生き残り、その褒美なのか呪いなのか、魔術師として開眼した。きっと、もう普通に生きることは出来ない。そのため、引き取ると言ってくれた親戚と暮らすことを断り、魔術師として協会で研鑽を積むことを選んだ。漠然とした考えに過ぎなかったものの、この選択を後悔していない。
協会で暮らすことが決まった際に、師匠が後見人を引き受けてくれた。これは私が指名したわけではなく、師匠自ら立候補してくれたのだ。
今でもその時のことは覚えている。私の目線に合わせるため何倍もある図体を屈めて、軽く笑みを浮かべながら「もし君さえよければ、私が君の師匠になろう。生きる術も戦う術も、望む限り教えよう」と言った。
正直なところ、5歳児に何を言ってるんだとも思うし、言葉の意味も殆ど理解できていなかった。しかしあれは私を子ども扱いすることなく、一人の対等な人間として接したからこそ、ああいう言葉になったのだろう。言葉の意味はわからなくても、優しい話し方や誠実な態度から、彼は信ずるに足る人物だということは理解できた。
師匠の下では主に破壊魔術と戦い方を学んだ。ただ師匠が言うには、私は「破壊魔術よりも変性魔術の方が向いている」とのことだ。実際その通りで、破壊魔術が不得手ではないものの、圧倒的に変性魔術の方が扱いやすい。だが破壊魔術は基礎であり、私が復讐を遂げるためには不可欠なものだと考えているので、外すわけにはいかない。
そして現在は魔術とは別に、ケイオスの研究を行っている。もしも暴走したケイオスを鎮め、正常化することが出来たとしたら。ケイオスを再び元の人間に戻すことが出来たなら。悲劇が防げなくとも、最悪の事態を避ける方法を模索し続けているが、あまり効果的な手段は見つかっていない。
現在ケイオスのことでわかっているのは、ケイオスになったからといって必ずしも悪意が発露するわけではなく、攪拌波動を発生させた人物の思念に大きく左右されるということだ。つまり私が巻き込まれた事件の時、大勢の人がケイオスになり暴れまわったのは、悪意や暴力的衝動があったからだということになる。
現にケイオスの中にも協力的な人々はいて、積極的に研究に協力してくれている。協会内にも完全なケイオスもいるし部分的にケイオス化した人もいる。そういう人達と共に、日々研究を行っている。
こうした経緯があり今に至る。未だに私の町を襲った魔術師の正体も目的もわからない。あの日、現場から逃げる魔術師を追った協会の手練でさえ、一命は取り留めたものの相当な深手を負ったという。つまり、今の私では顔を拝む前に殺されるだけだろう。
だが私は必ず追い詰めて、復讐を果たす。過去に決着をつけない限り、私は自分の人生を生きることなんて出来ない。例え、そこで刺し違えてでも成し遂げなくてはならない。
悪意の有無や目的はこの際関係ない。如何なる犯罪者や加害者であっても、様々な側面を見てしまえば情状酌量の余地があるのだろうし、生まれ育った経緯に不遇な面もあろうのだろう。だがしかし、悪を成したものは贖わなければならない。例えそれが子供であっても、精神を病んでいても、崇高な思想があったとしてもだ。
時計を見るともう午後7時を過ぎていた。さすがに寝すぎた。とりあえず、汗を洗い流したい。
「…お風呂入ろう…」
ベッドから立ち上がり、クローゼットから着替えを見繕っていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。「はい?」と答えると「私だ」という師匠の声が返ってきた。着替えはひとまず置いておき、ドアを開けた。
「夕飯を食べる気力はあるかね?」
手元を見ると、二人分の夕食がトレーに乗せられていた。パンにサラダにビーフシチュー、デザートはヨーグルト。いかにもな洋食といった趣だ。シチューのいい匂いを嗅いでいる内に、自分が空腹であることに気がついた。
