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66番目の悪魔と悪役令嬢 ~王子からの婚約破棄は契約魔法でブロック~

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/02/10





 王宮の広間は、磨き上げられた白大理石が光を返し、天井の巨大なシャンデリアが冷たく輝いていた。

 集められた貴族たちの視線が、私へと突き刺さる。私は深紅のドレスの裾を整え、静かに立っていた。


 セディリオ第2王子は、金の髪を揺らしながら一歩前に出る。整った顔立ちに怒りを浮かべ、蒼い瞳が私を射抜いた。


「イレーネ・ルクレール公爵令嬢!

 お前は、メリィ・アーデン準男爵令嬢を虐げた。また第2王子の婚約者でありながら不貞し、王家の体面を傷つけた。よって、ここに婚約を破棄する!   

 そしてセディリオ・ヴァルグレイヴはメリィ・アーデンと新たに婚約することを、ここに宣言する!」


 セディリオの宣言が響いた瞬間、空気が震えた。床に魔法陣が浮かび上がり、光が柱のように立ち上がる。私とセディリオを中心に、透明な壁が閉じるように結界が形成された。

 近くにいた者達は、弾き出される。


「なっ……なんだ、これは?」


 セディリオが狼狽するのを見て、私は小さく息を吐く。


「契約魔法が発動したのです」


「何? 何かの手違いだ! 俺は違反していない」


 セディリオの声は震えていた。私はゆっくりと視線を上げ、彼を見つめる。


「まず体面を傷付けたのは殿下であって、私ではありません」


「そんなわけあるかっ。お前は俺の婚約者であるにも関わらず、メリィや使用人を虐げ、護衛騎士と不貞し評判を下げた」


 ……やってられない。


 私は肩をすくめ、胸元に手を添える。深紅のドレスの布を指で押し分け、肌に触れていた銀のペンダントを引き出した。魔力が宿る青い宝石が、結界の光を受けて淡く輝く。


 それを空間へ翳すと、空気が裂けるように穴が開いた。収納魔法だ。そこから木製の椅子と丸テーブル、分厚い本、香り高い茶器を次々取り出す。


 私は椅子に腰掛け、茶を注ぎ、静かに本を開いた。


 セディリオが絶句している気配がする。


 ページをめくる音だけが、結界の中に静かに響いた。


「こんな時に何してるんだ?!」


 セディリオが声を荒げる。結界の光が彼の蒼い瞳を揺らし、焦りが露わになっていた。


「時間がかかりそうなので、お茶を」


 私は落ち着いて茶器を置き、香りを楽しむ。セディリオの怒気が結界の中で跳ね返るように響いた。


「ふざけるな! 俺は間違ってない! これは何かの誤解だ!」


 ……本当に騒がしい。


 私は本から目を離さず、静かに息を吐く。


「おい、無視するな!」


「私と話しても埒があきませんので、アーデン準男爵令嬢とお話ください」


 透明な壁の外へ視線を向ける。そこには、淡い桃色のドレスを着たメリィ・アーデン準男爵令嬢がいた。栗色の髪を震わせ、青ざめた顔でワナワナと肩を揺らしている。


 セディリオも彼女を見た。


「まさか……俺に嘘を?」


「ち、違います! その契約魔法に何かトリックがあるのです!」


 アーデンの声は裏返り、広間に響いた。周囲の貴族たちがざわめく。舞踏会の最中だった。余興にしては長い。


 ざわめきを断ち切るように、アレクシス第1王子(セディリオの兄)が低い声で言った。黒髪を揺らし、鋭い金の瞳がアーデンを射抜く。


「契約魔法は詐欺・強制では結べない」


 私は手元の契約書を取り出し、淡々と読み上げる。魔法陣がそれに呼応するように光を強めた。


「契約魔法:婚約破棄できる正当条件……抜粋を読み上げます」


 広間が静まり返る。


「1つ、相手方に体面を傷つけられた場合。

 2つ、婚約継続にあたって逸脱した金銭的損害が発生した場合。

 3つ、婚約者としての義務の不履行。

 4つ、相手方の行動により信頼関係が破綻した場合。ただし、これに不貞は含まない。

 以上が、正当な婚約破棄理由です」


 アーデンが、息を呑む音が聞こえた。


「つまりセディリオの言う婚約破棄理由が不当であったから、結界魔法が発動して閉じ込められた。これを解消しないと出られない、ということだな」


 兄の言葉に、セディリオの顔がみるみる赤くなる。


「……どの部分が不当だと言うのだ?」


「ですから、それをアーデン準男爵令嬢とお話ください」


 私は本を閉じ、茶を一口飲む。アーデンは後ずさりしながら叫んだ。


「私は何も……嵌められたのよ! そうよ! ルクレール公爵令嬢が、自ら不貞の噂を流したのよ! だから、私はそれをセディに伝えただけ!」


「その言い訳は、さすがに無理があるな。姉上が自分の評判を落とす噂を流す理由が、どこにある?」


 冷ややかな声が響いた。

 銀髪の弟──ルシアン・ルクレールが、ゆっくりと前に出る。整った顔立ちに浮かぶ微笑は優しいのに、瞳だけが鋭く光っていた。


