もっと美しい女がいい」と婚約破棄された悪役令嬢ですが、元婚約者の王太子が勝手に破産していきます。ええ、私は何もしておりませんわ?
「エレノア・フォン・ローゼンベルク。私は今日をもって、君との婚約を破棄する」
王太子ユリウスの声が響いた瞬間、エレノアは胸元の白薔薇に触れていた。
春の舞踏会が開かれている王宮の大広間には、まだ円舞曲が流れている。水晶の燭台が幾百もの光を散らし、磨き上げられた大理石の床には貴婦人たちの色鮮やかなドレスが映っていた。
そんな華やかな場所で、八年間続いた婚約が終わろうとしている。
「……恐れ入ります、殿下。今、何とおっしゃいましたか」
「婚約を破棄すると言ったのだ。何度も言わせるな」
ユリウスは苛立たしげに眉を寄せた。
二十四歳になる王太子は、金糸の刺繍を施した白い礼装をまとい、胸には王家の紋章を輝かせている。柔らかな金髪と澄んだ青い瞳を持つ、美しい青年だった。
その右手は、別の女性の手を握っていた。
ベルモント子爵家の三女、セシリア。
蜂蜜色の髪を緩やかに巻いた十八歳の令嬢は、淡い桃色のドレスをまとい、困ったように目を伏せている。
「私には、心から愛する女性ができた。セシリアだ」
「……左様でございますか」
「彼女は君とは違う。優しく、素直で、私の話を楽しそうに聞いてくれる。それに、何より美しい」
近くにいた貴族の誰かが息を呑んだ。
エレノアは微笑もうとしたが、うまくいかなかった。
今夜のために選んだ深紅のドレス。銀細工で結い上げた黒髪。母から譲り受けた真珠の首飾り。
そして、胸元に飾った一輪の白薔薇。
それは今朝、ユリウスから贈られたものだった。
『今夜は楽しみにしている』
花に添えられた短い手紙を、彼女は何度も読み返した。
久しぶりに一緒に踊ってもらえるかもしれない。
そんな期待を抱いていた自分が、ひどく愚かに思えた。
「君には感謝している。王太子妃になるための教育も、私の事業への協力も、よく頑張ってくれた」
ユリウスは得意げに続けた。
「だが、君は何でも難しく考えすぎる。新しい競馬場を造ろうとすれば予算が足りないと言い、劇場を建てようとすれば採算が合わないと言う。私は妻が欲しいのであって、財務官が欲しいわけではない」
数人の若い貴族が笑った。
エレノアはその声を聞きながら、半年前の出来事を思い出していた。
競馬場の建設予定地は雨季になると浸水する。
彼女は地盤調査を手配し、補強工事に必要な費用を計算した。その結果を伝えると、ユリウスは不機嫌になった。
『君はいつも私の夢を否定する』
翌日、エレノアは謝罪の手紙を書いた。
何に謝ったのか、今でもわからない。
「……殿下」
「何だ?」
「八年間、お世話になりました」
エレノアは深く頭を下げた。
「婚約解消の正式な手続きにつきましては、父と陛下にお任せいたします」
ユリウスは拍子抜けしたようだった。
「それだけか?」
「はい」
「泣いて縋ったりはしないのか?」
その言葉に、エレノアは初めて彼をまっすぐに見た。
「……そうしてほしかったのですか?」
「いや、そういうわけでは……」
「でしたら、これ以上お引き止めする理由もございませんわ」
彼女はもう一度礼をして、その場を離れようとした。
「待て、エレノア」
背後から呼び止められる。
「婚約は解消するが、君の家との関係まで悪くするつもりはない。私の事業には、今後も協力してもらいたい」
エレノアは足を止めた。
「……事業への協力、でございますか?」
「ああ。君はそういう仕事が得意だろう。これまでどおり、必要な書類を整えてくれればいい」
ユリウスは隣のセシリアに微笑んだ。
「彼女には、そんな面倒な仕事をさせたくないからな」
セシリアは嬉しそうに頬を染めた。
エレノアは二人を見つめた。
八年間。
彼のために何度徹夜しただろう。
何度、商人たちに頭を下げただろう。
何度、失敗した事業の帳簿を整理し、返済計画を立て直しただろう。
それでも、いつか自分を見てくれると信じていた。
「……承知いたしました」
エレノアは静かに答えた。
ユリウスの顔が明るくなる。
「そうか。やはり君は物わかりがいい」
「ただし、今後は正式な契約に基づいてお話を進めさせていただきます」
「契約?」
「はい。婚約者ではなくなるのですから、当然でしょう?」
ユリウスは面倒そうに手を振った。
「細かいことは任せる。君の好きなようにしろ」
「ありがとうございます」
エレノアは微笑んだ。
その笑顔を見て、ユリウスは満足そうに頷いた。
彼は知らなかった。
自分が今、何を許可したのか。
広間を出る直前、エレノアは胸元の白薔薇を外した。
花弁はまだ瑞々しく、甘い香りがする。
捨ててしまおうかと思った。
けれど、できなかった。
彼女は近くにいた給仕に声をかけ、小さな花瓶を用意してもらった。
「こちらに飾っていただけるかしら」
「かしこまりました、お嬢様」
白薔薇を花瓶に挿す。
そのとき、ふと涙がこぼれた。
エレノアは慌てて目元を押さえた。
泣くつもりなどなかった。
少なくとも、ここでは。
「……花に罪はないものね」
誰にも聞こえない声で呟き、彼女は王宮を後にした。
ローゼンベルク公爵邸に戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
玄関では、侍女長のマルタが待っていた。
四十代半ばの彼女は、栗色の髪をきっちりと結い上げ、濃紺の侍女服を着ている。エレノアが幼い頃から仕えてきた女性で、時には母親以上に厳しく、時には誰よりも優しかった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マルタ」
「お食事はいかがなさいますか。厨房に温かいスープを用意させておりますが」
「今夜は結構よ。少し疲れたわ」
マルタの視線が胸元に向かった。
「……白薔薇は、どうなさいました?」
「王宮に置いてきたの」
「殿下からのお花でしたのに」
「ええ」
それだけ答えて階段へ向かった。
三段目に足を掛けたところで、視界が滲んだ。
手すりを握る。
息を吸おうとしたが、うまくいかない。
「お嬢様?」
「……私、何か間違えたのかしら」
マルタが駆け寄った。
「何がございました?」
「八年間よ」
エレノアは手すりから手を離せなかった。
「八年間、あの方のために頑張ったの。勉強も、仕事も、社交も……好きなものだって、ずいぶん我慢したわ」
「はい」
「殿下がお嫌いだから、辛い料理も食べなくなった。赤いドレスは似合わないと言われたから、しばらく着なかった。あの方が失敗したときは、誰にも知られないように後始末をして……」
最後まで言えなかった。
マルタが彼女を抱きしめたからだ。
「もう、よろしいのですよ」
その一言で、エレノアは泣き崩れた。
公爵令嬢らしくも、未来の王妃らしくもない泣き方だった。肩を震わせ、息を詰まらせ、子供の頃のようにマルタの服を握り締めた。
マルタは何も尋ねなかった。
ただ、エレノアが泣き止むまで、ずっと背中を撫でていた。
翌朝、エレノアは父の執務室に呼ばれた。
ローゼンベルク公爵アーネストは、五十歳を過ぎても背筋の伸びた男だった。黒髪には銀色のものが混じり始めていたが、鋭い紅い瞳は娘によく似ている。
机には王宮から届いた書簡が置かれていた。
「婚約解消について、陛下から正式な協議の申し入れがあった」
「はい、お父様」
「お前はどうしたい?」
エレノアは少し驚いた。
「……どう、とは?」
「婚約を続けたいか。それとも終わらせたいか」
「王太子殿下が、すでに……」
「ユリウス殿下が何を望んでいるかは聞いておらん」
父は娘をまっすぐに見た。
「私は、お前の考えを聞いている」
エレノアは膝の上で指を組んだ。
昨日までなら、きっと婚約を続けたいと答えただろう。
