第二章第2話 世界の仕組み
朝の街は、昨日の戦いが嘘のように平和だった。
石畳の広場には、パン屋の香ばしい匂いと、露店の果物が並ぶ色彩が広がっている。人々の笑い声が風に乗って流れ、まるで何事もなかったかのように、世界は穏やかに回っていた。
莉緒は、まだ少し足元に残る疲労を感じながら、広場の一角にあるカフェ「風の通り道」へと足を向けた。
木造の小さな店は、風見鶏が軒先でくるくると回っている。扉を開けると、鈴の音が軽やかに鳴った。
「……おや、フウリさん。また来てくれたんですね」
店員の青年が、カウンター越しに目を丸くした。
フウリは、莉緒の肩に乗っていた風の精霊。人の姿を取って現れたその存在に、初めて見る者は驚くが、この店ではもう慣れたものだった。
「風が通る場所は、意味があるんや。ここは、ええ風が吹いとる」
フウリはそう言って、窓際の席に腰を下ろす。
莉緒も向かいに座り、湯気の立つハーブティーを受け取った。カップを両手で包むと、ようやく心が落ち着いてきた気がした。
「昨日のこと……ちゃんと聞かせて。あの悪魔のことも、あなたのことも」
莉緒の声は静かだったが、芯があった。
フウリは少し目を細めて、窓の外に流れる風を見つめた。
風が、カップの縁をなぞるように揺れた。
「……あれはな、運が良かっただけや」
ハーブティーの湯気越しに、フウリがぽつりと呟いた。
その声には、軽さと重さが同居していた。
「運が……?」
莉緒がカップを置き、フウリの目を見つめる。
昨日の出来事が、頭の中で何度も再生されていた。あの悪魔の微笑み、馬車の揺れ、そして風に包まれて逃げた瞬間。
「せや。あいつはいわゆる“上位悪魔”や。最低でもSランク級。下手したら、もっと上かもしれん」
フウリの言葉に、莉緒の背筋が凍る。
Sランク――それは、この世界で最も危険な存在のひとつ。人間の力では到底太刀打ちできない領域。
「じゃあ……あの馬車に乗ったままだったら……」
莉緒の声が震えた。
その先を言うのが怖かった。あのとき、少しでも判断が遅れていたら。フウリがいなかったら。
「人生終わってたで」
フウリはあっさりと言った。
その言葉の冷たさに、莉緒は思わず息を呑んだ。だが、それは事実だった。優しさで包むより、真実を突きつける方が、今は必要だった。
「……どうして、助けてくれたの?」
莉緒の問いに、フウリは少しだけ目を細めた。
「風が、あんたを選んだんや。せやから、時間を稼いで、風に乗って逃げた。それだけや」
「選んだ……?」
「風はな、意味のある場所にしか吹かへん。あんたの隣に吹いた風は、偶然やない」
莉緒は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
昨日の恐怖が、少しずつ溶けていく。代わりに、感謝と決意が芽生えていた。
「……ありがとう、フウリ」
震える声で、莉緒は言った。
フウリは何も言わず、ただ窓の外に流れる風を見つめていた。
「悪魔ってな、人の“弱い心”に寄ってくるんや」
フウリは、窓の外を見ながらぽつりと呟いた。
その声は、風のように静かで、しかし芯があった。
「弱い心……?」
莉緒が問い返すと、フウリは頷いた。
「不安、孤独、後悔。そういうもんに付け入ってくる。そんでな、親切そうに近づいてくるんや。“助けてあげる”とか、“君の味方だよ”とか言うてな」
「……それって、昨日のあいつみたいに?」
フウリは苦笑した。
「せや。あいつもそうやった。優しそうな顔して、言葉も丁寧で。けどな、あれは全部“支配”の始まりや」
莉緒は、昨日の悪魔の微笑みを思い出す。
確かに、優しげだった。どこか人間らしくて、安心しかけた自分がいた。
「でも……あの悪魔、優しそうだった。怖いって感じじゃなくて……」
「それが罠や」
フウリの声が低くなった。
「優しさに見えるもんほど、危ない。あいつらは、心を乗っ取るんや。気づいたときには、自分の意思がなくなってる。傀儡になって、体は腐って、朽ち果てていく。それを見て、笑うんや。変態やで、ほんま」
「……変態って」
莉緒は思わず吹き出した。
緊張が少しだけ緩んだ瞬間だった。
「笑いごっちゃないで。近寄ったらあかん。あいつらは、死なへんし、強いし、何より“人の形”をしてるから、騙されやすい」
「……人の形、か」
莉緒は、カップの中の揺れる液面を見つめた。
自分も、あの優しさに引き込まれそうになった。もしフウリがいなかったら、今頃――。
「だから、昨日はギリギリやった。風が吹いてなかったら、終わってた」