「そういえばお昼食べ損ねてました。一緒に食べましょう」
「よろしい。ならいただこう」
師匠は口元だけニコリと笑うと、すぐ近くのテーブルにトレーを置き、ドアを閉めた。向かい合って席に着き「いただきます」と声を合わせて言った。たしか野菜から食べるとダイエットにいいと聞いたので、別に体重を気にしているわけではないが、ついサラダから食べ始める。
「もう大丈夫かね」
師匠が言った。今になって、心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。
「大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
「いや、気にすることはない。心配は保護者の義務だからな」
私が心配をかけ謝ると、師匠は決まってこう返す。この定型文を聞くと不思議と安心できる。
「思い出させるようで悪いのだが、今回の事件について、桐子はどう思う?」
一瞬、パンを掴んでいた手が止まるが、すぐにちぎったパンをシチューにつけ、考えをまとめながら話を続ける。
「ケイオス化を引き起こした原因がなんなのか、それは祠と関係があるのかが気になります。例えば何かの封印を解いたとか」
「ふむ、その可能性もないではない。ただ、赤川市だけで何十箇所も封印が施された場所があるとは考えにくいな」
それもそうか、と思い直す。事前に渡された資料では、この町には今まで特別大きな事件があったとは記録されていない。もっとも、貴重な魔術道具や素材の類が残っているそうで、他の組織や力を求める魔術師によって、何度か小競り合いがあったとのことだ。ただしいずれも魔術師同士の戦いであり、ケイオスとの関連はないという。
「そういえば、この市の資料を見たんですけど、昔討伐された何とかっていう悪い龍の話は関係ないんですかね」
「川股酸漿の物語か。あれは日本古来の八岐大蛇伝説をベースにして、この地方に取り入れられた物語だと言われているようだが、実際に昔はそういうケイオスが居たのかもしれないね。ただそれ以降のこの土地の物語を見る限り、特に怪物や妖怪の目撃談も多いとは言えないから、まああまり関係はないだろう」
それに、と言いながらパンを一口食べ、それを飲み込むと、師匠は続けて言った。
「龍の伝説にしても、信憑性が高いとは言い難いようだ。市名の由来である赤川だが、それこそが龍の正体だというのが専らの話だ。これも八岐大蛇伝説の同様だな」
「つまり、どういうことですか」
「古くから伝わる龍の伝承だが、一説には洪水の擬人化であると言われている。今でこそ御伽噺と一笑に付されてしまっているが、実際にはケイオスや魔術師の仕業であったというのもままあるのだが、やはり自然現象の擬人化というケースは多い。この街では鉄鋼業が盛んだが、それは伝説の時代からの名残だという。古代、製鉄による汚染によって川が赤黒く変色し、一時は生活用水として使い物にならなくなったという。その被害を龍に準えて伝説化したものだというのが、最も有力な説だそうだよ」
「じゃあやっぱり、今回の事件ではケイオスは意図的に生み出された」
「そう考えるのが妥当だろうな」
今回生み出されたケイオスは、特徴から見ればいずれも虫や小動物が変質させられたものだろう。だがもし、次は人を狙った犯行が起こったとしたら?そう考えると、犯人に対する深い憎しみが再燃してしまう。気持ちを落ち着けるためグラスの水を一口飲み、深呼吸をする。
「他の現場の状況ってわかりますか」
「私たちの現場と似たような状況だったようだ。祠が破壊され、ケイオスも殆どもしくは全てが討伐済み。傷口はいずれも焼き切られたようだった。詳しくは明日にでも資料を見て確認したまえ」
師匠は思い出したように「そういえば」と言い、話を続けた。