王太子妃になることは、幼い頃からの目標だった。家のためにも、自分のためにも、そこから外れる未来など考えたことがなかった。
けれど今、ユリウスの隣に立つ自分を想像すると、胸の奥が冷たくなった。
「……終わらせたいです」
父は静かに頷いた。
「わかった」
「お父様。ご迷惑をおかけします」
「迷惑?」
「王家との関係が……」
「エレノア」
アーネストは書類を閉じた。
「お前が十四歳のとき、私はこの婚約を喜んだ。王家との結びつきが強くなることも、もちろん理由の一つだ」
「はい」
「だが、娘が八年間も働き詰めになることまでは望んでおらん」
エレノアは顔を上げた。
「お父様は、ご存じだったのですか?」
「知らなかったことのほうが問題だな」
父は苦い顔をした。
「お前が殿下の私的事業にどれほど関わっているか、私は把握しているつもりだった。だが、昨夜、帳簿を確認して驚いたよ」
机の引き出しから、分厚い書類が取り出された。
「ローゼンベルク商会が殿下個人に融資した金額だ。さらに、支払い保証を引き受けた契約もある」
エレノアは黙った。
「なぜ、ここまでした?」
「殿下がお困りでしたので」
「それだけか?」
答えようとして、言葉に詰まった。
父はしばらく待っていた。
やがて、エレノアは小さな声で答えた。
「……必要とされたかったのです」
アーネストの表情が変わった。
「仕事ができれば、殿下のお役に立てます。お役に立てれば、いつか……」
続きを言うことはできなかった。
父は深く息を吐いた。
「そうか」
そして、書類を娘の前に置いた。
「では、今日からは別のことを考えよう」
「別のこと?」
「お前自身が、何をしたいかだ」
その日の午後、商会の総支配人オスカーと法務顧問ヴィクトルが公爵邸に呼ばれた。
二人の前には、王太子関連の契約書が山のように積まれている。
「まず確認したいの」
エレノアは一冊目を開いた。
「私が婚約者でなくなった場合、ローゼンベルク家に残る義務は何かしら」
ヴィクトルは眼鏡を掛け直した。
「契約によります。婚約とは独立して締結された融資契約は、そのまま有効です。一方、婚約関係を前提とした無償の管理業務については、終了を申し入れる余地があります」
「融資を今すぐ全部回収することは?」
「できません。返済期限の到来していないものもございますし、正当な手続きを踏まねば、こちらが契約違反になります」
「そうよね」
エレノアは頷いた。
「では、期限を迎えたものから順に整理しましょう。更新は通常の審査を通して判断してちょうだい」
オスカーが尋ねた。
「殿下だからという理由で、特別に延長することは?」
「しないわ」
「逆に、殿下だからという理由で不利な条件をつけることは?」
「それもしないで」
オスカーは少し意外そうな顔をした。
エレノアは書類を揃えた。
「私がしたいのは、殿下を困らせるために規則を曲げることではないの。今まで曲げていた規則を、元に戻すだけよ」
「承知いたしました」
ヴィクトルは一通の書類を差し出した。
「では、王太子殿下に対する私的な事務支援の終了通知を作成いたします」
「お願い」
「ただし、事務を引き継ぐ者がいなければ、殿下の事業に混乱が生じる可能性があります」
「引継ぎ資料は用意しましょう。帳簿も、契約の一覧も、期限も、全部わかるように」
「ずいぶん親切ですな」
ヴィクトルが言うと、エレノアは少しだけ笑った。
「最後の仕事ですもの」
それから、窓の外へ目を向けた。
「……きちんと終わらせたいのよ」
ユリウスが最初に異変を感じたのは、婚約破棄から十五日目の朝だった。
執務室の机に、見慣れない書類が積まれていたのである。
「レオン。これは何だ?」
側近のレオン・クラウゼは、手にした帳簿から顔を上げた。
「今月中にご判断いただく必要のある案件でございます」
「なぜ私の机に置く?」
「殿下のご決裁が必要ですので」
「今まではエレノアが処理していただろう」
「ローゼンベルク公爵令嬢から、私的な事務支援を終了する旨の通知が届いております」
ユリウスは眉をひそめた。
「終了?」
「はい。引継ぎ資料はこちらにございます」
レオンは別の書類を差し出した。
ユリウスは数頁めくったところで、うんざりした顔になった。
「細かい字ばかりだな」
「契約の一覧です。特にこちらの三件は、今月末までにご対応いただく必要がございます」
「後でいい」
「ですが、期限が……」
「後でいいと言っている!」
レオンは黙った。
それ以上説明しても、今は聞いてもらえないとわかっていた。
ユリウスは椅子にもたれかかった。
「まったく。婚約を破棄したくらいで仕事まで放り出すとは、器の小さい女だ」
「殿下。恐れながら、これらは本来、殿下ご自身の事業でございます」
「だから何だ?」
「ローゼンベルク嬢には、これまで報酬をお支払いしていなかったものも多く……」
「婚約者なのだから当然だろう」
レオンは言葉を飲み込んだ。
そのとき、扉が開いた。
「ユリウス様!」
セシリアが明るい声で入ってきた。
蜂蜜色の髪を緩く巻き、白いレースのついた淡桃色のドレスを着ている。両手には小さな菓子箱を抱えていた。
「新しいお菓子屋さんを見つけたんですの。ご一緒にいかがですか?」
「おお、セシリア!」
ユリウスの顔がぱっと明るくなった。
「ちょうど退屈な仕事にうんざりしていたところだ」
「まあ。そんなにお忙しいのですか?」
「エレノアがくだらん書類を大量に残していってな」
セシリアは机の上を見た。
「大変そうですわね」
「心配するな。私が本気を出せば、こんなものはすぐに片づく」
そう言って、ユリウスは書類を脇へ押しやった。
その下に、返済期限を知らせる赤い印のついた通知があった。
誰も、その日のうちに開かなかった。
翌月、最初の融資が満期を迎えた。
王太子の会計係は、予定していた借り換えが認められなかったことを知り、慌ててレオンに相談した。
「ローゼンベルク商会から、更新審査の結果が届きました」
「どうでした?」
「追加担保が必要とのことです」
「担保にできる財産は?」
「既に別の融資に充てているものが多く……」
レオンは目を閉じた。
嫌な予感はしていた。
だが、ここまで早く現実になるとは思っていなかった。
「殿下にご報告しましょう」
二人が執務室へ向かうと、ユリウスはセシリアと結婚式の招待客について話していた。
「北方の公爵家も呼ぼう。盛大な式にしなければな」
「でも、あまり大勢ですと、準備が大変では……」
「心配するな。金ならある」
そこへレオンが入った。
「殿下。至急、ご相談がございます」
「今は忙しい」
「融資の返済についてです」
ユリウスは顔をしかめた。
「また金の話か」
「はい。今月末に金貨二万四千枚の返済が必要となります」
「……二万四千?」
セシリアが目を見開いた。
ユリウスはしばらく黙ったあと、鼻で笑った。
「そんなもの、銀行から借りればいい」
「既に打診いたしました。しかし、現在の負債状況では……」
「では、王家の財務局に頼め」
「殿下個人の借入金を、国庫から返済することはできません」
「なぜだ!」
「公金と私有財産は別だからです」
ユリウスは机を叩いた。
「私は王太子だぞ!」
レオンは静かに答えた。
「はい。ですからこそ、区別なさらなければなりません」
その言葉に、ユリウスは立ち上がった。
「エレノアを呼べ!」
「……殿下」
「今すぐだ! あいつなら何とかできる!」
レオンはしばらく黙っていた。
「お呼びすることはできます。しかし、応じていただけるかはわかりません」
「私が命令しているのだぞ!」
「もう、殿下の婚約者ではございませんので」
その一言で、部屋が静まり返った。
ユリウスは口を開いたまま固まった。
セシリアは不安そうに二人を見比べていた。
そして初めて、ある疑問を口にした。
「……ユリウス様」
「何だ?」