 広間の空気が、さらに張り詰めていく。


「そうでもないわ」


 私の声に、セディリオがはっとこちらを向く。


「カイムと私が恋仲なのは事実よ。契約書に“不貞は含まない”と書いてあるでしょう?」


 結界の外で私の護衛騎士──カイム・セルヴァン子爵令息が頷く。


「……俺の婚約者であるのに、不貞を?」


 セディリオの蒼い瞳が揺れた。怒りとも困惑とも、つかない色が混じる。


「殿下のように、どこでも侍って相手の体裁を傷つけたわけではありません。

 事実、噂が流れるまで気付かなかったのでしょう? 問題ありませんわ」


「何を言ってる! 嫁ぐまで貞節を守る義務があるだろう!」


「純潔は無事でしてよ。お構いなく」


 広間がざわめき、セディリオの顔が赤く染まる。

 その空気を断ち切るように、アレクシス第1王子が低く言った。


「ルシアン、事実を調査しろ。イレーネの不貞の噂が、どこから出たのか。

 また、彼女がメリィや侍女を虐待したという話もだ」


「承知しました、殿下」


 ルシアンは前に出て、アーデン準男爵令嬢を見据える。

 その銀の瞳は、優しげな微笑を浮かべながらも、逃げ場を与えない冷たさを宿していた。


「アーデン準男爵令嬢。事実を述べてください」


「そ、そんな……私を疑うなんて……ひどい……」


「殿下、これは拷問した方が早いのでは?」


 淡々と告げるルシアンに、広間が凍りつく。

 アーデンが青ざめ、セディリオが息を呑んだ。


 その瞬間、カイムが静かに剣へ手をかけた。

 赤い瞳が一瞬だけ光り、アーデンが悲鳴を上げる。


「ま、待って……っ!」


「それは……別室で“尋問”を」


 セディリオが言い淀みながらも命じると、ルシアンが軽く頷いた。


「この女を拘束して、騎士団の尋問室へ」


 衛兵たちが一斉に動き、アーデン準男爵令嬢の両腕を掴む。

 彼女は必死に暴れ、喚き散らした。


「いやっ、離して! 私は悪くないの! イレーネが──イレーネが悪いのよ!」


 その叫びは、誰にも届かない。

 結界の光が静かに揺れ、広間の空気はさらに冷たく張り詰めていった。






 1時間が経過した。

 広間のざわめきは消え、結界の中には静寂だけが残っている。


 私は読んでいた本を閉じ、魔法空間へ手を伸ばした。

 空気が揺らぎ、そこから大きな木製の桶を引き出す。

 続けて湯を満たし、周囲に衝立を並べていく。


「な、な……何をしている」


 セディリオが声を裏返らせた。

 蒼い瞳が、桶と衝立を交互に見ている。


「寝る支度をするのです」


「こ、ここで……こんなところで寝るって?」


「アーデン準男爵令嬢が、簡単に口を割るようには見えませんもの。

 ルシアン、私は大丈夫だから帰ってお父様に報告して。

 カイムも休んでちょうだい」


 弟のルシアンは軽く頭を下げ、護衛カイムは静かに視線を落とした。

 広間からは次々と人が退出し、結界の外には衛兵だけが残る。


 結界内に残されたのは──私とセディリオだけ。


 セディリオは落ち着かない様子で、衝立の向こうをちらちらと見ていた。


「……ドレスは、脱げるのか」


「はい。こうなると分かっていたので、留め金がサイドにあるものを作りました」


「なっ……!」


 セディリオの顔が真っ赤になる。

 私は衝立の向こうへ入り、静かに着替えた。


 湯浴みを終えて、ネグリジェ姿で出てくる。

 魔法空間から取り出したマットを敷き、掛布を広げる。


「では、おやすみなさいませ。殿下」


 私は掛布の中に入り、背を向けた。


 セディリオはしばらく呆然としていたが、やがて自分の空間魔法を開き、野宿用の布を取り出した。

 結界内の床に敷き、ため息をつきながら横になる。


 広間の冷たい空気の中、2人の距離は妙に遠く、そして近かった。






 結界の中に差し込む光が白く揺れ、私は魔法空間から取り出したテーブルに朝食を並べていた。

 温かいスープ、焼きたてのパン、果物──すべて自分で用意したものだ。


 私は席に座り、静かに食べ始める。


「……俺を差し置いて、1人で食べると?」


 寝起きのセディリオが、不機嫌そうに眉を寄せていた。


「『毒を盛られた』と騒がれては困りますので。自分のことは自分で」


 セディリオは言葉に詰まり、自分の空間魔法を開く。

 出てきたのは、干し肉と水と酒だけだった。


 広間に、私の食器の音と、セディリオが干し肉を噛む乾いた音が混じる。


 朝食を終えた私は、再び本を開いた。


「……おい」


「はい?」


 顔も上げずに返すと、セディリオは妙に真剣な顔をしていた。


「後ろを向いて、耳を塞いでいろ」


「何故です?」


「さっさとしろ」


 理由は分からないが、私は言われた通り後ろを向き、耳を塞ぐ。

 すると──


 ……この臭いは、アンモニア……。


 私はため息をつき、魔法空間から雑巾と花瓶、そして麻袋を取り出した。

