第二章第4話 初めての戦い
冒険者ギルドの掲示板には、大小さまざまな依頼が並んでいた。
その中で、ひときわ目立たない紙に目を留めたのは、セリアだった。
「これがいいと思う。草魔獣の討伐。初心者向けで、危険度も低い」
「草魔獣……って、草のモンスター?」
莉緒が首を傾げると、フウリが尻尾を揺らしながら答えた。
「せや。動きは鈍いし、魔法も使わへん。初陣にはちょうどええやろ」
ギルドの受付嬢も「この依頼なら、初めての方でも安心ですよ」と微笑んだ。
討伐対象は、森の入り口付近に出没する草魔獣数体。報酬は控えめだが、経験を積むには十分だった。
莉緒は掲示板の前で、そっと息を吐いた。
風を纏う短剣、風竜の鱗の装備。
この世界に来てから、少しずつ準備を整えてきた。
それでも、実戦となると緊張は隠せない。
「……これなら、自分でも戦えるかもしれない」
セリアは静かに頷き、フウリは「ま、無理せんようにな」と軽く肩を叩いた。
こうして、三人は初めての討伐任務へと向かう。
朝の光が森の入り口を照らし、風が莉緒の背を押した。
まだ知らない“戦い”の世界が、そこに広がっていた。
森の入り口は、朝の光に照らされていた。
木々の間を抜ける風が、葉を揺らし、どこか穏やかな空気を漂わせている。
「草魔獣はこの辺りに出るはずだよ。地面の魔力の濃い場所を探してみて」
セリアが地面に手をかざし、魔力の流れを探る。
フウリは耳をぴくりと動かしながら、周囲の音に集中していた。
莉緒は短剣の柄を握りしめる。
魔法石が埋め込まれた刃は、彼の魔力に反応して微かに光を放っていた。
「……緊張するな。けど、やるしかない」
しばらく進むと、茂みの奥からもぞもぞと動く気配。
草のような体毛に覆われた、丸っこいモンスターが姿を現した。
草魔獣——見た目は愛嬌があるが、鋭い牙と跳躍力を持つ小型魔物だ。
「来るよ、莉緒!」
セリアの声と同時に、草魔獣が跳ね上がった。
莉緒は反射的に短剣を構え、風魔法を刃に纏わせる。
風が巻き起こり、刃が緑の軌跡を描く。
「はっ!」一閃。
草魔獣の動きが止まり、地面に崩れ落ちた。
魔法と剣の融合——初めての実戦で、莉緒は確かに敵を倒した。
「やった……!」
息を整えながら、莉緒は自分の手を見つめた。
震えていたが、確かに戦えた。
セリアは微笑みながら頷き、フウリは「ええ動きやったで」と尻尾を揺らした。
その後も、小型の魔物が数体現れたが、三人の連携は安定していた。
セリアが魔法で援護し、フウリが敵の背後を封じ、莉緒が前線で斬る。
それぞれの役割が自然に噛み合い、戦いは順調に進んだ。
「この世界でも……やっていけるかもしれない」
森の風が、莉緒の頬を撫でた。
不安はまだある。けれど、確かな一歩を踏み出した実感が、胸に灯っていた。
草魔獣の討伐を終え、森の奥へと進んだ三人は、静かな空気の変化に気づいた。
風が止まり、木々のざわめきが消える。魔力の流れが、どこか歪んでいた。
「……おかしい」
フウリが耳を立て、低く唸った。
「このクエスト範囲には存在せんはずの魔物の気配がある。しかも、でかい」
セリアも眉をひそめ、魔力探知の術式を展開する。
その瞬間、森の奥から異様な羽音が響いた。
ブゥゥゥゥン……という重低音が、空気を震わせる。
「来る!」
茂みを突き破って現れたのは、巨大な虫型モンスターだった。
黒光りする甲殻に覆われた体躯は、軽く人間の三倍はある。
鋭い爪が地面をえぐり、複眼がギラギラと光を反射している。
「インセクターキング……!?」
セリアの声が震えた。
Aランク以上の強敵。通常は上級冒険者が数人がかりで挑む魔物。