「エレノア様がいらっしゃらないと、本当に何もできないのですか?」
ユリウスの顔が赤くなった。
「そんなわけがあるか!」
彼は机の書類を掴んだ。
「私が全部やってやる!」
その日の午後、ユリウスは初めて、自分の事業の収支報告書を最初から最後まで読もうとした。
だが、三頁目で投げ出した。
数字が多すぎたからである。
王都東地区の再開発現場には、春の雨が降り続いていた。
足場の組まれた建物には作業員の姿がなく、積み上げられた木材には雨除けの布が掛けられている。半分だけ完成した噴水の周囲には泥水が溜まり、通りを行き交う商人たちは迷惑そうに遠回りしていた。
「……こんなことになっていたのね」
エレノアは馬車から降り、傘を差した。
隣に立つオスカーが、苦い顔で頷く。
「殿下の事業への融資が止まったため、工事代金の支払いが滞っております。職人組合からも苦情が出始めました」
「未払いはいくら?」
「確認できているだけで金貨三千枚ほどです」
エレノアは足場を見上げた。
この再開発計画は、もともと彼女が提案したものだった。
老朽化した倉庫を建て直し、市場と荷馬車の通路を整備する。地味ではあるが、商人たちの利益につながる事業になるはずだった。
ところが、ユリウスは途中で計画を変更した。
大理石を使った劇場。
貴族向けの高級商店。
巨大な噴水を備えた広場。
『王都には、もっと華やかなものが必要だ』
そう言って、建設費を倍以上に膨らませたのだ。
「……職人組合の代表に会いたいわ」
「お嬢様ご自身が?」
「ええ。現場を見ないと、何も判断できないもの」
翌日、エレノアは商業区の外れにある小さな工房を訪ねた。
建物の中には木屑の匂いが漂い、作業台の上には半分まで組み立てられた扉や窓枠が置かれていた。
工房の主人は、腕の太い中年の男だった。
「公爵令嬢様が、こんなところへ?」
「突然お邪魔して申し訳ありません」
エレノアは頭を下げた。
「東地区の工事について、お話を伺いたくて」
男は困ったように笑った。
「話したところで、金が戻ってくるわけじゃありませんよ」
「それでも、聞かせていただけませんか」
彼はしばらく黙っていたが、やがて奥の椅子を勧めた。
「……うちは、三代続く工房なんです」
男は作業台を撫でた。
「王太子殿下の仕事だって聞いたときは、家族みんなで喜びました。こんな小さな工房にまで声をかけてもらえたんですから」
「はい」
「でも、納品して半年になるのに、代金が払われない。材料屋への支払いもあるし、職人の給金だって必要です」
奥から、十歳くらいの少年が顔を覗かせた。
男は慌てて追い払おうとしたが、エレノアが微笑むと、少年は恥ずかしそうに頭を下げた。
「息子です」
「可愛らしいわね」
「……あいつに、工房を継がせたいんですがね」
男は小さく笑った。
「このままじゃ、店を閉めるしかないかもしれません」
エレノアは何も言えなかった。
自分がユリウスの事業を支えていた頃、こうした人々のことをどれほど考えていただろう。
帳簿の数字は見ていた。
契約の期限も確認していた。
けれど、その数字の向こうにいる人々の顔を、ちゃんと見ていただろうか。
「……必ずお支払いします、とは申し上げられません」
エレノアは正直に言った。
「私に、その権限はありませんから」
男は黙って頷いた。
「ですが、未払いの契約を整理し、工事を引き継げる事業者がいないか調べることはできます」
「そんなことが?」
「簡単ではありません。時間もかかると思います」
エレノアは少年を見た。
「それでも、何もしないよりはいいでしょう?」
男は深く頭を下げた。
エレノアは、その礼を受けるのが少し苦しかった。
まだ、何も解決していないのだから。
それから二週間、エレノアは商人組合や銀行を訪ね歩いた。
未払い債権を整理し、採算の見込める部分だけを引き継ぐ案をまとめる。
しかし、簡単には進まなかった。
「王太子殿下が関わっている事業でしょう?」
ある銀行家は渋い顔をした。
「政治的な問題に巻き込まれたくありませんな」
別の商人は、もっと率直だった。
「ローゼンベルク家が殿下と揉めているのは有名です。あなたが再建を主導すれば、復讐だと受け取られかねませんよ」
エレノアは反論できなかった。
実際、そう考える者がいても不思議ではなかったからだ。
そして、その懸念は現実になった。
ある朝、王都の新聞に大きな見出しが載った。
『ローゼンベルク公爵令嬢、元婚約者の事業を奪取か』
エレノアは朝食の席で、その記事を読んだ。
記事には、彼女が東地区の再開発事業を安値で手に入れようとしている、と書かれていた。
事実ではなかった。
だが、彼女が商人たちと交渉していることは事実だった。
「……どこから漏れたのかしら」
マルタが心配そうに尋ねた。
「お嬢様。これは……」
「誰かが、私の動きを調べているのね」
エレノアは新聞を畳んだ。
その日の午後、商会に王宮から使者が来た。
国王の命令により、東地区再開発事業に関係するローゼンベルク商会の取引について、正式な調査が行われるという。
オスカーは顔を青くした。
「お嬢様。調査が終わるまで、銀行との交渉が止まるかもしれません」
「……そうね」
「殿下が動かれたのでしょうか」
エレノアは窓の外を見た。
しばらくして、静かに答えた。
「たぶん」
初めてだった。
ユリウスが、彼女の仕事に直接打撃を与えたのは。
エレノアは机の上の地図を見つめた。
東地区の小さな工房。
職人の息子。
未払いの給金。
自分の判断が間違っていれば、彼らまで巻き込んでしまう。
「……私、少し思い上がっていたのかもしれないわ」
オスカーが顔を上げた。
「お嬢様?」
「殿下のことなら、何でもわかっているつもりだった」
エレノアは苦笑した。
「でも、あの方だって、ただ黙っているわけではないのね」
彼女は地図を閉じた。
「ヴィクトルを呼んでちょうだい。調査には全面的に協力するわ」
「承知いたしました」
「それから、職人組合にも事情を説明して。無責任な約束はしたくないの」
オスカーが退出すると、エレノアは一人になった。
窓の外では、春の雨が降り始めていた。
彼女は椅子に深く腰掛けた。
今度こそ、簡単には勝てない。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
ユリウスは上機嫌だった。
久しぶりに、何もかもが思いどおりに進んでいるように感じられた。
「見たか、レオン!」
彼は新聞を机に広げた。
「エレノアの化けの皮が剥がれたぞ!」
レオンは記事を読んだ。
「……殿下。この記事には、まだ証拠が示されておりません」
「証拠ならある!」
ユリウスは一冊の書類を取り出した。
「ローゼンベルク商会が東地区の事業者と接触している記録だ。あの女は私の事業を奪うつもりだったのだ!」
「接触していることと、不正な取引を行ったことは別です」
「お前はいつもそうだ!」
ユリウスは不機嫌そうに言った。
「なぜ、私の味方をしない?」
レオンは答えなかった。
以前なら、王太子の機嫌を損ねないように言葉を選んだだろう。
だが、もう限界だった。
「殿下」
彼は静かに言った。
「私は殿下にお仕えしております。だからこそ、事実を申し上げています」
「……」
「今、必要なのはローゼンベルク嬢を責めることではありません。未払いの工事代金をどうするか、今後の返済をどうするか、それを決めることです」
ユリウスは顔を背けた。
「そんなことは、後でいい」
「後では間に合いません」
「私は勝ったのだぞ!」
レオンは深く息を吐いた。
「……何に、でございますか?」
ユリウスは答えられなかった。
その夜、セシリアはユリウスの私室を訪ねた。
彼女は淡い黄色のドレスを着ていたが、以前のように宝石を身につけていなかった。
「ユリウス様」
「セシリアか。ちょうどよかった」
ユリウスは嬉しそうに笑った。