フウリの言葉に、莉緒は小さく頷いた。
悪魔の本質は、恐怖ではなく“誘惑”なのだと、ようやく理解し始めていた。
「この世界には、いろんなもんがおる。見た目だけじゃ、わからんことばっかりや」
フウリは、カップの底を指でなぞりながら言った。
莉緒は、静かに耳を傾ける。風の精霊が語る世界の仕組みは、どこか詩のようだった。
「まず、モンスター。竜とかスライムとか、いろんな種類がおる。強さは個体差が激しいけど、基本的には“本能”で動いとる。人間に敵対することもあるけど、交渉できるやつもおる」
「交渉……できるんだ」
「せや。言葉を持つ竜もおるし、スライムでも知恵のあるやつはおる。ただ、油断したら食われるけどな」
莉緒は苦笑した。
フウリは続ける。
「次は、精霊。風、火、水、草、光。属性ごとに役割が違うけど、基本は“導く”のが仕事や。力はあるけど、それを振るうために生きとるわけやない」
「あなたも、導くために?」
「せや。風は、意味のある場所にしか吹かへん。だから、あんたの隣に現れた。それが答えや」
莉緒は、少しだけ頬を赤らめた。
フウリの言葉は、どこか照れくさくも、心に響いた。
「で、悪魔。さっきも言うたけど、あいつらは強い。死なへんし、最低でもAランク。長く生きとるやつは、Sランクがゴロゴロおる。しかも、変態や。近寄ったらあかん」
「……変態って、また言ってる」
「事実や。あいつらは、人の心を弄ぶのが趣味やからな。優しさを装って、支配して、腐らせて、朽ち果てるのを眺めて笑う。ほんま、性根が腐っとる」
莉緒は、背筋が寒くなるのを感じた。
昨日の悪魔の微笑みが、今では恐怖にしか見えなかった。
「最後に、人間。あんたらは、弱い。魔力も少ないし、体も脆い。でもな、束になって戦える。数が多いってのは、それだけで力になる」
「……僕たちに、勝ち目はあるの?」
「それは、風次第やな」
フウリは、窓の外に目を向けた。
風が、街の屋根をなでるように吹いていた。
「あとな、この世界には“魔王”とか“神”とか、始まりの五王と呼ばれる連中もおる。特に魔王は力で世界をねじ伏せようとするし、神は導きの象徴や。どっちも、世界の均衡に関わっとる」
「魔王……」
莉緒の目が、少しだけ鋭くなった。その名は、彼の目的の核心だった。
「ま、精霊から見たら、どっちもめんどくさい存在やけどな」
フウリは肩をすくめた。
その仕草が、少しだけ人間らしく見えた。
「そういえばさ、昨日の悪魔……“冒険者か?”って言ってたんだけどあれって、なんなの?」
莉緒がふと疑問を口にすると、フウリは「お、ええとこ突くやん」と笑った。
「冒険者ってのはな、人間の“役職”のひとつや。人間はみんな、生まれたときに一つだけ役職を持ってて、それに沿って生きていくんや」
「役職……職業みたいなもの?」
「せやけど、もっと根っこに近いもんやな。たとえば、狩猟者は肉や魚を獲ってくる。農業者は野菜や果物を育てる。どっちも食べ物を支える大事な仕事や」
莉緒は頷いた。
それぞれが役割を持って生きる世界。それは、どこか整然としていて、でも少し窮屈にも感じた。
「聖職者ってのもおるけどな……あれはちょっと、変わっとる」
フウリが眉をひそめる。
「この世はけがれてる、救いがない、って勝手に絶望して、神様に“どうにかして”って祈る人や。自分でどうにかせえよって思うけどな。変な思想持ってて、あんまり好きやない」
「……それ、聖職者に言ったら怒られそう」
「怒る元気あるなら、世界救えって話や」
莉緒は思わず吹き出した。
フウリの毒舌は、どこか的を射ていて、笑える。
「勇者ってのもおるけど……あれはもっと役に立たへん」
「えっ、勇者って、物語の主人公じゃないの?」
「主人公?違う違う、 “勇気しかない”人間のことや。パワーとか魔力とかなんも取り柄ないから、毎朝『おはよー!』って叫んでるイメージやな。元気だけはあるけど、戦力にはならん」
「勇者と聖職者のイメージが違いすぎる……」
「世の中そんなもんよ」
フウリは肩をすくめた。
その言葉に、莉緒は妙に納得してしまう。
「賢者はスキルに精通していてめっちゃ器用な人やな。英雄は、人の心を落ち着かせて、不安を消す力を持っとる。魔術師は魔法の専門家で、魔法学校を卒業した人がなる仕事やな」
「じゃあ、僕は……魔術師になれないのかな」
「魔力量と素質次第やな。凡ランクでも、工夫次第でなんとかなるかもしれん」
「希望はあるってことか」
「まあな。あと、商人は金を集めて、世の中をうまく練り歩く。遊び人は……勇者以上にめんどくさい。仲間の中で一人だけ違う行動して、士気を下げるタイプや」