この森に現れるはずのない存在だった。
「なんでこんなやつが……!」
莉緒は思わず後ずさる。
その姿は、まるで“くそでかい強化ゴキブリ”だった。
羽を広げ、甲殻が軋む音を立てるたびに、吐き気を催すほどの威圧感が迫ってくる。
「逃げ道はない。ここで倒すしかない」
セリアが剣を構え、フウリは低く身を伏せて臨戦態勢に入る。
莉緒も短剣を抜いたが、手が震えていた。
「怖い……けど、やるしかない」
風魔法が刃に宿る。
だが、敵の魔力は圧倒的だった。
一歩踏み出すだけで、空気が重くなる。
インセクターキングが咆哮のような羽音を響かせ、突進してきた。
地面が揺れ、木々がなぎ倒される。
「来るぞ、構えろ!」
セリアの声が、莉緒の心を引き戻した。
恐怖の中で、彼は覚悟を決めた。
この世界で生きるために——戦うしかない。
インセクターキングが羽を広げ、甲殻を軋ませながら突進してきた。
その巨体が地面を揺らし、木々をなぎ倒すたびに、空気が震える。
「左右から挟むよ、莉緒!」
セリアが叫び、右側から回り込む。
莉緒は風魔法を短剣に纏わせ、左から斬りかかる。
だが——
「くっ!」
セリアの剣撃と莉緒の魔法が、わずかにタイミングを外した。
莉緒の風がセリアの視界を遮り、セリアの剣が莉緒の魔力の流れを乱す。
互いの動きが噛み合わず、攻撃は空を切った。
「ごめん、今の……!」
「大丈夫、次は合わせる!」
だが、インセクターキングは容赦しなかった。
鋭い爪がセリアの脇腹を掠め、血が舞った。
「セリア!」
莉緒が叫び、魔法で風の壁を展開して敵の追撃を防ぐ。
セリアは後退しながら息を整えるが、傷は深い。
「まだ動ける……けど、無理はできない」
莉緒の魔力も限界に近づいていた。
短剣の魔法石が鈍く光り、風の流れが乱れている。
焦りが募る。
このままでは、全滅もあり得る。
そのとき——
「お前ら、下がっとき!」
フウリが叫び、地面を蹴って跳び上がった。
小柄な体が空を舞い、インセクターキングの頭上に着地する。
爪で甲殻を引っ掻き、尻尾で羽を叩きつける。
「こっちや!こっち見んかい、ゴキブリ野郎!」
挑発に乗ったインセクターキングが、フウリに向かって咆哮のような羽音を響かせる。
その隙に、セリアは体勢を立て直し、莉緒も魔力を再集中させる。
「フウリが注意を引いてくれてる……今なら、動ける!」
だが、形勢は依然として不利だった。
敵の甲殻は硬く、攻撃が通りにくい。
羽音が魔力を乱し、集中を妨げる。
それでも、三人は諦めなかった。
互いの動きが噛み合わない中でも、少しずつ呼吸を合わせようとする。
この戦いを越えなければ、次はない——その思いだけが、彼らを支えていた。
インセクターキングの羽音が、空気を切り裂くように響いていた。
フウリが敵の注意を引きつけている間、セリアは傷を押さえながら莉緒に声をかけた。
「莉緒、聞いて。私が囮になる。君は風を纏わせて、急所を狙って」
「でも、セリアは……!」
「信じて。君ならできる。あの短剣は、風を操る君の力を最大限に引き出せる。今こそ、使いこなす時だよ」
莉緒はセリアの目を見た。
痛みに耐えながらも、そこには揺るぎない信頼が宿っていた。
「……わかった。やってみる」
莉緒は深く息を吸い、魔力を集中させる。
短剣の魔法石が再び輝き、風が刃に巻きつく。
その風は、さっきまでの不安定なものではない。
意志を持ったように、莉緒の動きに寄り添っていた。
セリアが前へと踏み出す。
わざと隙を見せるように動き、インセクターキングの注意を引く。
敵が爪を振り上げた瞬間——