「エレノアの悪事が明らかになりつつある。これで、私たちの結婚式も予定どおり行えるだろう」
セシリアは少し黙った。
「……本当に、そうでしょうか」
「何?」
「調査が始まっただけですわ。まだ、エレノア様が悪いことをなさったと決まったわけでは……」
「お前まであの女の肩を持つのか!」
ユリウスの声が鋭くなった。
セシリアは肩を震わせた。
だが、今回は黙らなかった。
「わたくし、最近ずっと考えておりました」
「何をだ」
「エレノア様は、八年間もユリウス様を支えていらしたのでしょう?」
「……それがどうした」
「でしたら、どうして今になって、あの方が悪い人だったとおっしゃるのですか?」
ユリウスは顔をしかめた。
「お前にはわからん」
「わかりたいのです」
「何?」
「わたくし、ユリウス様のお役に立ちたいんです。でも、何も知らないままでは……」
セシリアは胸元で手を握った。
「お金のことも、政治のことも、少しずつ勉強したいと思っています」
ユリウスは呆れたように笑った。
「そんなことをする必要はない」
「でも……」
「君は美しく笑っていればいい。それが君の役目だ」
セシリアの顔から、ゆっくりと表情が消えた。
その言葉は、以前なら嬉しかったかもしれない。
美しいと言われること。
守ってもらえること。
何も心配しなくていいと言われること。
けれど今は、なぜか胸が苦しかった。
「……わたくしは」
彼女は小さな声で言った。
「本当に、それだけの人間なのでしょうか」
ユリウスは聞いていなかった。
新聞を手に取り、エレノアの記事を読み返していたからだ。
セシリアは静かに部屋を出た。
廊下の窓から、夜の庭園が見えた。
彼女は窓辺に立ち、しばらく月を眺めていた。
美しいだけでは、誰の役にも立てない。
そのことを、初めて恐ろしいと思った。
ローゼンベルク商会への調査は、一か月に及んだ。
帳簿、契約書、商人たちとの往復書簡。提出を求められた資料は膨大で、商会の事務員たちは夜遅くまで働くことになった。
エレノアも例外ではなかった。
窓の外が暗くなっても、執務室の明かりは消えない。
「お嬢様、少しお休みください」
マルタが温かいスープを運んできた。
「ありがとう。でも、あと少しだけ」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「……そうだったかしら」
マルタは盆を置いた。
「お嬢様。殿下との婚約があった頃と、同じお顔をなさっています」
エレノアの手が止まった。
「同じ顔?」
「はい。何もかも、ご自分で背負おうとなさるときのお顔です」
エレノアは書類に目を落とした。
商会の従業員たちは、自分を信じて働いてくれている。
職人組合も、調査が終わるのを待っている。
自分が失敗すれば、彼らに迷惑がかかる。
「……私が始めたことなの」
「はい」
「だから、最後まで責任を持たなくては」
「それは立派なお考えです」
マルタは静かに続けた。
「ですが、責任を持つことと、すべてを一人で抱えることは違います」
エレノアは顔を上げた。
マルタは微笑んだ。
「お嬢様には、頼れる方が大勢いらっしゃいますよ」
その言葉に、エレノアはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうね」
彼女は呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして、オスカーが入ってきた。
「お呼びでしょうか」
「明日から、仕事を分担しましょう」
「と申しますと?」
「契約関係はヴィクトルに。会計資料はあなたに。職人組合との連絡は、商会の担当者にお願いしたいの」
オスカーは少し驚いた。
「お嬢様ご自身は?」
「全体の方針を確認するわ。それから……」
エレノアはマルタを見た。
「今夜は、ちゃんと夕食を取ることにする」
マルタは満足そうに頷いた。
「それがよろしゅうございます」
調査の結果が出たのは、それから十日後だった。
ローゼンベルク商会による違法な資産取得は確認されなかった。
ただし、エレノアが元婚約者の事業再建に関わることで利益相反を疑われる余地があると指摘され、今後は第三者による入札と監督のもとで手続きを進めることになった。
エレノアは、その判断を受け入れた。
自分の思いどおりには進まなくなったが、誰から見ても公正な手続きにするためには必要なことだった。
そして、その調査には思わぬ副産物があった。
王太子の事業に関する帳簿を精査したところ、工事代金の一部が、実際には納品されていない資材に支払われていたことが判明したのである。
さらに、複数の契約書にユリウス自身の承認印が押されていた。
監査官は、王太子に説明を求めた。
「殿下。こちらの支出について、ご説明いただけますか」
「……知らん」
「殿下の承認印がございます」
「部下に任せていたのだ!」
「では、どなたに?」
ユリウスは答えられなかった。
彼は、契約書をろくに読まずに承認していた。
誰が何を買い、どこに金を払っているのか。
それさえ把握していなかった。
調査官は静かに記録を取った。
ユリウスは初めて、自分が何をしてきたのかを恐ろしく感じた。
数日後、王宮で国王との面会が行われた。
アルベルト三世は、厳しい表情で息子を見つめていた。
「ユリウス」
「……はい、父上」
「お前の私的事業について、監査報告を受けた」
ユリウスは顔を伏せた。
「不正な請求を行った業者については、法に従って処分される。だが、お前にも重大な責任がある」
「私は、騙されたのです!」
「そうだろうな」
国王は静かに答えた。
「だが、騙されたからといって、すべての責任が消えるわけではない」
「……」
「お前は王太子の名を使い、多くの人間を事業に参加させた。商人も、職人も、投資家も、お前を信じたのだ」
国王は机の上に一枚の書類を置いた。
「そして、お前は彼らの信頼に応えなかった」
ユリウスは唇を噛んだ。
「父上……私は……」
「王太子としての公務を、当面停止する」
ユリウスは顔を上げた。
「……何と?」
「王位継承についても、王族会議で再検討する」
「お待ちください!」
ユリウスは立ち上がった。
「私は、あなたの息子です!」
「だからこそ、ここまで待った」
国王の声は低かった。
「何度も忠告した。何度も機会を与えた。それでも、お前は自分の責任を認めようとしなかった」
ユリウスは震えていた。
「……エレノアが悪いのです」
その言葉を聞いた瞬間、国王の表情から、最後の温かさが消えた。
「まだ、そう言うのか」
「だって、あの女が融資を……!」
「ユリウス!」
国王の怒声が響いた。
ユリウスは息を呑んだ。
「お前は、いつまで他人のせいにするつもりだ!」
長い沈黙が流れた。
国王は疲れたように椅子に座った。
「……もうよい。下がりなさい」
ユリウスは何も言えず、部屋を出た。
廊下には誰もいなかった。
以前なら、彼が歩けば侍従たちが頭を下げ、貴族たちが挨拶に来た。
今は違う。
誰も、彼を待っていなかった。
王族会議の決定は、初夏のある朝に発表された。
ユリウスの王太子位は剥奪され、王位継承順位からも外されることになった。
不正な資金流用を自ら指示した証拠は見つからなかったため、刑事罰は科されなかった。しかし、私的事業の監督を怠った責任は重く、国王は彼を公務から退かせるとともに、王家の私有財産から一定額を拠出して未払い債務の整理に充てることを命じた。
残る個人債務については、ユリウス自身が返済しなければならない。
彼に残されたのは、王都郊外の小さな屋敷と、最低限の生活費だけだった。
豪華な馬車は売却された。
宝石も、別荘も、競走馬も。
かつて自慢していたものが、次々と手元から離れていった。
そして、何より大きかったのは、人々の態度の変化だった。