 セディリオの前に置く。


「次から、この花瓶にしてください。

 今回のものは袋に入れて、ご自分の空間へ」


「な、何だと? 俺に後処理をしろというのか?」


「1日中、臭って平気なのですか?」


 セディリオは言葉を失い、渋々袋を手に取った。

 処理を終えると、今度は黙って筋トレを始める。


 フッフッフと息を吐く音が不快で、耳栓をして読書に戻った。





 昼食の時間。私は魔法空間から取り出した料理をテーブルに並べ、静かに食べ始めた。


 セディリオは干し肉をかじりながら、こちらを睨む。


「運動もせず食べてばかりいると太るぞ」


「太りにくい体質ですので、お構いなく」


 淡々と返すと、セディリオは言葉を失い、干し肉を噛む音だけが虚しく響いた。


 食後、私は本を開き、読書に戻る。





 夕方。結界の外から衛兵が報告に来る。


「まだメリィは口を割らないのか」


 セディリオが苛立って問い詰めた。

 衛兵は冷や汗をかきながら答える。


「もう、しばらく掛かるそうです」


「なんて女だ……」


「信じた、あなたも同じでは?」


 私が静かに告げると、セディリオは怒ったように振り返った。


「何だと? 俺は騙されたんだぞ。それなのに、こんな仕打ち!」


「殿下の中で、アーデン準男爵令嬢の虚偽は確定なのですね」


「っ……」


 セディリオは言葉を失い、視線を逸らした。





 夜。私は寝る準備を整え、衝立の向こうでネグリジェに着替える。

 掛布に入ろうとした瞬間──鼻をひくつかせた。


 ……臭い。


 私は小さくため息をつき、お香を焚いた。

 甘い香りが広がり、ようやく空気が落ち着く。


 さすがに殿下も“大の方”は自分の空間魔法に入れたのね……でも、臭い。


 私は掛布に潜り込んだ。


 セディリオは気まずそうに野宿用の布を敷き、床に横になる。


 結界の中に、夜の静けさが落ちた。






 結界の中に差し込む朝日は白く、しかし空気はどこか重かった。


「まだなのか? 何している?」


 寝起きのセディリオが、結界の外に立つ衛兵へ声を荒げる。


「暴れて手がつけられないそうです」


「……メリィが?」


 セディリオは信じられない、というように眉をひそめた。


 私は黙って朝食を並べ、静かに食べ始める。

 セディリオは干し肉を噛みながら、何度もため息をついていた。




 朝食を終えた頃、セディリオがこちらを見て言った。


「……解せないことがある」


「何でしょう?」


 私は本を開いたまま、視線だけ向ける。


「お前が好いてるのは、兄上じゃなかったのか? 護衛は……憂さ晴らしか?」


 思わず咳き込んだ。


「ごほっ……! 私がアレクシス殿下に恋していたことはありません」


「嘘だ! いつも楽しそうに話してたではないか」


「ああ、それは私が殿下とUMAを探しているからです」


「また、あのツチノコとかいうやつか。

 誰も捕まえたことないんだから、いないんだろう」


「いいえ! ツチノコはいます!

 そうやってすぐ否定なさるから、私はセディリオ殿下と喋りたくないのです」


「なっ……」


 セディリオは目を見開き、しばらく固まった。


「そんなことで俺を嫌っていたのか」


「“そんなこと”ですって?

 殿下は自分の好きなもの──アーデン準男爵令嬢──を否定されて腹を立てたのでしょう。

 なぜ、私の気持ちが分からないのです!」


「腹は立ったが……それより……」


「?」


「……何でもない」


 セディリオは視線を逸らし、干し肉を噛みしめた。

 その横顔は、どこか悔しそうで、どこか寂しげだった。





 夕方。結界の中の空気は、3日目にしてようやく諦めの色を帯び始めていた。


「……おい」


 セディリオが、どこか覚悟を決めたような顔でこちらを見る。


「誤りを認めて『婚約を継続する』と言えば、出られるのか」


「そうですが?」


 私は本から視線を上げる。


「やむを得まい。ここから出るには、婚約を継続するしかない」


「それには私の合意が必要です。

 条件を飲むなら、承諾しましょう」


「……条件だと?」


 私は淡々と、用意していた紙を取り出した。


「こちらです」



◇イレーネの提示した結婚後の条件


・白い結婚(夫婦関係は持たない)

・妻側の愛人は自由(子供ができた場合、子供は実家の養子に)

・セディリオ王子には側室をあてがう。ただし“王子が嫌いな令嬢”と“ヒロイン”のみ。他は不可

・連絡は侍従を通す

・妻の自由を拘束しない

・離婚は妻からのみ、いつでも可能

・離婚した場合、王子は臣籍降下(伯爵以下)




 読み終えた瞬間、セディリオの顔が真っ赤になった。


「な、何だと? バカな! ふざけるな!」


 私は耳栓を装着した。


「おい、聞いているのか!」


 セディリオが、私の耳栓を取ろうと手を伸ばした瞬間──


 ビリッ!


