第二章第3話 準備
朝の光が石畳を柔らかく照らし、広場にはパン屋の香ばしい匂いと、風に揺れる旗の音が混じっていた。カフェを出た莉緒は、まだ見慣れない街並みに目を細めながら、隣を歩くフウリに問いかける。
「ねえ、これからどうすればいいの?」
フウリは空を見上げ、風の流れを感じるように目を閉じた。そして、ぽつりと答える。
「まずはギルドやな」
「ギルドって……何する場所?」
「能力測定、職業登録、仲間探し、依頼の受注。冒険者のスタート地点や。異世界で生きるなら、まずは自分の力を知ることが先や。でないと、何も始まらん」
莉緒は少し不安げに頷いた。自分に“力”なんてあるのだろうか。けれど、フウリの言葉には不思議な説得力があった。風の精霊として、彼はこの世界の流れを誰よりも知っている。
「……わかった。ギルド、行ってみる」
風がふわりと二人の間を通り抜けた。物語の歯車が、静かに回り始める。
石造りのギルドは、街の中心に堂々と構えていた。重厚な扉をくぐると、冒険者たちの喧騒と、依頼掲示板に群がる人々の熱気が一気に押し寄せてくる。
「ここが……ギルド」
莉緒は思わず息を呑んだ。異世界の“現実”が、目の前に広がっていた。
「受付はあそこや。まずは登録やな」
フウリに促され、莉緒は受付カウンターへ向かう。そこには、事務的な雰囲気を漂わせた女性職員が座っていた。
「えっと……異世界人なんですけど、登録できますか?」
その一言で、周囲の空気が変わった。ざわつく冒険者たち。ちらちらと向けられる視線。中には「マジかよ」「また来たのか」と呟く者もいた。
職員は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を作った。
「はい、できますよ。では、魔力測定から始めましょう」
案内された部屋には、円形の魔力測定器が鎮座していた。水晶のような球体に手をかざすと、淡い光が広がり、数値が浮かび上がる。
「……凡ランク、ですね。魔力量は平均的。属性は……風。風属性の適性があります」
「なんだー、凡ランクかー」
莉緒は肩を落とした。期待していたわけではないが、どこかで“特別”を望んでいた自分がいた。
「やっぱり凡かー」
フウリは笑いながら肩をすくめた。
「けどな、凡でも風は吹く。あんたは“風使い”や。風属性は希少やし、使いこなせば十分戦える。風の精霊である俺と相性最高屋で!」
「風属性は希少ですよ。仲間探しにも有利ですし、依頼の幅も広がります」
職員が補足するように言ったが、莉緒は首を横に振った。
「……まずは一人でやってみたいです。自分の力で、どこまでできるか試したい」
その言葉に、職員は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「わかりました。では、ステータス登録を進めますね」
職員が端末に入力を始める。画面には、基本ステータスと属性が表示されていく。
「スキル欄は……特になし、ですね」
その言葉に、莉緒はさらに落ち込んだ。
“凡”だけならまだしも、“スキルなし”とは。異世界に来た意味すら見失いそうだった。
「……帰ろう」
莉緒はギルドを後にした。フウリも「まあ、しゃあないな」と肩をすくめてついていく。
だが――その数分後。
職員が端末の記録を確認していたとき、画面が突然ちらついた。
「……え?」
スキル欄に、遅れて表示が現れ始めた。
スキル:経験値獲得倍率 ×100/幸運補正 ×100/英知究明/???(表示不能)
「……これは……」
職員の顔が青ざめる。ステータス自体は確かに平均的。筋力も魔力も、特筆すべきものはない。
だが、スキルが異常だった。
「英知究明……まさか、英知の名を冠するスキルが……」
英知究明――それは、この世界の神々の中でも“知”を司る存在に由来する、世界を変えるほどの力を秘めたスキル。
使用者は、一度使ったことのあるスキルはすべて記憶し、いつでも使えるようにするスキル。
さらに、経験値百倍。これは、常人の百倍の速度で成長するスキル。