「今だ、莉緒!」
莉緒は風を纏った短剣を構え、地面を蹴った。
風が背を押し、跳躍の勢いを倍加させる。
空中で一回転しながら、敵の頭部へと急降下。
「風刃——斬!」
刃が甲殻を裂き、魔核へと届いた。
インセクターキングが悲鳴のような羽音を響かせ、巨体を震わせる。
その隙に、フウリが尻尾で羽を叩き折り、セリアが最後の一撃を加える。
三人の攻撃が重なり、インセクターキングは地面に崩れ落ちた。
静寂。
羽音が消え、森に風が戻る。
莉緒は地面に着地し、膝をついた。
魔力はほとんど残っていなかったが、胸の奥に灯ったものがあった。
「……倒した、のか?」
セリアが頷き、フウリが「ようやったな!」と尻尾で背中を叩く。
「三人でなきゃ、無理やった。けど、ちゃんと勝てた。お前の風、ええ仕事したで」
莉緒は短剣を見つめた。
風を纏う刃。それは、彼自身の覚悟と成長の象徴だった。
インセクターキングが地面に崩れ落ちた瞬間、森の空気が一変した。
羽音が消え、風が戻り、木々がささやくように揺れ始める。
戦いの余韻が、静かに三人を包み込んだ。
莉緒は膝をつき、荒い息を整えながら短剣を見つめた。
刃に纏った風が、ゆっくりと消えていく。
魔力はほとんど残っていなかったが、胸の奥には確かな手応えがあった。
「……倒したんだな」
「せやな。あんな化け物、ようやったわ」
フウリが尻尾で莉緒の背中をぽんと叩く。
その軽さが、戦いの緊張を少しだけ和らげた。
セリアは木の根元に腰を下ろし、傷口に応急処置の布を巻いていた。
その顔は、どこか不機嫌そうだった。
「……ほんとに、最悪だった」
「え?」
莉緒が顔を上げると、セリアはじっと彼を見つめた。
「私、虫が大の苦手なの。あんな巨大な虫と戦うなんて、もう……本当に地獄だった」
「えっ、そうだったの!?」
「見た目も動きも、羽音も、全部無理。あの複眼がこっち見てるだけで、吐きそうだった」
セリアは静かに怒っていた。
普段は冷静で理知的な彼女が、感情を露わにするのは珍しい。
そのギャップに、莉緒は思わず笑ってしまった。
「ごめん……でも、すごくかっこよかったよ。囮になってくれた時とか、マジで頼りになった」
「それは……ありがとう。でも、次は虫以外でお願いしたい」
「虫以外って、例えば?」
「……できれば、花とか。ふわふわしたやつ」
「それ、戦う相手じゃないよね」
二人のやり取りに、フウリが割って入った。
「まあまあ、虫嫌いでもよう頑張ったやん。けどな、正直言うて——」
彼は胸を張って言った。
「俺がおらな、詰んでたで?」
「はいはい、フウリ様のおかげです」
セリアが呆れたように言うと、フウリは満足げに尻尾を揺らした。
「せやろ?羽を叩き落としたん、誰やと思ってんねん。あれがなかったら、逃げられてたで」
「確かに、あの一撃は助かった。ありがとう、フウリ」
莉緒が素直に礼を言うと、フウリは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「ま、俺は天才やからな。褒められても困るわ」
「困ってない顔してるけどね」
三人は笑い合った。
戦いの緊張が、少しずつ解けていく。
森の風が、優しく彼らの間を通り抜けた。
「でも……本当に、戦えたんだな。俺、この世界でもやっていけるかもしれない」
莉緒は空を見上げた。
木々の隙間から差し込む光が、彼の顔を照らす。
「最初は怖かったけど、セリアとフウリがいてくれたから、踏み出せた。ありがとう」
セリアは微笑み、フウリは「おう、任せとき」と胸を叩いた。
「これからも、三人で戦っていこう。いや、二人と一匹か」