「殿下、こちらの書類に……」
そう呼びかけかけた元侍従が、慌てて言い直した。
「……ユリウス様」
ユリウスは何も言えなかった。
王太子ではなくなった。
それだけのことなのに、世界がまるで違って見えた。
セシリアの実家であるベルモント子爵家も、厳しい状況に置かれていた。
子爵は娘が王太子妃になると信じ、結婚準備のために多額の借金をしていた。
豪華な衣装。
新しい馬車。
王宮での生活にふさわしい家具。
それらの代金が、まだ払い終わっていなかった。
「セシリア!」
父の怒声が屋敷に響いた。
「お前があの方に見初められたから、我が家はこんなことになったのだ!」
セシリアは俯いた。
「申し訳ございません、お父様」
「謝って済むものか!」
母は泣きながら椅子に座っていた。
兄たちは、家の財産をどう守るかで言い争っていた。
セシリアは、その光景を見つめていた。
自分は何も知らなかった。
王太子妃になれば、家族も幸せになる。
そう信じていた。
けれど、誰かの妻になるだけで、すべてがうまくいくわけではなかった。
その夜、彼女はユリウスのもとを訪ねた。
小さな屋敷の応接室には、以前のような豪華な家具はなかった。
ユリウスは窓際に立っていた。
「セシリア……」
彼は振り返った。
「来てくれたのか」
「はい」
セシリアは静かに頭を下げた。
「ユリウス様。お話がございます」
彼は苦笑した。
「婚約を解消したいのだろう?」
セシリアは目を見開いた。
「……どうして」
「父上から聞いた。ベルモント家も困っているそうだな」
「はい」
「ならば、仕方ない」
ユリウスは窓の外を見た。
「私はもう王太子ではない。君に何も与えられない」
セシリアはしばらく黙っていた。
それから、小さく首を振った。
「……違います」
「何?」
「わたくし、ユリウス様と一緒にいたいと思っております」
ユリウスは驚いた。
「本気か?」
「はい」
「だが、私は……」
「ただし」
セシリアは彼をまっすぐに見た。
「今までのような暮らしは、もうできません」
ユリウスは黙った。
「わたくしも働きます。ユリウス様にも、働いていただきたいのです」
「……働く?」
「はい」
ユリウスは乾いた笑いを漏らした。
「元王太子に、何ができるというのだ」
セシリアは少し考えた。
「……わかりません」
「おい」
「でも、探せば何かあるはずです」
彼女は小さく微笑んだ。
「わたくしたち、今まで何も知らなかったのですもの。これから覚えればいいのではありませんか?」
ユリウスは答えられなかった。
セシリアは彼の手を取った。
「一緒に、やり直しませんか?」
ユリウスはその手を見つめた。
柔らかく、温かい手だった。
以前なら、彼女の手が荒れるような仕事などさせたくないと思っただろう。
だが、今は違った。
彼女の言葉に、初めて救われた気がした。
「……そうだな」
彼は小さく頷いた。
「やってみよう」
ユリウスが初めて訪ねたのは、王都の商人組合だった。
かつて王太子として何度も招かれた建物である。
しかし、その日は入口で止められた。
「ご用件をお伺いします」
受付の青年が丁寧に尋ねた。
「仕事を探している」
青年は一瞬、目を見開いた。
「……お仕事、でございますか?」
「ああ」
「どのような業務をご希望でしょうか」
ユリウスは答えに詰まった。
どのような業務。
考えたこともなかった。
「……事業の管理などだ」
「実務経験はございますか?」
「私は王太子だったのだぞ!」
思わず声が大きくなった。
青年は困ったように微笑んだ。
「それは存じております。ただ、採用にあたりましては、具体的な経験を確認させていただく必要がございまして……」
ユリウスは黙った。
事業の管理。
契約書の確認。
帳簿の整理。
どれも、エレノアやレオンに任せていた。
自分で何かを完成させた記憶が、ほとんどなかった。
「……また来る」
彼はそう言って、建物を出た。
二軒目の商会では、会計係の募集があった。
ユリウスは簡単な計算問題を渡された。
売上と仕入れ。
人件費。
運送費。
利益。
数字を見つめているうちに、頭が痛くなった。
「……時間が足りん」
担当者は時計を見た。
「まだ十分ございますが」
ユリウスは紙を握り締めた。
結局、試験には落ちた。
三軒目では、荷物の検品係を募集していた。
しかし、重い木箱を運ぶ必要があると聞き、ユリウスは顔をしかめた。
「私に肉体労働をしろというのか?」
「そういうお仕事ですので」
四軒目では、店番の募集があった。
ユリウスは接客ならできると思った。
王宮では、多くの人々と話してきたからだ。
だが、店主から商品の値段を尋ねられ、答えられなかった。
「……覚えればよいのだろう」
「もちろんです。ただ、お客様に怒鳴らないことも覚えていただきませんと」
ユリウスは顔を赤くした。
五軒目では、面接の途中で帰った。
六軒目では、履歴書の書き方がわからなかった。
七軒目では、以前の事業の失敗について尋ねられ、何も答えられなかった。
夕方になる頃には、足が痛くなっていた。
ユリウスは公園のベンチに腰を下ろした。
通りを行き交う人々は、誰も彼に気づかない。
いや、気づいている者もいた。
だが、以前のように頭を下げたり、道を開けたりはしなかった。
「……私は、何をしていたのだろう」
彼は呟いた。
二十四年間。
王太子として生きてきた。
誰かに命じれば、何でも用意された。
欲しいものは手に入り、困ったことがあれば誰かが解決した。
それが当然だと思っていた。
だが今、自分の力だけでは、一日の食事代さえ稼げない。
ユリウスは両手で顔を覆った。
悔しかった。
情けなかった。
そして、何より腹立たしかった。
自分が、これほど何もできない人間だったことが。
その頃、セシリアも仕事を探していた。
彼女が最初に訪ねたのは、王都の高級仕立屋だった。
「刺繍なら、少しできます」
セシリアは小さな布を差し出した。
白い布には、可愛らしい花模様が縫い込まれている。
店主の女性は、それをじっくりと見た。
「綺麗ね」
セシリアの顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
「でも、商品として売るには、まだ縫い目が不揃いだわ」
「……そう、ですか」
「練習すれば上達すると思うけれど、今すぐ職人として雇うのは難しいわね」
セシリアは深く頭を下げた。
次に訪ねたのは、菓子店だった。
しかし、厨房で働いた経験がないと聞き、店主は困った顔をした。
その次は花屋。
さらに、その次は宿屋。
どこでも、同じようなことを聞かれた。
『何ができますか?』
セシリアは、その質問が怖くなった。
自分は、美しいと言われて育った。
踊りも、歌も、刺繍も習った。
けれど、それを仕事にできるほど上手だっただろうか。
家では、使用人が何でもしてくれた。
掃除も、洗濯も、料理も。
自分は何一つ、満足にできない。
夕暮れの通りで、セシリアは立ち止まった。
そして、涙をこぼした。
「……わたくし、本当に何もできないのね」
そのとき、後ろから声がした。
「ベルモント嬢?」
振り返ると、そこにエレノアが立っていた。
淡い青緑色のドレスに、白い手袋。
隣にはマルタがいる。
「エレノア様……」
セシリアは慌てて涙を拭った。
「ご、ご機嫌よう」
エレノアは彼女の顔を見た。
それから、静かに尋ねた。
「何かあったの?」
セシリアは答えようとした。
だが、声が出なかった。
エレノアは少し考え、近くの喫茶店を指した。
「よろしければ、お茶でもいかが?」
セシリアは驚いた。
「……わたくしと、ですか?」
「ええ」
「でも……」
「今日は、少し時間があるの」
エレノアは微笑んだ。
「それに、私も甘いものが食べたい気分なのよ」
セシリアはしばらく迷った。
そして、小さく頷いた。