「それは……確かに困る」
「で、冒険者。これはな、世界中を歩いて回って、人々を守ったり、魔物を倒して素材を売ったりする。自由やけど、孤独でもある。けど、あんたには向いてるかもしれんな」
「僕が……冒険者?」
「まぁ、他にも剣士とかいろいろ役職はあるけど、風が吹いた先に、何があるか知りたいんやろ?それなら、莉緒はまっすぐ歩くしかないやろ」
莉緒は、カップの中の風の揺れを見つめた。
「どうやったら魔法が使えるようになるの?」
莉緒が問いかけると、フウリは少しだけ眉を上げた。
「せや。魔法はな、生まれ持った素質でほとんど決まる。努力で伸びる部分もあるけど、土台が違えば限界も違う」
「……じゃあ、僕みたいなのは凡ランクってこと?」
「凡でも風は吹く。使い方次第や」
フウリは、窓の外に流れる風を指差した。
その風は、誰にでも平等に吹いているようで、どこか選んでいるようにも見えた。
「魔法にはランクがある。特、S、A、B、C、凡、下。上に行くほど希少で強力や。特ランクなんて、伝説級やな」
「昨日の悪魔は……?」
「おそらくSランク。あれだけの魔力と支配力、並の精霊でも太刀打ちできへん」
莉緒は、昨日の戦いを思い出して背筋を伸ばした。
あのとき、自分はただ逃げることしかできなかった。けれど、それでも生き延びた。
「精霊にはランクはないんや。力はあるけど、それを競うために存在してるわけやない。導くことが本分やからな」
「導く……」
「せや。風は、必要なときに必要な場所へ吹く。誰かを守るために、誰かを動かすために。それが精霊の役目や」
莉緒は、カップの中の揺れる液面を見つめた。
自分の魔法が凡ランクでも、風が導いてくれるなら、進む意味はある。
「でもな、自分の魔力量とかスキルの適性は、ギルドに行って専用の機械で測らんと正確にはわからへん。見た目や感覚だけじゃ、判断できんのや」
「ギルド……」
「せや。街の冒険者ギルドには、魔力測定器ってのがあってな。魔力量、属性適性、スキルの芽、ステータスまで全部数値化してくれる。それ見て、自分がどのランクか、どんな職業に向いてるかがわかる」
「……それって、怖いな。数字で自分を決められるみたいで」
「怖いけど、知ることは力や。知らんまま突っ込んで死ぬより、知って準備して進む方がええやろ」
莉緒は、静かに頷いた。
魔法のランクがすべてではない。でも、自分の立ち位置を知ることは、戦うための第一歩なのかもしれない。
「僕……この世界に来た理由があるんだ」
莉緒が、湯気の立つカップを見つめながら言った。
フウリは耳をぴくりと動かし、静かに聞いている。
「澪という女の子を探してる。彼女がこの世界にいるって、聞いてきたんだ。彼女はこの世界で姫って呼ばれてるいるらしいけど、何か知らない?僕にとって大事な友達なんだ。」
フウリのしっぽがぴくんと跳ねた。
目を丸くして、しばらく黙ったあと——
「なんやて!いま姫って言ったか?」
「うん。言った。フウリ、何か知ってるの?」
「ああ、姫っていうのは魔王が別の世界から連れてきた巫女や。創造神の力を継ぐ存在って言われとる。世界の理に触れるほどの力を持っとるらしい」
莉緒は息を呑んだ。澪が、そんな存在だったなんて——
「魔王が……澪を?」
「そう。けど、今は行方不明や。世界のどこかで目撃されたって噂はあるけど、誰も確かなことは知らん。魔王も探しとるみたいやしな」
「じゃあ、僕が探してる澪は……その“姫”かもしれない」
「可能性はある。けど、もしほんまに澪が創造神の力を継いどるなら、魔王との因縁も深い。あんたが関わるなら、ただの旅では済まへんで」
莉緒は、カップを両手で包み込むように持ち直した。
その熱が、決意を後押しするようだった。
「それでも、僕は澪に会いたい。彼女がどんな存在でも、僕にとっては——大切な人だから」
フウリはしばらく黙っていた。
窓の外に流れる風を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……風があんたを選んだんかもな。意味のある場所にしか吹かへん風が、あんたの隣におる。なら、澪に会う運命も、魔王と向き合う覚悟も——全部、始まっとるんやろな」
「……ありがとう、フウリ。僕、進むよ。風が導くなら、どこまでも」
「しゃーないな。案内くらいはしてやるわ。何も知らない異世界人やしな」
フウリがしっぽを揺らし、窓の外を指すように耳を動かした。
風が、二人の背を押すように吹いていた。