幸運百倍――世界が彼の味方をし、彼の望む結果を引き寄せるスキル。
そして、最後の「???」。文字化けのように表示されないそのスキルは、解析不能。ギルドの端末では読み取れない未知の力。
「坂下莉緒……何者だ……?」
職員は震える指で、記録を保存した。表向きは凡ランクの風使い。だが、その内側には、世界の理すら揺るがす可能性が眠っていた。
誰も知らない。本人すら知らない。
風は、静かに吹いていた。
武器屋の店主は、棚に並ぶ小太刀や杖を見つめる莉緒に、少し困ったような顔をした。
「風属性なら、軽くて速い武器が合うな。小太刀か、魔法職なら杖も悪くない」
「どっちも使えたらいいな……」
莉緒はそう呟きながら、値札を見て絶句した。
「……高っ」
フウリが横から覗き込んで、あっさり言った。
「せやったー!こいつ、金ないんやったー!」
「フウリは持ってないの?」
「精霊やぞ。金なんか持ってるわけないやん」
「……はぁ。じゃあ、まずはバイトか」
フウリはしっぽを揺らして笑った。
「しゃーないな。顔なじみのカフェ、戻るか。あそこなら、雇ってくれるかもしれん」
二人は再び「風の通り道」へ向かった。店主は驚いた顔で迎えたが、莉緒の申し出にすぐ頷いた。
「うちは人手が足りてないし、助かるよ。時給は1500サロメね。」
この世界ではだいたい1円2サロメくらいか。まぁ、働けないよりはいいか。
「ぜひ、お願いします!」
こうして、莉緒の異世界バイト生活が始まった。
最初は皿洗いからだった。だが、フウリが風魔法の基本を教えると、莉緒は一瞬で理解した。
「風を巻いて、水を払って、乾かす。そんで、棚に吹き飛ばす。……って、言うたらほんまにやるんかい!」
食器は一瞬で乾き、風に乗って棚へと収まる。しかも、割れもせず、完璧な配置で。
「……え、これ、魔法学校で常人が3年はかかるやつやぞ?」
料理の香りを風で街中に広げると、店はたちまち大人気に。
出前サービスでは、風に料理を乗せて一瞬で届けるという離れ業を披露。
「風の通り道」の名が、街中に広まった。
2週間後、店の売り上げは10倍に跳ね上がった。
「君のおかげだよ。これはお礼。100万サロメ、受け取って」
店主は封筒を差し出した。莉緒は驚きながらも、深々と頭を下げた。
さらに、サービスを気に入った貴族たちからもチップが舞い込む。
わずか2週間で、莉緒は500万サロメを手にした。
「……なんやねん、あんた。凡ランクって言うたやろ?莉緒は理解が早いなー。」
フウリは目を丸くしていた。
魔法の習得には、通常3〜5年かかる。だが、莉緒は教えた瞬間に理解し、使いこなしていた。
これは彼自身の持つスキルによるものだが、莉緒自身はそのことを知らない。
ギルド職員が震えながら記録した“異常”は、まだ誰にも知られていなかった。
風は、今日も静かに吹いていた。
それは、才能を運ぶ風。そして、物語を動かす風だった。
バイトを終えた夕暮れ時、莉緒がカフェの裏口から出ようとすると、店長が呼び止めた。
「莉緒くん、ちょっと待って。君を待ってる人がいるよ」
店内の奥、重厚なソファに座っていたのは、上品な衣服に身を包んだ中年の男性だった。
その背筋は伸び、目には鋭さと慈しみが同居している。
「君が、風を操る少年か。素晴らしい働きぶりだった。街の評判も耳にしているよ」
莉緒は少し戸惑いながらも、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが……」
男は微笑み、懐から一枚の名刺のようなものを差し出した。
「私はエルド・ヴァルフォード。王都の貴族であり、冒険者支援組織の理事でもある。冒険者を志望していると聞いた。君に、ぜひ紹介したい人物がいる」
「紹介……ですか?」
「そう。彼女は私の遠縁にあたる者で、剣の腕は一流。だが、今は目的を見失い、旅をしている。君のような前向きな者と出会えば、きっと再び前を向けるはずだ」
翌日、莉緒は指定された場所へ向かった。
そこにいたのは、銀髪を短く束ねた少女だった。腰には細身の剣、瞳は琥珀色に輝いている。