喫茶店の奥の席で、セシリアは温かい紅茶を両手で包んでいた。
エレノアは向かいに座り、檸檬の焼き菓子を一つ皿に取った。
「お仕事を探していらしたのね」
セシリアは驚いた。
「……どうして、おわかりに?」
「手に持っていらした書類に、求人の文字が見えたから」
セシリアは慌てて書類を隠そうとした。
エレノアは首を振った。
「恥ずかしいことではなくてよ」
「……でも」
セシリアは俯いた。
「どこへ行っても、断られてしまうんです」
「そう」
「刺繍も、料理も、掃除も……何も上手にできなくて」
エレノアは黙って聞いていた。
「わたくし、ずっと思っていました。美しければ、誰かに愛してもらえる。愛してもらえれば、幸せになれるって」
セシリアは唇を噛んだ。
「でも、それだけでは駄目だったんですね」
エレノアはしばらく考えた。
「……ベルモント嬢」
「はい」
「あなたは、これからどうしたいの?」
セシリアは顔を上げた。
「どう、とは……」
「誰かに言われたことではなく、あなた自身が望むことよ」
セシリアは黙った。
そんなことを聞かれたのは、初めてだった。
父は、良い結婚をしろと言った。
母は、美しくあれと言った。
ユリウスは、笑っていればいいと言った。
自分が何をしたいのか。
考えたこともなかった。
「……働けるようになりたいです」
やがて、彼女は小さな声で答えた。
「誰かに守ってもらうだけではなく、自分の力で生活できるようになりたい」
エレノアは頷いた。
「それなら、まずは覚えることから始めましょう」
「覚える……?」
「ええ。最初から何でもできる人なんていないもの」
セシリアは目を瞬かせた。
「エレノア様も、そうだったのですか?」
エレノアは少し笑った。
「もちろんよ。十四歳の頃、初めて帳簿を見たときなんて、数字を一つ間違えて大騒ぎになったわ」
「まあ……」
「先生に叱られて、悔しくて、夜中まで練習したの」
セシリアは初めて笑った。
エレノアは紅茶を飲んだ。
「……ただ、一つだけ聞いてもいいかしら」
「はい」
「ユリウス殿下とは、今もご一緒なの?」
セシリアは頷いた。
「はい」
「そう」
「でも、以前のような関係ではありません」
彼女は少し考えた。
「今は、二人で働いて、生活を立て直そうとしています」
エレノアは静かに頷いた。
「それなら、あなた自身のためにも、きちんと仕事を覚えたほうがいいわね」
「はい」
セシリアは深く頭を下げた。
「エレノア様。もし、どこかで働ける場所をご存じでしたら……」
エレノアは少し考えた。
そして、隣に座るマルタを見た。
「マルタ」
「はい、お嬢様」
「うちの屋敷で、侍女の見習いを募集していなかったかしら」
マルタは目を見開いた。
「……募集はしておりますが」
セシリアも驚いた。
「じ、侍女……ですか?」
エレノアは頷いた。
「もちろん、簡単な仕事ではないわ。掃除も、洗濯も、食事の準備も、覚えることがたくさんあるもの」
「……」
「それに、私の屋敷で働くことになるのだから、あなたも気まずいでしょう」
セシリアは俯いた。
確かに、気まずかった。
かつて自分が婚約者の座を奪った女性の屋敷で、使用人として働く。
そんなこと、以前なら考えられなかった。
けれど。
「……やってみたいです」
セシリアは顔を上げた。
「本当に?」
「はい」
彼女の声は震えていた。
「何もできないまま、誰かに守ってもらうだけの自分ではいたくありません」
エレノアはしばらく彼女を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「では、マルタに相談しましょう」
マルタは深く頭を下げた。
「承知いたしました。ただし、採用試験はほかの応募者と同じ条件で受けていただきます」
セシリアは驚いたあと、真剣な顔で頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします」
エレノアは焼き菓子を一つ、彼女の皿に置いた。
「まずは、お茶を飲みましょう。仕事の話は、それからでも遅くないわ」
セシリアは小さく笑った。
その笑顔は、以前のように誰かに見せるためのものではなかった。
心からの笑顔だった。
セシリアがローゼンベルク公爵邸にやって来たのは、それから十二日後だった。
彼女は侍女の採用試験に合格していた。
もっとも、成績は決して良くなかった。
文字の読み書きと礼儀作法は優秀だったが、洗濯物の扱いも、食器の手入れも、掃除道具の使い方も、ほとんど知らなかったからである。
それでもマルタが採用を認めたのは、失敗を指摘されるたびにセシリアがメモを取り、翌日には少しずつ改善していたためだった。
「ベルモント嬢」
初日の朝、マルタは彼女に声をかけた。
「今日から、こちらではセシリアとお呼びします。よろしいですね」
「はい!」
「それから、勤務中は私の指示に従っていただきます。以前のお立場に関係なく、特別扱いはいたしません」
「承知いたしました」
「よろしい。では、まず制服に着替えてください」
セシリアは渡された服を見つめた。
黒いワンピースに白いエプロン。
袖口には小さなレースがついている。
以前の豪華なドレスとは比べものにならないほど簡素だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……可愛らしい制服ですね」
マルタは少しだけ笑った。
「汚れても構わないように作られております。お仕事をするための服ですから」
「はい」
セシリアは頷いた。
そして、初めて自分で制服の紐を結んだ。
最初の仕事は、客間の掃除だった。
セシリアは張り切って箒を持った。
だが、十分後。
「……セシリア」
マルタが静かに呼んだ。
「はい!」
「埃を、どうなさいました?」
「え?」
「箒で、あちらからこちらへ移動させただけではありませんか」
セシリアは床を見た。
確かに、埃が部屋の隅に集まっている。
「……申し訳ございません」
「謝る前に、どうすればよいか考えてみましょう」
「はい……」
さらに一時間後。
セシリアは花瓶を磨こうとして、うっかり水をこぼした。
「きゃっ!」
慌てて布を取ろうとしたが、足が滑った。
次の瞬間、床に尻もちをついていた。
「いたた……」
扉の向こうから、笑い声が聞こえた。
エレノアだった。
「……エレノア様!」
セシリアは真っ赤になった。
「申し訳ございません! すぐに片づけます!」
エレノアは口元を押さえた。
「ええ。まずは落ち着いて」
そして、マルタに尋ねた。
「怪我はないかしら」
「幸い、ございません」
「それならよかったわ」
エレノアは床に落ちた布を拾った。
セシリアが慌てて手を伸ばす。
「わ、わたくしが!」
「大丈夫よ。これくらい」
エレノアは布を渡した。
「でも、次からは花瓶を持ち上げる前に、周りを片づけておくといいわね」
「はい……」
セシリアは恥ずかしそうに頷いた。
エレノアは微笑んだ。
「失敗するのは構わないわ。同じ失敗を減らしていけばいいのだから」
セシリアはその言葉を胸に刻んだ。
三か月が過ぎた。
セシリアは、まだ一人前の侍女ではなかった。
それでも、以前よりずっと多くのことができるようになっていた。
客間を整え、洗濯物を仕分け、来客に茶を出す。
ときには失敗もした。
紅茶を濃く淹れすぎたり、食器の数を間違えたり。
だが、逃げなくなった。
ある日の午後、エレノアは執務室で書類を読んでいた。
扉が叩かれる。
「失礼いたします、エレノア様」
セシリアが入ってきた。
黒い侍女服に白いエプロン。
蜂蜜色の髪は、仕事の邪魔にならないようにきちんとまとめられている。
「お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう、セシリア」
彼女は慣れた手つきで茶器を並べた。