「うわっ……!」


 電撃が走り、セディリオが手を引っ込める。


「この空間の中では暴行できません」


「ぐっ……!」


 セディリオは悔しそうに歯を食いしばり、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

 肩が震え、しばらく動かない。


 私は静かに本へ視線を戻す。





 夕食の時間。私は魔法空間から取り出した料理を並べ、静かに食事をとっていた。

 セディリオはほとんど食欲がないのか、干し肉を手にしたまま落ち着かない様子で立ち尽くしている。


 やがて、結界の外にいる衛兵へ向けて声を張った。


「……もういい。

 メリィの尋問を“拷問”に切り替えろ。

 それから──加担した者は、今すぐ自首しなければ同罪と伝えろ」


 衛兵たちが緊張した面持ちで頷き、走り去る。


 私はスープを口に運びながら、淡々と告げた。


「今さら事実が分かったところで、条件は変わりません」


「変わるさ」


 セディリオは悔しげに唇を噛みしめ、私を睨む。


「王子の婚約を壊すために準男爵令嬢が嘘をついたとなれば、国家転覆罪も合わせて極刑だ。

 これでお前の家門の体裁は回復する」


「いいえ、回復しません」


 私は静かにスプーンを置いた。


「殿下が不貞を隠さなかったことが、我がルクレール公爵家への侮辱なのです。

 また、嘘を鵜呑みにして公の場で断罪もしています」


「……っ」


 セディリオの表情が歪む。


「それに、アーデン準男爵令嬢が処刑されても、ここから私達が出られるわけではありません」


 私は淡々と続けた。


「婚約破棄する正当な理由を述べるか。

 私の条件を飲んで婚約を継続するか。

 もしくは──私に婚約破棄させるか」


 セディリオは言葉を失い、拳を震わせた。

 結界の中に、静寂が落ちる。





 

 結界の中は静かで、広間の冷たい夜の空気がゆっくりと沈んでいく。


 私は掛布の中で横になり、微睡みに落ちかけていた。

 そのとき──


「……いつからだ?」


 セディリオの低い声が闇に落ちた。


「いつからカイム・セルヴァンと、そうなった?」


 私は目を開け、天井を見つめたまま答える。


「アーデン準男爵令嬢が、"自分こそ聖女だ"と言い始めた頃です」


 ちょうど半年ほど前のことだ。

 でも結局、聖女とは認定されなかった。


「……最近ではないか……」


「そうです。

 不貞は殿下が先ですね」


 セディリオは息を呑んだ。

 アーデンとセディリオの関係は、すでに3年近くになる。


「それでは……俺と円満な家庭は望んでなかったのか」


「家庭?」


 私はゆっくりと寝返りを打ち、背を向けた。


「王家に嫁いで、まともな結婚生活ができるはずありません。

 そもそも政略結婚ですよ? ビジネスと同じでしょう」


「……ああ。お前の、そういう冷たいところが嫌いだ」


「でしたら、正当な理由で婚約破棄すれば宜しいかと」


 セディリオは言葉を失い、沈黙が落ちた。


 その沈黙は、これまでのどの時間よりも重く、痛々しかった。


 私は目を閉じる。

 セディリオが何か言いたげに息を吸う気配がしたが──結局、何も言わなかった。


 結界の中に、夜の静けさだけが残った。





 4日目の朝。

 結界の外から足音が近づき、弟のルシアンが静かに頭を下げた。


「アーデン準男爵令嬢が吐きました」


 その一言で、セディリオの肩がわずかに揺れる。


「殿下と結婚するために、人工的に虹を作って聖女認定を得ようとしたものの失敗したため──

 イレーネを悪者にしたそうです。婚約破棄すれば、自分が結婚できると」


 淡々とした声。

 しかし、その内容は広間の空気を一気に冷やした。


「現在、共犯者・関係者に召集をかけています」


 セディリオは唇を震わせ、かすれた声を絞り出した。


「……メリィは、どうした?」


「辛うじて生きてはいます」


 ルシアンの返答は、あまりにも冷静だった。


 セディリオは拳を握りしめ、視線を落とす。

 その横顔には、怒りとも後悔ともつかない影が落ちていた。


 私は静かに朝食のスープを口に運びながら、ただその様子を見つめていた。






 10日目の朝。

 結界の中の空気は、もはや諦めと疲労が混じり合った重さを帯びていた。


 私は朝食の準備を整え、席についた。

 そのとき、視界の端に“布をまとっていない王子”が映る。


「……服を着てください」


 セディリオは不機嫌そうに眉を寄せた。


「予備の着替えも、すべて臭いのだ」


「1日中、筋トレなさるからです」


「……」


 セディリオは言い返せず、黙り込んだ。

 私は気にせずスープを口に運ぶ。


「……干し肉が尽きた」


「それで?」


「俺が死んでもいいのか。処刑されるぞ」


 私はため息をつき、魔法空間からアレを取り出して差し出した。


「……これは?」


「家畜用の藁です」


「おのれっ……!」


 怒って掴みかかろうとした瞬間──


 ビリッ!


