第二章第1話 異世界への転移
光の渦が収まると、僕は静かな大地に立っていた。
空は深い群青に染まり、雲はゆっくりと流れていた。風が頬を撫でる。けれど、それは現世の風とは違っていた。もっと重く、もっと澄んでいた。
目の前には、広大な草原が広がっていた。
遠くには、黒く尖った山々が連なり、空に向かって牙を剥いている。
地面には見慣れない植物が生い茂り、時折、光を放つ花が風に揺れていた。
「ここが……異世界」
言葉にすると、胸の奥が震えた。
現実とは違う空気。違う重力。違う音。
背中を押すように風が吹いた。
「澪……」
僕は静かに名前を呼んだ。この世界のどこかで彼女は僕を待っている。
「きっと見つけて見せる」
風が道を示すように、草を揺らし、僕の背中を押してくる。
この世界には、魔物がいる。
火を吐く竜も、戦いの絶えない過酷な世界。澪はその中で、たった一人で立ち向かっている。
僕は、彼女を迎えに来た。風の通る場所に、意味がある。
その意味を、僕はこの世界で見つける。そして——澪と共に、魔王を倒す。
それは、孤独の始まりかもしれない。けれど、希望の始まりでもある。
僕は、風の中を歩き出した。
銀色の草原を進む僕の足元で、風がさざ波のように揺れていた。
空は群青、太陽は三つ。風は途切れることなく吹き続け、まるで僕を導いているようだった。
やがて、草むらの奥に奇妙な果樹が見えてきた。
枝にはスライムのようにぷるぷるした果実がぶら下がっていて、淡い光を放っている。
手に取ると、果実はぷるんと震え、風鈴のような音を立てた。
その音に反応するように、茂みがガサガサと揺れた。
僕が身構えると、そこから飛び出してきたのは——
スイカくらいの大きさの、ぽちゃっとした生き物だった。
目はうるっとしていて、口は小さく、足は短い。
背中にはちょこんとしたしっぽが生えていて、全体的に丸い。
まるでぬいぐるみが命を持ったような存在だった。
「……モンスター?」
その生き物は僕をじっと見つめたあと、ふいに口を開いた。
「何見とんねん。俺は見せもんちゃうぞ」
「うわ、しゃべった」
「そりゃしゃべるわいな。俺かて生きてるねんから。てか、へんな格好してるけど、どこから来たん?」
「俺は莉緒。異世界からやってきた」
「へー、異世界人か。初めて見たわ」
「珍しいの?」
「400年くらい生きてるけど、初めて見たわ」
「そんなに生きてるの? この世界は長く生きたモンスターほど強いって聞いてたけど、君そんなに強いの?」
「そうやで!めっちゃ強いで!」
ドヤ顔で胸を張るその姿は、どう見てもぷよぷよの腹を揺らしているだけだった。
「そんなぷよぷよとしたおなかで?」
「うるさいなー、これは最近ちょっと食べ過ぎで、太っただけや。ホンマはめっちゃスリムでかっこええねんで」
僕は思わず笑ってしまった。
この世界で最初に出会ったのが、こんなに喋るモンスターだなんて、誰が予想しただろう。
「名前は?」
「フウリ。風の精霊獣や。風読んだり、風操ったり、風で寝たりする。まあ、だいたい風と一緒におる」
「要は、暇な生き物ってこと?」
僕がそう言うと「誰が暇や!失礼な奴やな!」と言ってフウリはふんっと鼻を鳴らして、しっぽを揺らした。
風が吹いた。フウリの耳がぴょこぴょこと揺れ、草原の奥を指すようにしっぽが跳ねる。
「……あっちに、何かあるの?」
「さあな。風がそっち向いてるだけや。俺は風と一緒におるだけやし」
「じゃあ、俺はそっちに行ってみる」
「勝手にせえ。俺は別に君がどうなろうと知ったことちゃうし」
そう言いながらも、フウリは僕の後ろをちょこちょことついてきた。
「暇やし、ついていってあげてもええで。遊び相手くらいにはなったる」
僕は立ち止まり、風の音に耳を澄ませた。
草原の先に澪の気配はまだ感じられない。けれど、確かにそこにある。
「……いいよ。僕は君と遊んでる暇なんてないんだ。友達を探しに行かなくちゃ」
フウリの耳がぴくりと動いた。
「友達?誰のことや?」
僕はフウリの方を見ずに、前を向いたまま答えた。
「君には関係ない。じゃあね」
そう言って、僕は歩き出した。
風が背中を押すように吹いた。
フウリはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて鼻を鳴らして、草の上に寝転がった。
「……ふん。勝手にせえ。風は、いつでも気まぐれや」
僕の背中に、風がひとつ、ささやくように吹いた。
それが別れの合図なのか、始まりの予兆なのかは、まだわからない。
風に押されるように、僕は草原を歩いていた。
北西へ向かってしばらく歩くと、道のはずれに一人の男が立っていた。
ツーブロックの髪型に、黒いロングコート。腰には細身の剣を携えている。
その姿は、どこか絵画の中から抜け出してきたような雰囲気だった。
「ねぇ、君。どこに向かって歩いてるの?」
男は柔らかい声で話しかけてきた。
「この先には何もないよ。道も途切れてるし、街なんて見えない」
「……そうなんですか?」
男は微笑んだ。
その笑顔は、どこか親しみやすくて、安心感を与えるものだった。
「君、冒険者の人かな?」