エレノアは紅茶を一口飲んだ。
「……美味しいわ」
セシリアの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。とても」
セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、エレノアはふと思った。
この娘は、こんなふうにも笑うのだ。
誰かに美しいと言われたときではなく、自分の仕事を認められたときに。
「セシリア」
「はい」
「最近、仕事はどう?」
セシリアは少し考えた。
「大変です」
エレノアは笑った。
「正直ね」
「でも、楽しいです」
「そう」
「最初は、何もできなくて恥ずかしかったんです。でも、少しずつ覚えていくと……」
彼女は自分の手を見た。
以前より少し荒れている。
けれど、その手でできることが増えた。
「自分にも、できることがあるんだって思えるようになりました」
エレノアは静かに頷いた。
「それは、素晴らしいことね」
セシリアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、エレノア様」
エレノアは微笑んだ。
「お礼なら、マルタに言ってあげて。あなたを教えたのは、あの人だもの」
扉の外で聞いていたマルタは、そっと目を細めた。
秋の終わり。
ローゼンベルク商会の受付に、一人の男が現れた。
濃い灰色の上着を着た、金髪の青年だった。
以前より少し痩せ、顔には疲労の色が浮かんでいる。
「……エレノアに会いたい」
受付の女性は、彼の顔を見て驚いた。
「ユリウス様……」
「仕事の相談だ」
女性は少し迷ったあと、奥へ案内した。
エレノアは執務室で書類を整理していた。
扉が叩かれる。
「お嬢様。お客様がお見えです」
「どなた?」
「ユリウス様でございます」
エレノアの手が止まった。
しばらくして、彼女は静かに答えた。
「お通しして」
ユリウスが入ってきた。
二人が顔を合わせるのは、王族会議の決定以来だった。
「……久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、ユリウス様」
彼は少しだけ顔をしかめた。
殿下ではない。
もう、その呼び名で呼ばれる立場ではなかった。
「……仕事を探している」
エレノアは頷いた。
「そうですか」
「いくつも商会を回った。だが、どこも雇ってくれない」
「それは、お困りでしょうね」
「……ああ」
ユリウスは拳を握った。
「私は、何もできないらしい」
エレノアは黙っていた。
「帳簿も読めない。商品の値段も知らない。人を雇うにも、金を払うにも、何が必要なのかわからない」
彼は苦笑した。
「王太子だった頃は、何でも知っているつもりだった」
エレノアは静かに尋ねた。
「それで、私に何をお望みなのですか?」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……雇ってほしい」
エレノアは目を見開いた。
「私の商会で?」
「ああ」
「なぜ、こちらに?」
「……ここなら、私に足りないものを教えてもらえると思った」
エレノアは彼を見つめた。
以前のユリウスなら、絶対に口にしなかった言葉だった。
「……ユリウス様」
「何だ」
「私は、あなたを特別扱いするつもりはありません」
「わかっている」
「仕事ができなければ、叱られます。失敗すれば、責任を取っていただきます」
「……ああ」
「それでも、よろしいのですか?」
ユリウスは顔を上げた。
青い瞳には、以前のような傲慢さがまだ少し残っていた。
だが、その奥には別のものがあった。
悔しさ。
恥ずかしさ。
そして、わずかな覚悟。
「……やってみたい」
エレノアはしばらく考えた。
それから、机の上の呼び鈴を鳴らした。
「オスカーを呼んでちょうだい」
ほどなくして、総支配人が入ってきた。
「お呼びでしょうか」
「新しい応募者よ」
エレノアはユリウスを見た。
「採用試験をお願いできる?」
オスカーは目を見開いた。
だが、すぐに表情を整えた。
「承知いたしました」
ユリウスは驚いた。
「……試験があるのか?」
エレノアは微笑んだ。
「もちろんですわ」
「私は、元王太子だぞ」
思わず口にしてから、ユリウスは顔をしかめた。
エレノアは何も言わなかった。
ただ、静かに待っていた。
ユリウスは深く息を吐いた。
「……いや。すまない」
彼は頭を下げた。
「試験を受けさせてくれ」
エレノアは頷いた。
「では、頑張ってくださいませ」
採用試験の結果は、散々だった。
計算問題は半分も解けなかった。
契約書の読解では、重要な条件を見落とした。
商業知識の試験では、基本的な用語さえ知らなかった。
オスカーは結果を見て、深くため息をついた。
「……お嬢様」
「どうだった?」
「通常の事務職としては、不採用です」
「そう」
「ただし、倉庫の補助作業であれば、見習いとして雇うことは可能かと」
エレノアは頷いた。
「では、その条件を提示しましょう」
ユリウスが呼ばれた。
オスカーは書類を差し出した。
「ユリウス様。事務職としての採用は見送らせていただきます」
ユリウスは顔を伏せた。
「……そうか」
「ただし、倉庫の補助作業員として、三か月の試用期間を設けることは可能です」
「倉庫……?」
「はい。商品の検品、在庫の整理、運搬の補助などを担当していただきます」
ユリウスはしばらく黙っていた。
倉庫。
かつての自分なら、見向きもしなかった仕事だった。
だが、今は違う。
「……給金は?」
オスカーが金額を告げた。
ユリウスは目を見開いた。
「そんなに少ないのか!」
「見習いとしては標準的な金額です」
ユリウスは口を閉じた。
しばらくして、ゆっくりと頷いた。
「……わかった」
エレノアは静かに尋ねた。
「本当に、よろしいのですね?」
ユリウスは彼女を見た。
そして、苦笑した。
「……今さら、格好をつけても仕方ないだろう」
エレノアは微笑んだ。
「では、明日からよろしくお願いいたします」
ユリウスは深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
その姿を見て、エレノアは少しだけ胸が痛んだ。
八年前、彼女が憧れた王子様は、もういない。
だが、目の前には一人の青年がいた。
何も知らず、何もできず、それでもようやく自分の足で立とうとしている青年が。
エレノアは静かに思った。
今度こそ、彼の人生を代わりに生きることはしない。
教えることはできる。
機会を与えることもできる。
けれど、歩くのは彼自身だ。
それから半年が過ぎた。
ローゼンベルク商会の倉庫では、朝から慌ただしい声が飛び交っていた。
「ユリウス! そっちの木箱は違うぞ!」
「わかっている!」
「わかってないから言ってるんだ! 南方の香辛料は三番の棚だ!」
「……三番だな」
ユリウスは木箱を抱え直した。
以前の彼なら、怒鳴り返していただろう。
だが、今は違う。
間違えれば直す。
わからなければ聞く。
それが仕事だと、ようやく理解し始めていた。
もっとも、まだ失敗は多かった。
「おい、ユリウス!」
倉庫長が声を上げた。
「今度は何だ!」
「伝票の数字が違う!」
「……またか」
ユリウスは頭を抱えた。
周囲の職人たちが笑った。
「元王太子様も大変だな!」
「うるさい!」
ユリウスは顔を赤くした。
だが、以前のように本気で怒ることはなかった。
自分が失敗しているのだから、仕方がない。
それが、彼の新しい常識になりつつあった。
一方、ローゼンベルク公爵邸では、セシリアが忙しく働いていた。
「セシリア。お嬢様のお部屋に、お茶をお願い」
「はい、マルタさん!」
彼女は銀の盆を持ち、階段を上った。
黒い侍女服に白いエプロン。
蜂蜜色の髪は、きちんとまとめられている。