「ぐあっ……!」


 電撃が走り、セディリオはその場に膝をついた。


「この空間では暴行できません」


 私は淡々と告げる。


「くそっ……お前は、どのくらい備蓄を用意してきたんだ?」


「1年分です」


「…………」


 セディリオは完全に沈黙した。

 そして、しばらくしてから、絞り出すように言った。


「……白い結婚と離婚以外は、条件を飲む」


「白い結婚も離婚も譲りません」


「俺が折れてやってるのに!  跡継ぎは、どうする?!」


「モーリス侯爵令嬢と、どうぞ」


 セディリオが大嫌いな令嬢の名だ。


「っ、──彼女が不妊だったら?」


「では、ソリティア男爵令嬢とアニマ子爵令嬢を妾に」


 これもまた、セディリオが顔をしかめる相手ばかり。


「……そんなに俺が憎いか」


「それは、こちらのセリフです」


 セディリオは言葉を失い、ゆっくりと視線を落とした。

 そして、干し草の袋を睨みつけたまま、しばらく黙っていた。

 やがて、何かを振り払うように息を吐き、ぽつりと呟く。


「……お、俺はただ……お前が改心すれば、正室に戻してやるつもりだった。

 メリィに王子妃は務まらない」


 私は朝食の準備をしながら、ゆっくりと振り返る。


「何の改心です?」


「だ、だから……それは……」


 言葉に詰まるセディリオを横目に、私は乾パンの入った袋を取り出し、彼に差し出した。


「貸しですよ」


 セディリオは複雑な顔で袋を受け取った。




 朝食後。私は本を開こうとしたところで、セディリオが声を上げた。


「……交渉を」


「今度は何ですか?」


「白い結婚は……お前の心境変化により解除可能。

 離婚は、結婚5年目以降」


「その条件を、私が受け入れるメリットは?」


 セディリオは一瞬だけ言い淀み、しかし覚悟を決めたように言った。


「……俺が間違っていたことを、公表する」


「そんなこと当然なのです」


「普通、隠蔽するだろう! 王族だぞ!」


「なら、陛下が隠蔽なさっても、殿下がきちんと発布すると契約内に含めますか?」


「いいだろう」


 セディリオは、ほっと息をついた。

 しかし、私は淡々と続ける。


「その場合、廃嫡されるかもしれませんよ」


「元々、次男だ」


「生計は、どうやって立てるのです?」


「あのな、公爵令嬢と結婚するのに、王家が俺を無一文にするはずないだろう」


「我が家門から、かなりの賠償請求されますが?」


「……なんとかなる」


 セディリオは、深くうなだれた。

 その姿は、もはや王子というより、ただの疲れ切った青年だった。


 私は首を傾げる。


「殿下のその楽観主義が、今回の事態を招いたのでは?」


「短慮だと言いたいのか」


「筋トレより、お勉強なさった方が宜しいですわ」


「ぐっ……」


 セディリオは悔しげに唇を噛む。


「……確認だが、俺の妻として、公務はするな?」


「しますが」


「なら、いい。新たな契約を結ぶ」


 私は静かに微笑んだ。


「もう2~3日、ここにいましょう」


「な、何だと? ……まさか……俺と一緒にいたいの「今すぐ契約しましょう」」


 私は魔法空間から、青い光を宿した契約の魔法石を取り出した。


 セディリオは息を呑む。

 私は魔法石に手を置き、契約文を述べた。

 前に提示した結婚後の契約内容に、先ほどの王子の譲歩案を加えて。


 光が弾け、空中に契約書が現れる。 

 その文字が淡く輝きながら、2人の体へ吸い込まれていった。


 ──契約成立。


 結界の光が揺れ、静かに消えていく。






 結界が解け、広間に冷たい空気が流れ込んだ。


「おい」


 セディリオが、まるで当然のように声をかけてくる。


「はい?」


「風呂に入るから、少し待ってろ」


「何故です? 家に帰ります」


「さっさと入籍の準備をする」


「……は?」


「だから、すぐに結婚する」


 私は思わず瞬きをした。


「殿下は、まずメリィに会うべきでは?」


「お前はどうして、そう、過去ばかり振り返る」


「はあ?」


 セディリオは苛立ったように手を振った。


「殿下が散らかしたものは、殿下が片付けるべきでは?」


「片付けるのは使用人の仕事だ。

 さっさと針子を呼んで、婚礼の衣装を整えろ」


「婚約は家同士のことですから、結婚式は当主が決めることですわ」


「バカだな、お前は。

 結婚するのは俺たちなのだから、俺たちが決めるべきだ」


「でしたら、入籍だけでいいですわ」


「何を言ってるんだ?

 王子と公爵令嬢が結婚するのに、式を挙げないなどと」


「公に婚約破棄宣言したのを、忘れたのですか」


「尚更、両家にわだかまりがないと見せなければならない」


「はあ……誰か、アレクシス殿下を呼んで」


「すぐに兄上に言いつけるな! 卑怯だぞ!」


「帰ります」


「あ、待て!」


 セディリオが腕を伸ばすが、私は一歩下がった。


「臭いから触らないでください」


「くそっ……覚えてろよ……!」


 セディリオの悔しげな声が、広間に虚しく響いた。






 その夜。

 自宅の書斎で書類を整理していると、メイドが慌てた様子で扉を叩いた。


「お嬢様、殿下がお越しです」


「どちらの?」


「次男です」


 私は深くため息をつき、客間へ向かった。




 客間の扉を開けると、セディリオが腕を組んで立っていた。

 以前よりは確かに清潔そうだが、態度は相変わらずだった。


「警戒するな。もう臭くない。嗅いでみろ」


「遠慮しますわ。それで、何の御用かしら?」


「父上に怒られたから、ここに婿入りする」


「……跡取りの弟がいますので」


「余ってる爵位をやればいいだろう」


「父が決めることです。

 メリィには会われたのですか?」


「処刑するように命じた」


「っ……」


 私は思わず息を呑んだ。

 そんなに簡単に──殺すの?