「……あんたが、風の魔法使い?」
「えっと、はい。莉緒です」
少女は少しだけ口元を緩めた。
セリアは莉緒をじっと見つめた。
その瞳には、ただの興味ではない、選定者のような鋭さが宿っていた。
「君が風魔法を使えるって話は聞いた。だけど、私は噂じゃ動かない」
彼女は腰の剣に手を添えながら、静かに言った。
「君がどれほどの魔法の使い手か、見極めさせてもらうよ。話はそれからだ」
森の外れ。夕暮れの光が差し込む静かな空間に、緊張が走る。
セリアは剣を抜いた。その動きは無駄がなく、研ぎ澄まされた刃が空気を裂く音がした。
莉緒は深く息を吸い、両手を広げて風を集める。
彼の周囲に、淡い緑の魔法陣が浮かび上がった。
「行くよ」
セリアの声と同時に、地面を蹴った彼女の身体が疾風のように迫る。
莉緒は瞬時に風壁を展開し、衝撃を受け止める。
だが、セリアの剣は風を裂き、刃先が莉緒の頬をかすめた。
「速い……!」
莉緒は後退しながら、両手を振る。
空気が震え、無数の風の刃がセリアを囲むように放たれた。
セリアはそれを見切り、剣を回転させて一部を弾き、残りを身のこなしでかわす。
「風の刃を、ここまで正確に……!」
木々がざわめき、地面の葉が舞い上がる。
風が戦場を支配し、剣がその中を踊る。
遠くから見ていたフウリは、目を見開いていた。
「……なんやねん、あいつ。風魔法、ここまで上達してるとは……!」
フウリが教えたのは、ほんの基礎だけだった。
だが、莉緒はそれを応用し、戦闘魔法として完成させていた。
セリアは一度距離を取り、剣を収めた。
その瞳には、驚きと、わずかな笑みが浮かんでいた。
「……なるほど。凡ランクって言われてるのが信じられない。君の魔法は、ただの風魔法じゃない」
セリアはそう言いながら、手を差し出しかけた――が、次の瞬間、彼女の瞳が鋭く光った。
「でも、これからどうかな?」
その声と同時に、空気が震えた。
セリアの身体が音速で跳ねる。
剣が空を裂き、風を切り裂く――それは彼女の必殺技、「サウンドバーサーカー」。
剣が放つ衝撃波は、音の壁を越えて莉緒に迫る。
だが、莉緒は反射的に風を巻き上げた。
風の渦が剣の軌道を逸らし、衝撃波を分散させる。
「……っ!」
セリアは着地し、剣を収めた。
そして、驚きと興奮が混ざった笑みを浮かべる。
「これが防がれたのは、初めてだよ。今まで誰にも止められなかったのに」
莉緒は息を整えながら、少しだけ肩をすくめた。
「反射で動いただけです。正直、怖かったですけど……」
「それで防げるって、どんな反射神経してんのさ」
セリアは笑いながら、今度こそ手を差し出した。
その手には、試す者ではなく、認めた者の誠意が宿っていた。
「いいよ。あんたと一緒に世界を回りたい。風と剣、悪くない組み合わせだ」
莉緒はその手をしっかりと握り返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。僕も、誰かと旅するのは初めてです」
風が二人の間を通り抜け、木々を揺らす。
それは、ただの風ではなかった。信頼と冒険の始まりを告げる、出会いの風だった。
街の武器屋「鋼の灯火」は、冒険者たちの間で評判の店だった。
店内には大小さまざまな武器が並び、金属の匂いと魔力の気配が混ざり合っている。
外観は、風雨に晒された木材が軋むような、くたびれた小屋にしか見えなかった。
だが一歩足を踏み入れた瞬間、印象は一変する。
黒を基調とした店内は、まるで高級ギャラリーのような静謐さを湛えていた。
壁には刀、杖、銃のような形状の魔導具まで、様々な武器が整然と並び、それぞれが個別のライトに照らされている。
光は鋼の刃に反射し、魔法石の埋め込まれた柄は淡く輝いていた。
まるで武器そのものが語りかけてくるような、静かな威圧感が空間を満たしている。
床は黒曜石のような艶のある石材で、歩くたびに靴底がわずかに音を立てる。
天井には魔力を帯びたランタンが吊るされ、揺らめく光が武器の影を壁に映し出していた。
「……外から見たら、ただのボロ屋だと思ったけど」