「一匹言うなや!」
フウリが抗議するが、どこか嬉しそうだった。
こうして、二人と一匹の冒険は始まった。
風を纏う刃と、虫嫌いの剣士と、茶化す獣人。
それぞれの個性が交差しながら、物語は少しずつ、確かに進んでいく。
ギルドの扉が軋む音とともに、三人がゆっくりと中へ入った。
その姿を見た瞬間、受付嬢の手が止まり、室内の空気が一変する。
「……え?」
莉緒の髪は泥にまみれ、セリアのローブは裂け、フウリの尻尾は血に染まっていた。
三人とも、まるで地獄から這い出てきたような形相だった。
「ちょっと、あなたたち……!何があったんですか!?」
受付嬢が駆け寄る。
奥から職員たちも顔を覗かせ、ギルド内はざわめき始めた。
「森の任務だったはずよね?あそこは初心者向けのはずじゃ……」
「まさか、魔物の群れにでも?」
「いや、群れどころじゃ……」
莉緒が言いかけて、言葉を飲み込む。
セリアが静かに報告書を差し出した。
「……インセクターキングが出たんです」
その一言で、空気が凍りついた。
「……え?」
受付嬢が目を見開く。
「インセクターキングって……あの、北方の腐敗地帯に出るっていう……?」
「そう。なぜか、あの森に現れた。完全に異常事態だった」
セリアの声は冷静だったが、その奥に震えがあった。
職員たちがざわめき始める。
「そんな……あの魔物はAランク以上の脅威だぞ」
「討伐には上級冒険者が複数必要なはず……」
「それを、三人で……?」
「しかも初任務で……」
受付嬢が震える手で報告書を受け取り、素材の袋を確認する。
中には、硬質な甲殻、魔核、そしてインセクターキング特有の黒い触角が収められていた。
「これ、本物……」
職員が鑑定を終え、顔を上げる。
「討伐報酬と素材の換金額で——1000万サロメです」
「い、いっせんまん……!?」
ギルド内が一気に騒然となる。
冒険者たちがざわめき、三人の周囲に人だかりができた。
「マジかよ……」
「初任務でインセクターキング討伐って、伝説だぞ」
「無事に帰ってきたことが奇跡だ……」
「お前ら、英雄かよ!」
三人は呆然としながらも、少しずつ笑みを浮かべ始めた。
フウリが尻尾を揺らしながら叫ぶ。
「せやろ!俺ら、やったんやで!」
「フウリ様のおかげですって言ってほしいの?」
セリアが呆れたように言うと、莉緒が笑った。
「でも、本当に……生きて帰れてよかった」
その晩、三人は街の高級レストラン「風宴亭」に招かれた。
ギルドが祝賀の席を用意してくれたのだ。
テーブルには、見たこともない料理が並ぶ。
香ばしく焼かれた獣肉のステーキ、魔力で熟成された果実のソース、黄金色のスープに浮かぶ幻魚の切り身。
酒は風の精霊が祝福した「疾風の雫」。
口に含むと、爽やかな香りが広がり、体の芯から温まる。
「うまっ……!」
莉緒は思わず声を漏らした。
セリアも「これは……本当に美味しい」と頬を緩める。
「この肉、虫の記憶を完全に忘れさせてくれる……」
「まだ言うてるんかい!」
フウリが笑いながらグラスを掲げた。
「今日は祝いや!乾杯や!」
三人はグラスを合わせた。
カラン、と澄んだ音が響き、風が窓辺を優しく揺らした。
「初めての戦いで、こんなことになるなんて思わなかった」
「でも、これで分かった。私たち、ちゃんと戦える」
「せやな。次はもっと強いやつでも、いけるかもな」
「……虫以外でお願いします」
三人は笑い合った。
その笑顔には、戦いを越えた者だけが持つ絆が宿っていた。
こうして、二人と一匹の冒険は、確かな一歩を踏み出した。
風は、祝福のように静かに吹いていた。