 愛していたのではなかったの?


 セディリオは気にも留めない様子で続けた。


「とりあえず、しばらくここ(公爵邸)に住む」


「それで? 陛下は何と?」


「俺が公に誤りを認めるのは反対だ。

 そうすれば、王位継承権を剥奪せざるを得ないと」


 そんなことは予測していた。


「元々、跡継ぎはアレクシス殿下なのだから良いのでは?」


「兄上が死んだら?」


「王弟殿下にも、お子が2人います」


「だからこそ俺は、できることはした。明日の朝刊を見ろ」


 セディリオはそう言い残し、満足げに立ち上がった。





 翌朝。 新聞を広げた私は、紙面の一面に大きく載ったセディリオの弁明を読み、眉をひそめた。

 そこには「イレーネ・ルクレール公爵令嬢への公開断罪は、メリィ・アーデン準男爵令嬢に騙されたせいであり、婚約破棄は無効になった」とある。


「……これは謝意ではなく、言い訳では?」


 隣で腕を組んでいたセディリオが、当然のように言い返す。


「悪いのはメリィだろう」


「殿下も嘘を鵜呑みにしたではないですか」


「今頃もう、新聞社と接触できなくされてるだろう。

 城から何か発布するのも禁じられた。

 この以上は、訂正しようがない」


 私は新聞を畳み、淡々と告げた。


「今日から筋トレして時間を潰してください」


「『勉強しろ』と言ったではないか」


「手遅れでした」


「ぐっ……!」






 私は執務机に向かい、領地経営の書類に目を通していた。

 結局、入籍のみで結婚式はしないことになった。

 両家の親が式に参列したくないと……当然だし、私は、それで良かった。


 扉が勢いよく開く。


「想像以上に退屈だ」


 セディリオが入ってきた。


「カードゲームしてやってもいいぞ」


 私は顔も上げずに言った。


「カイム、アレクシス殿下を呼んできて」


 近くに立っていた護衛のカイム・セルヴァンが頷く。


「そうやって! すぐに!  くそっ……!」


 セディリオは地団駄を踏んで、悔しげに部屋を出ていった。


 私は静かにペンを走らせる。


 ──王子の相手をするより、領地経営の方がよほど楽だ。


 しかし……。


 執務室の扉が、ほんのわずかに開いている。

 その隙間から、青い瞳がじっとこちらを覗いていた。


「……いつまでそうしてるつもりです?」


 私が書類から目を離さずに言うと、セディリオがビクッと肩を跳ねさせた。


「お、俺が何か言うと、すぐに兄上を呼ぶではないか!」


「カイム、殿下を訓練場に案内して差し上げて」


 カイムが、無言で一礼する。


「これ以上、運動したら寝てしまう!」


「うちの騎士団は王都1と呼ばれています」


「行くぞ、さっさとしろ」


 セディリオは張り切って立ち上がり、カイムに連れられて部屋を出ていった。


 扉が閉まると、執務室には再び静寂が戻る。


 私はペンを走らせながら、心の中で小さくため息をついた。






 夕飯の席。

 私はスープを口に運びながら、向かいの席で胸を張るセディリオを見た。


「俺が1番、強かったぞ」


「それは皆が殿下に遠慮してるだけです」


「う、ほ、本当に強いんだ……!」


 セディリオは悔しそうにしながらも、どこか期待するようにこちらを見る。


「それでしたら、山賊の討伐に行かれては?」


「困ってるのか?」


「そうですね……住民にいくらか被害が」


「まあ行ってやらんでもない。支度しろ」


「今?!」


「当然だ」


「お、お、落ち着いてください。明日になさっては」


「今行けば、その分被害が減るぞ」


「道が暗いのですよ」


 セディリオは一瞬だけ黙り、じっと私を見つめた。


「……それは、俺を心配しているのか」


「ええ、まあ」


「ふん。ならば明日にしよう」


 どこか満足げに腕を組む。


「その代わり、お前も行くぞ」


「何の代わりです? 行っても戦力外ですよ」


「俺が強いのを見るべきだ」


 セディリオは得意げに笑った。

 私はスープを飲みながら、心の中で静かにため息をついた。






 王子と騎士団20名を率いて、山賊の根城へ向かったが──


「……50人?」


 私は思わず目を見開いた。


「帰りましょう。増援が来てから改めて」


「俺1人で倒してやる。見てろ」


「うそ!」


 セディリオは馬を蹴り、単身で突っ込んでいった。


「全隊、展開! 殿下を孤立させないで!」


 私の声に、騎士団長が即座に号令を重ねる。


「全軍、突撃! 殿下の背中を守れ!!」


 戦場が一気に動いた。


 セディリオは無茶苦茶な突撃をしながらも、次々と山賊を薙ぎ倒していく。

 その姿は確かに強かった──だが、無謀すぎた。


 戦いが終わる頃には、山賊は壊滅。

 しかしセディリオは血まみれで、立っているのがやっとだった。


「なんてこと……」


 軍医が駆け寄るが、傷が深すぎて間に合わない。


 魔法空間から、希少な医療石を取り出した。

 これ1つで、鉱山が買えるほどの価値がある石だ。


「……仕方ありません」


 石を砕き、光をセディリオの体へ流し込む。

 傷がみるみる塞がり、血が止まる。


「見たか。勝ったぞ」


 セディリオは満足げに笑った。


「今後、賊討伐は禁止です」


「なぬっ。嫌だ。公爵領の賊はすべて俺が討つ。

 初めて、お前が俺に頼んできたことではないか」


 頼んではいない。

 ただ、住民の被害を言っただけなのに。

 しかし──


「……では、次は被災地の復興の現場を担当していただきます」


 セディリオは一瞬だけ固まり、そして不満げに眉を寄せた。


「復興……? 戦いじゃないのか」


「ええ。殿下の“強さ”が本当に必要なのは、そちらです」


 セディリオは口を開きかけ──

 しかし、何も言わずにそっぽを向いた。


 その横顔は、どこか照れているようにも見えた。






 それからの日々、セディリオは被災地で驚くほど張り切って働いた。


 瓦礫の撤去、資材運搬、仮設住宅の組み立て──

 王子とは思えないほど泥まみれになり、汗だくで動き回る。


 冤罪断罪で地に落ちていた評価も、住民の間では少しずつ回復していった。


「殿下、今日はもうお休みになってください」


「まだだ。あと3軒、屋根を直す」


 従者が心配しても、この調子である。


 私は労いの手紙を送った。

 “無茶はしないように”と添えて。


 すると──


 セディリオは完全に調子に乗った。


 自ら被災地を回り、復興支援を名目にあちこちへ顔を出し、ついには自国内のボランティア先が尽きてしまった。


「……殿下、もうこちらの復興は完了しました」


「ならば他国へ行く」


「は?」


「困っている国があるだろう。俺が行く」


 見学にきた私が止める間もなく、セディリオは本当に他国へ向かった。


 王子が単身で国境を越えて復興支援に行くなど前代未聞だ。が、本人は満面の笑みで瓦礫を運び、橋を直し、井戸を掘り、現地の住民にやたらと感謝されていた。


 ──そして、どこへ行っても必ず言うのだ。


「イレーネが困っているから手伝っている」


 頼んでいない。

 頼んでいないのに。


 私は遠い執務室で、書類の山を前に、静かに頭を抱えた。







 復興支援とボランティアで国外まで飛び回っていたセディリオが突然、帰ってきた。


 玄関の扉が勢いよく開く。


「ただいま、帰ったぞ──って、その腹は?!」


 私はゆっくりと本から顔を上げた。

 お腹は大きく、明らかに妊娠中のそれだ。


「何って、食べすぎです」


「あー、なるほど食べ過ぎ……って、違うだろ!

 妊婦だろ! 純潔だと言ったくせに!