以前の華やかなドレス姿とは違うが、その表情は明るかった。
エレノアの執務室の前で立ち止まり、扉を叩く。
「失礼いたします、エレノア様」
「どうぞ」
セシリアが入ると、エレノアは机に向かって書類を読んでいた。
「お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう」
セシリアは慣れた手つきで茶器を並べた。
エレノアは紅茶を一口飲んだ。
「……今日も美味しいわね」
セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます!」
エレノアは書類を閉じた。
「そういえば、ユリウス様はお元気?」
セシリアは少し笑った。
「はい。昨日も倉庫で失敗したそうです」
「まあ」
「木箱を間違えて運んでしまって、倉庫長さんに叱られたとか」
エレノアは口元を押さえた。
「それは大変ね」
「でも、最近は少しずつ仕事を覚えているそうです」
「そう」
エレノアは静かに頷いた。
「それなら、よかったわ」
セシリアは少し迷ったあと、口を開いた。
「……エレノア様」
「何かしら」
「わたくし、今でも不思議に思うことがあるんです」
「何を?」
「どうして、わたくしたちを雇ってくださったのですか?」
エレノアは少し考えた。
「……そうね」
彼女は窓の外を見た。
庭園には、白い薔薇が咲いている。
「最初は、少し意地悪な気持ちもあったのかもしれないわ」
セシリアは目を見開いた。
「えっ?」
エレノアは笑った。
「だって、以前は王太子殿下とその婚約者だったお二人が、私のところで働きたいとおっしゃるのよ?」
「……それは、そうですね」
セシリアは恥ずかしそうに俯いた。
「でもね」
エレノアは続けた。
「本当に仕事を覚えたいと思っている人を、昔のことだけで追い返すのも、少し違う気がしたの」
「……」
「それに、二人とも正式な採用試験を受けたでしょう? あなたは合格したし、ユリウス様は倉庫の見習いとして採用された。それだけのことよ」
セシリアは静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うなら、仕事で返してちょうだい」
「はい!」
セシリアは明るく答えた。
エレノアは微笑んだ。
そして、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、ユリウス様とは今も仲良くしているの?」
セシリアは頬を赤らめた。
「……はい」
「まあ」
「お休みの日には、一緒に市場へ行ったり、安い食堂で食事をしたりしています」
エレノアは少し驚いた。
「楽しそうね」
「はい。以前のような豪華な暮らしではありませんけれど……」
セシリアは小さく笑った。
「今のほうが、たくさんお話しできるんです」
エレノアは静かに頷いた。
「それは、素敵なことね」
その日の夕方。
ユリウスは仕事を終え、商会の倉庫から出てきた。
額には汗が浮かび、袖には埃がついている。
以前の彼なら、こんな姿を誰にも見せたくなかっただろう。
だが、今は違う。
「ユリウス様!」
門の前で、セシリアが待っていた。
彼女も仕事を終えたところだった。
「セシリア!」
ユリウスの顔が明るくなった。
「今日はどうだった?」
「お茶を褒めていただきました!」
「そうか。よかったな」
「ユリウス様は?」
ユリウスは少し顔をしかめた。
「……また木箱を間違えた」
セシリアは思わず笑った。
「まあ!」
「笑うな!」
「ごめんなさい。でも……」
彼女は楽しそうに言った。
「明日は、間違えないようにすればいいんです」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……そうだな」
二人は並んで歩き始めた。
以前のような豪華な馬車はない。
宝石も、華やかな衣装もない。
けれど、二人は今日の出来事を話しながら、ゆっくりと家路についた。
同じ頃、エレノアは商会の二階にある執務室で、夕暮れの街を眺めていた。
窓の外には、帰宅する人々の姿が見える。
商人。
職人。
使用人。
そして、かつて王太子だった青年と、その婚約者だった少女。
エレノアは小さく笑った。
「……本当に、不思議なものね」
隣にいたマルタが尋ねた。
「何がでございますか?」
「人生よ」
エレノアは窓を閉めた。
「八年前、私は王太子妃になることが幸せだと思っていたわ」
「はい」
「でも、今は違う」
彼女は机の上の書類を見た。
新しい商業施設の計画書。
職人組合との契約。
南方の港町への出張予定。
自分が選び、自分で進めている仕事だった。
「私は、今の生活が好きよ」
マルタは微笑んだ。
「それは、何よりでございます」
エレノアは頷いた。
そして、ふと思い出したように言った。
「そうだわ。明日、ユリウス様に新しい仕事をお願いしようかしら」
「新しいお仕事、でございますか?」
「ええ。倉庫の在庫表を、自分で作っていただくの」
マルタは少し驚いた。
「……それは、殿下には難しいのでは?」
「そうかもしれないわね」
エレノアは楽しそうに笑った。
「でも、いつまでも木箱を運ぶだけでは、成長できないでしょう?」
「それは、そうでございますが……」
「もちろん、オスカーに確認してもらうわ。間違いがあれば、何度でも直していただくの」
マルタは小さく笑った。
「ユリウス様も、大変でございますね」
「ええ」
エレノアは紅茶を一口飲んだ。
「それから、セシリアには来週の茶会を手伝ってもらおうかしら」
「承知いたしました」
「お客様へのお茶出しを任せたいの」
「それは、きっと喜びますね」
「そうでしょう?」
エレノアは微笑んだ。
かつて、自分を捨てた王太子。
そして、その王太子が選んだ美しい令嬢。
二人は今、自分の商会と屋敷で働いている。
まるで、よくできた喜劇のようだった。
けれど、エレノアはもう、彼らを見下してはいなかった。
誰もが、自分の選択の結果を生きている。
それだけのことだった。
「……それにしても」
エレノアは窓の外を見た。
夕暮れの空が、薔薇色に染まっている。
「殿下も、ずいぶん変わられたわね」
「はい」
「以前なら、私の下で働くなんて、絶対にお嫌だったでしょうに」
マルタは微笑んだ。
「人は、変わるものでございますね」
「そうね」
エレノアは頷いた。
そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「でも、明日の在庫表は、きっと大変でしょうね」
「……お嬢様」
「何かしら?」
「少し、楽しんでいらっしゃいませんか?」
エレノアは目を丸くした。
それから、優雅に微笑んだ。
「まあ、マルタ」
彼女はカップを置いた。
「わたくし、ただ従業員の成長を願っているだけですわ」
マルタは笑いを堪えた。
「左様でございますか」
「ええ」
エレノアは満足そうに頷いた。
「それに、殿下にはまだまだ学んでいただきたいことが、たくさんございますもの」
その翌日。
ユリウスは倉庫の机に積まれた大量の在庫表を見て、思わず叫んだ。
「エレノアああああっ!」
商会の二階では、エレノアが優雅に紅茶を飲んでいた。
「あら」
彼女は窓の外に耳を傾けた。
「今日もお元気そうで、何よりですわね」
マルタはとうとう笑い出した。
そしてエレノアも、今度は遠慮なく声を上げて笑った。
八年間、誰かに愛されるために笑おうとしていた公爵令嬢は、もういない。
今の彼女は、自分の人生が面白くて笑っている。
窓辺の白薔薇が、春風に揺れた。
その花は、もう誰かから与えられた愛の証ではなかった。
彼女自身が選び、自分の手で育てた花だった。
――完――
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