莉緒は思わず呟いた。
「ここは“本物”しか置かないからね。見た目で判断する人には、縁のない場所なんだよ」
セリアが微笑む。
この店の空気は、ただの商売ではない。
武器を扱う者への敬意と、戦いに挑む者への覚悟が、空間そのものに染み込んでいた。
「ここなら、いい武器が見つかるはずだよ」
セリアが先導しながら言った。
彼女は店主と軽く挨拶を交わすと、奥の棚へと莉緒を案内した。
「君の戦い方を見て、思ったんだ。風魔法を使うなら、これが合うと思う」
彼女が指差したのは、黒銀の短剣だった。
柄には風の紋章が刻まれ、刃の根元には淡く光る魔法石が埋め込まれている。
「これは“魔導短剣”。魔法石が内蔵されていて、魔法を直接剣に纏わせることができる。魔法を放つこともできるし、剣撃に魔力を乗せることもできる。風属性との相性も抜群」
莉緒はそっと手に取った。
軽い。けれど、芯がある。
握った瞬間、風が指先に集まるような感覚が走った。
「……これ、すごく馴染む」
「でしょ?魔法使いが接近戦をするなら、こういう武器が一番扱いやすい。遠距離も近距離も対応できるし、風の流れを剣に乗せれば、斬撃の速度も上がる」
店主が頷きながら補足する。
「この短剣は、風魔法の精度を高める加工が施されてる。魔法石は“疾風晶”っていう希少な素材で、魔力の流れを加速させる効果がある。君みたいな風使いには、まさにうってつけだよ」
値段は高かったが、莉緒は迷わなかった。
バイトで得た報酬が、今まさに意味を持つ瞬間だった。
「これをください」
「いい選択だ。きっと、君の風に刃が宿る」
セリアは横で微笑んだ。
「これで、君の魔法はさらに強くなる。次の戦いが楽しみだね」
莉緒は短剣を腰に収めながら、静かに頷いた。
風を纏う刃。それは、彼の新たな力の象徴だった。
「武器は良い感じやけどその服、さすがに目立ちすぎやろ」
フウリが呆れたように言った。
莉緒は自分の姿を見下ろす。
ジーンズにパーカー。元の世界では普通だったが、この世界では完全に浮いていた。
「確かに……街の人にも何度か二度見されたしな」
「戦うなら、動きやすくて魔法にも耐性がある装備にした方がいいよ」
セリアが静かに助言する。
彼女はすでにこの世界の装備に身を包み、軽やかに動いていた。
「装備屋に行こう。君に合うもの、きっと見つかる」
三人は街の南にある装備屋「炎鱗工房」へ向かった。
店内は革と金属の匂いが混ざり、壁には様々な防具が並んでいる。
その中で、ひときわ存在感を放つ装備があった。
「これは……ドラゴンの鱗?」
莉緒が目を奪われたのは、深緑色の軽装鎧だった。
肩当てから胸部にかけて、細かく重ねられた鱗が光を反射している。
「“風鱗装”っていうんだ。風竜の鱗を加工して作られた装備で、軽さと魔法耐性を両立してる。風属性の魔法との相性も抜群だよ」
セリアが説明する。
店主も頷きながら補足した。
「この鱗は、風竜が空を駆ける際に受ける魔力の摩擦に耐える素材だ。だから、魔法の干渉を弾く力がある。しかも、軽い。動きやすさも保証するよ」
莉緒はそっと手を伸ばし、装備に触れた。
冷たいが、どこかしなやかで、風の流れを感じるような質感だった。
「これ……着てみてもいい?」
試着室で装備を身につけると、身体にぴたりと馴染んだ。
動いてみると、重さを感じない。
それどころか、風が背中を押してくれるような感覚があった。
「似合ってるよ。これなら、君の魔法と剣の動きがもっと活きる」
セリアが微笑む。
フウリも腕を組んで頷いた。
「これでようやく、異世界の冒険者って感じやな」
少しずつ、この世界に馴染んでいく自分がいた。
風を纏う短剣、風竜の鱗の装備。
それらは、ただの道具ではない。自分がこの世界で生きる覚悟の証だった。
「ありがとう、二人とも。これで、次の戦いに挑める気がする」
セリアは静かに微笑み、フウリは尻尾を揺らして応えた。
言葉は少なくても、確かな信頼がそこにあった。
こうして、二人と一匹の冒険が始まった。
風が背を押すように、物語は静かに、しかし確かに動き出していた。