 相手は誰だ?」


 7年ぶりに帰ってきて最初の言葉が、それなのか。


「殿下は、婚約継続の条件を忘れたのですか?」


「ん? 白い結婚は、お前の気持ち次第で解除……」


「都合の良いことしか覚えてないのですね。

 “妻側の恋愛は自由”となっていたでしょう」


 セディリオは固まった。

 口を開けたまま、完全に思考が停止している。


「……じ、自由……?」


「ええ。契約書にも明記しました」


 セディリオは胸を押さえ、ふらりとよろめいた。


「お、俺は……イレーネのために……」


「ありがとうございます。

 おかげで公爵領は、とても助かりました」


 淡々と礼を述べると、セディリオはさらにダメージを受けたように膝に手をついた。


「……相手は……誰なんだ……」


 私は静かに紅茶を口に運んだ。


「勿論、カイムですわ」


 セディリオは、その場に崩れ落ちた。


「くそっ、仕方ない。

 父親として頑張──」


 セディリオが胸を張りかけた、その瞬間。


「殿下、私たちはもう離婚が成立しています。

 早急に城にお帰りください。荷物は送ってあります」


「……は?」

 セディリオの顔から血の気が引いた。

「な、何故だ?!」


「婚約継続の条件です。

 “結婚5年目以降は、妻から離婚できる”と」


 私は淡々と告げた。


「……5年……以降……?」


「ええ。ご自分で『離婚は5年以降にしてくれ』と仰ったのに」


 セディリオは胸を押さえ、床に手をつき、震える声を絞り出した。


「……じゃあ……俺は……何のために……」


「公爵領のために働いてくださったのですよ。

 感謝しています」


 私は静かに頭を下げた。


「……イレーネ……」


 7年ぶりの帰還は、

 彼にとって“勝利の凱旋”ではなく──

 “契約書に負けた日”となった。


「もう1度、結婚してくれ。

 子どもの父親になるから」


 セディリオが必死に言った、その瞬間──


 廊下から小さな足音が駆けてきた。


「おかーさまー!」


「こっちきてー!」


 子どもが2人。

 セディリオの目が、完全に死んだ。


「もう再婚してくるので」


 私が淡々と告げると、セディリオはよろめいた。


「ま、待て……再婚……? 」


 そのとき、カイムが静かに私の肩へ手を置いた。


「可哀想だから、ネタばらししたら?」


 私は軽く息をつき、セディリオを見た。


「ここは『成り上がり★シンデレラ』という物語の世界なのです」


「……どうした、イレーネ? 頭を打ったのか?」


 セディリオが本気で心配した顔をした瞬間──


 カイムが空中に魔方陣を描いた。


 魔方陣が光り、

 その光がセディリオの頭へ吸い込まれていく。


「うっ……!」


 セディリオの視界に、別の世界の記憶が流れ込む。


 ──イレーネの前世。

 日本という国に生きていた。

 その女性が遊んでいるゲームに登場するキャラクターたちが、自分たちにそっくりで──


「……これは……」


 セディリオは震える声で呟いた。


「前世の記憶を思い出した私は、ヒロインより先に“悪魔のブレスレット”を拾い、このカイムと契約したのです」


 本来なら──


 ブレスレットを拾い、カイムと契約したヒロイン・アーデン準男爵令嬢が、悪魔の力を借りて奇跡を起こし、聖女と認定される。


 そして「王子の結婚相手に相応しい」として、イレーネに代わってセディリオと結婚する。


 それが“原作”だった。


 セディリオは青ざめた顔でイレーネを見つめた。


「……じゃあ……俺は……本来は……お前と結婚しない……?」


「ええ。

 殿下は、ヒロインであるアーデン準男爵令嬢と結婚するはずでした」


 セディリオは前世の真相を受け止めきれず、しばらく呆然としていた。

 だが──突然、何かに気づいたように顔を上げた。


「ん? 待てよ」


 蒼い目に、妙な光が宿る。


「結婚しないはずが結婚した、ということは……俺を好きだったんだな」