「祠は破壊されていたものの、ケイオスの痕跡は一切ない現場もあったそうだ。それも一箇所だけではなく何箇所も」
現状をまとめると、犯人は何らかの目的で祠を破壊し、その中にあるご神体を奪取もしくは破壊。その後ケイオスを発生させて、自分たちでケイオスを討伐している。しかし何故かケイオスを発生させていない場所もある。さっぱり目的がわからない。ご神体の奪取や破壊が目的なのだとしても、そこでケイオスを生み出す理由が不明だ。
「やっぱりもっと調査を進めないことには…あーっ」
いつの間にか、師匠の足元には空になったワインボトルが二本。手元には、まもなく空になるワインボトルが一本。会話に夢中で気がつかなかった。
「もう師匠も若くないんだから、お酒は控えるように言ってるじゃないですか。いつもいつも言ってるのに」
「ならいつもいつも言わなければいいじゃないか…」
ばつの悪そうな顔をしながら、ぼそりと言った。
「昔よりも無理が出来なくなってきたって言ってるの、自分じゃないですか。ほらもうそれでお仕舞いにしましょうね」
「ええい、まだ私は若い者には負けん!心配無用だ!見よ、この鍛え抜かれた拳速を!」
虚空に向かってパンチを繰り出し、自慢げにこちらを見てくる。なんて鬱陶しい笑顔だ。酔ってるな、この爺さん。
「心配は身内の義務です!食器は片付けますから、もう部屋に帰りなさい」
空き瓶だけ持たせて、顔の赤い年寄りの酔っ払いをさっさと追い出すことにした。そもそも来た時にボトルは見当たらなかったのだが、一体どこに隠し持っていたのだろう。背中を無理矢理押して、扉へ向かわせた。
「桐子、その対応には可愛げがないぞ。もう少し愛想良くしてくれてもいいじゃないか」
「そうして欲しいんだったら、とっととお酒の量を減らしてくださいね。それではお休みなさい」
ばたん、と乱暴に扉を閉めると、ようやく部屋に静寂が訪れた。
事件の話をしたにも関わらず、夕食前と比べて気持ちが落ち着いている。師匠と夕飯を共にし、気の抜けるやり取りをしたお陰だろう。いつでも師匠は私を助けてくれる。そう言うと師匠は「買い被りだよ」と言うだろうけど。実際あんな酔っ払ってる姿を見ると、本当に買い被りだと思えるが。
着替えと風呂用具を用意し共同浴場へ向かう。途中、食堂で食器を返却し、返却口の向こうに調理師のおばさんが見えたので、一言「ごちそうさまです」とだけ添えてから立ち去った。こうした職員の人も魔術師だ。原則的に魔術師以外が協会で働くことはないので、あらゆる業務を所属する魔術して分担して行っている。
住み込みで働いている人もそれなりに多いが、赤川支部で働いている人の三分の一だか二分の一だかは、地元から通っている人だと言う。今日現場まで同行した田沢さんも、確か地元の人だったはずだ。一週間前に到着したばかりなので、この街のことはまだよくわかっていない。
前は協会の日本本部に居て、そこで師匠が教鞭を執っていた。今回のように事件があり、数週間から一ヵ月半くらい師匠が居ないことは稀にあった。師匠が現場で指揮を執らなくてはならないほどの事件がそう頻繁に起こることもなかったので、本当に稀なことであった。
今回はあくまでも私の実地訓練のために、師匠がわざわざ出向いているのである。今回の事件に解決の目処が立ったら、再び本部へ戻ることになっている。
窓の殆どない廊下を歩いているうちに浴場に到着した。それなりに賑わっている中、空いている籠に脱いだ服を入れる。
石鹸などが入ったプラスチックの桶を持ったまま浴場のドアを開けると、水分を多く含んだ湯気が素肌に当たってきた。中を見ても知り合いと呼べるような人は居なかったので、何人かこちらを見てきた人に軽く頭を下げて会釈し、シャワーへと向かった。3、40代の人が3人と、あと同年代の子が1人いるくらいで、あとは風呂に入っていた。