 彼の輝く笑顔を見たのは、10年ぶりだろうか。


「違います。

 浮気しておいてお咎めなしハッピーエンドというのが気に入らないので、潰して差し上げたのです」


「ぐっ……!」


 セディリオは胸を押さえ、再び崩れ落ちた。


 カイムの姿が、ふっと揺らいだ。

 次の瞬間、騎士の姿は消え、代わりに白い法衣をまとった司祭が立っていた。髪の色も顔の造形も、何もかも変わっている。


「この姿に見覚えはないか」


 低く静かな声。


 セディリオは目を細め──そして叫んだ。


「……あ!

 魔法契約を持ちかけてきた司祭!」


 カイムは無言で頷いた。

 セディリオの顔がみるみる青ざめていく。


「そうだ、コイツだ!

『イレーネを断罪して追い込めば泣きついてくる。

 その後は優位な立場に立てる。

 魔法契約を結んでおけば、証拠を提示しなくても事実だと示せる』──と」


 拳を震わせ、歯を食いしばる。


「くそっ……俺を嵌めたな!」


 カイムは淡々と告げた。


「嵌めたのは、お前だけではない。

 お前の浮気相手にも『聖女になれないなら、イレーネを断罪すればいい』 と囁いた」


「うあああああああああああああ!」


 セディリオは頭を抱え、床に転がった。


 彼は重度の精神的致命傷を負ったのであった。


 カイムは、倒れたセディリオを一瞥し、肩をすくめた。


「この辺でいいか」


 私は、ゆっくりと頷いた。


「絶望してくれて、ありがとう。殿下」


「……?」


 セディリオは理解できずに眉を寄せる。


 イレーネは静かに告げた。


「悪魔と契約して、その力を使う代償は──

 “絶望した魂を提供し続けること”よ。

 最初の生け贄はアーデン準男爵令嬢。

 そして次は……」


 セディリオの瞳が大きく見開かれた。

 カイムが軽く手を振る。


 次の瞬間、胸を押さえ、口から血が溢れ──

 そのまま床に崩れ落ちた。



 医師の診断は「過労死」。

 外傷も毒物反応もない以上、それ以外に説明のしようがなかった。

 遺体は王宮に運ばれ、国葬となった。







 午後の陽光が差し込むテラスで、カイムと静かにお茶を楽しんでいた。


 原作の私は今頃、王子妃になったアーデン準男爵令嬢に魔の森へと追放されて死ぬ。


 追放の理由は“2人の結婚生活の脅威になるから”。

 それも本心だったのだろうけど──

 真の目的は、絶望した私の魂をカイムに捧げるためだった。


「少しも同情できないわね」


 あの2人の魂は、カイムの胃の中で彷徨っているはず。


「セディリオは、君の気を引きたかっただけだろう」


 カイムは紅茶を口にしながら、軽く笑った。

 人間離れした美しい顔に、感情の灯らない瞳。

 よく見れば彼が悪魔だとわかりそうなものだが、気付かなかったアーデンは転生者じゃなかったんだろう。


「好きじゃない人に、そんなことされても迷惑だわ」


 本当は少し……少しだけ心が揺れた。

 私のために働いてるセディリオを見て。

 でも、それは言わない。


「確かに」


 カイムはカップを置き、私を見つめる。


「さあ、次の生けターゲットを用意してくれ。

 腹が減っては戦はできない」


 1度、悪魔と契約したら、死ぬまで魂を捧げ続けなければならない。

 この楔は幸か不幸か……。


 私は微笑んだ。


「そうね。次は──闇組織でも潰しましょうか」


「はは。君といると退屈しなくて済む」


「私もよ」


 風が吹き、2人の声がテラスに溶けていった。

 その風は少し切なかった。





□完結□




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原作、ヒロインの契約先が悪魔とか本当に乙女ゲーム?原作の追放理由「結婚生活を邪魔しそうだから」がマジひどい。そりゃ反撃される。 イレーネは原作と違うルートに入った王子にちょっとだけ絆されかけた時は有…
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