シャワーを浴びながらぼんやりと、肉体ではなく精神的な疲労感を実感する。肩に少し触れる黒髪を洗う。熱いシャワーが、纏わり着いていた汗を融かしてくれるように思えた。
全身を洗い終えると、大体5メートル四方あるかないかの湯船に浸かり、ぼーっとしながら温まった。少し離れた場所で、30代くらいの二人が話をしているのが目に留まった。一体何の話をしているのかは、反響するシャワーや桶の音でわからない。特別楽しい話題というわけではなさそうだ。だけどその二人は、一体何によってそう思えるのかがわからないが、とても仲が良いだろうことが感じ取れた。私の思い違いかもしれないが、少なくとも私にはそう映っている。
考えてみると、私には親友がいない。本部で暮らし始め、もう8年になる。当然それなりに人付き合いをして、それなりに仲が良くなった人は居る。空いた時間を同年代の知り合いと過ごすこともある。
だけど私は一歩引いた付き合いをしてしまっているのだろう。輪の中にあと一歩踏み込むことができない。多分その原因は、昔のことを忘れて楽しむことができないという部分があるからだと思う。また何人かは、私が師匠という特別な人物に唯一師事を請い、共に暮らしていることに対して思うところがあるようだ。その所為か大切なことを相談出来る相手は、師匠以外に思いつかない。
もっとも師匠は師匠で、たまに私が男子と話をしているのを目撃すると、後になって「さっき話していたのは誰だね」と必ず聞いてくる。いつも「ただのクラスメート」だと言っているし、嘘偽りない事実なのだが、答えを聞くと平静を装いつつも非常に安堵した表情を浮かべていた。もし彼氏でも出来たら、一体どんな反応をするのだろう。別に気になる相手もいないし、それどころか同姓の親友すらいないのに、考えるだけ滑稽だが。
さっきまでシャワーを浴びていた同世代の子が、湯船に近づいてきた。ちらりと私を見たが、それもほんの一瞬だけのことで、すぐに目を逸らしてくつろぎ始めた。あの子は私と違って友達が多いのだろうか。それともあまり人付き合いは得意ではないのだろうか。目つきの厳しい子だから人に対して厳しいのかな、などと考えているうちに、のぼせ始めてきたのであがることにした。出る際に横目で彼女を見て、心の中で失礼な考えを詫びながら、浴場を後にした。
タオルで体中の水分を拭き取り、色気のない灰色のトレーナーと紺の六分丈のスウェットパンツに着替えると、風呂用具一式を軽く拭いてビニール袋に突っ込んだ。ドライヤーで髪を乾かし終えると、汗を吸った服を洗わなければならないので、ランドリーに立ち寄ることにした。
洗濯物を中に入れ、スイッチオン。暇つぶしに置いてあった自然科学の雑誌を手に取ったものの、うつらうつらと舟を漕ぎ始めてしまった。あれだけ寝たにも関わらず凄く眠い。洗濯完了を告げる電子音に起こされ、思わずビクッとしてしまう。駄目だ。とっとと帰って寝よう。
睡魔に支配されかかっている頭で、忘れ物がないか確認するが、なんとも自信がない。まあ大丈夫だろう、と適当に見切りをつけて部屋へ戻る。
荷物を所定の位置に戻すと、ベッドに倒れこみそうになるが、まだ歯を磨いていないことを思い出した。面倒に思いつつも洗面台の前に立って歯を磨きながら、鏡を見る。顔の素材は悪くないと自分では思っているが、あまりにも呆けた今の顔では誰も寄り付かないだろう。口の端から垂れる歯磨き混じりの白い唾液を見ながら確信する。
全てを終えると、もうやらなければならないことはないということにして、電気を消してもぞもぞと布団を被る。一週間も経つと借り物の布団であっても、もう自分に馴染んでいた。疲労感がかえって心地よく眠りに誘う。
何物にも邪魔されることもなく眠りについた。不安なことも事件のことも、全て明日考えよう。いつの間にか朝が来て目が覚めるまで、ただ眠り続けた。