「冒険者って何ですか? 僕は異世界から来て、この世界のことをあまり知らなくて……教えていただけると嬉しいです」
男は目を丸くして、すぐに笑顔に戻った。
「そうなんだ!それは大変だね。僕でよければ力になるよー」
「本当ですか!助かります」
「じゃあ、まず近くの街に行って装備をそろえなくちゃね。さあ、僕の馬車に乗って!」
男が指を鳴らすと、さっきまで何もなかった場所に、突然馬車が現れた。
黒くて艶のある車体。車輪は銀色に輝き、風もないのに幌が揺れている。
「さあさあ、いいから。乗って!」
僕は戸惑いながらも、馬車の入り口に手をかけた——そのとき。
「待てや!」
鋭い声が空気を裂いた。
振り返ると、そこにはフウリがいた。
風を纏い、草原を駆けてきたその姿は、さっきの戦場から逃げてきたとは思えないほど凛々しかった。
「お前、その異世界人どうする気なんや」
男は笑顔のまま答えた。
「どうって? 街まで連れて行ってあげるんだよ。君のようなモンスターに襲われても大丈夫なようにね」
フウリのしっぽが跳ねた。
その動きは、怒りと警戒の証。
「……ウィンドボム!」
風が渦を巻き、玉となって男の胸元へと飛ぶ。
男は一歩下がり、軽く避けた。
「何をするんだい。危ないなぁ。怪我でもしたらどうするんだい?」
その身のこなし——ただの人間じゃない。僕の背筋がぞくりと震えた。
フウリが低く唸る。
「その動き、ただの人間ちゃうな。正体を、晒しやがれ!」
男の笑顔が、音もなく崩れた。
「はぁ……なんでばらすんだよ。邪魔しやがって」
その瞬間、男の背中から黒い羽が広がった。
まがまがしい気配が空気を震わせる。
口元には鋭い牙が二本、額にはねじれた角。
目は血のように赤く染まり、風が一瞬、止まった。
「やっぱり、悪魔やったか。嫌なにおいやで……」
フウリは風を纏い、地面を蹴った。
「莉緒!食われたくなかったら走って逃げろ!時間は稼いだる!まっすぐ北西へ走れ!直に街へ出る!」
「でも……!」
「ええから!はよ行け!」
足が震えて立つことができなかった。悪魔はニヤッと笑って僕を掴もうと爪を伸ばした。
「チッ、手のかかる奴やな!うまく着地せぇよ!」「ウィンドボール!」
悪魔の手をはじき僕の周りを風が渦を巻き、体がふわりと浮いた。
フウリの魔法が僕を草原の彼方へと吹き飛ばす。
空中で一瞬、フウリの姿が見えた。
風を纏い、悪魔に向かって突進するその姿は、あのぷよぷよの腹とは別人のようだった。
——風が、僕を守ってくれた。
そして、フウリがその風の中心にいた。
風に乗って空を滑るように飛ばされた僕は、草原の上を弧を描いて落ちていった。
空気が肌を刺すほど冷たく、風の渦が耳元で唸っていた。
フウリの声が、遠くで響いている。
「うまく着地しろよ!」
地面が迫る。僕は必死に体勢を整え、転がるように着地した。
膝を擦り、息が荒くなる。けれど、命は助かった。
振り返ると、遠くの空に黒い羽が舞っていた。
フウリと悪魔の戦いは、まだ続いている。風が、彼らの周囲を渦巻いていた。
「……フウリ」
僕は拳を握った。
あのぷよぷよの腹で、あんな戦い方をするなんて思ってもみなかった。
彼は、僕を守るために戦っている。僕は——逃げるだけだ。「フウリ…ありがとう」
僕は北西へ向かって歩き出した。
フウリが言っていた通り、街があるなら、そこへ行って情報を集めなければならない。
澪のことも、フウリのことも、そしてこの世界のことも。
風が背中を押すように吹いた。
その風は、どこか優しくて、どこか切なかった。
しばらく歩くと、地形が変わり始めた。
草原の緑が薄れ、道らしきものが現れる。
石畳がところどころに敷かれ、遠くに煙が立ち上っているのが見えた。
「街……か?」
僕は歩を速めた。風が、少しだけ強く吹いた。
まるで「よくやった」と言ってくれているようだった。
そのとき、背後で何かが爆ぜるような音がした。
振り返ると、遠くの空に黒い閃光が走っていた。
「フウリ……!」
僕は立ち止まり、拳を握った。
そして僕は、街へ向かって歩き出した。
街の門をくぐったとき、僕の足は限界だった。
石畳の道を歩きながら、建物の灯りや人々の声が遠くに感じられた。
安心感が、体の力を抜いていく。
気づけば、街の端にある小さな広場のベンチに腰を下ろしていた。
風が、静かに吹いていた。
それは、戦いの余韻を洗い流すような優しい風だった。
「……フウリ、大丈夫かな」
そう呟いたまま、僕はそのまま眠ってしまった。
目を覚ましたとき、空はすっかり明るくなっていた。
鳥の鳴き声と、パン屋の香ばしい匂いが漂ってくる。
そして——
「……なんでやねん。どうせ寝るなら、もうちょい柔らかいとこ選べや」
隣には、あのぷよぷよの姿があった。
フウリが、僕の横に立っていた。しっぽが僕の腕に絡まっていて、耳が風に揺れている。
「……フウリ?」
「よかった。いきとったんか!勝手に飛ばしたけど、ちゃんと着地できたんやな」
「うん……ありがとう。助かったよ」
「礼なんかええわ。風が勝手に動いただけやし」
「でも、来てくれたんだね」
フウリはふんっと鼻を鳴らした。
「暇やっただけや。別に心配してたわけちゃうし」
僕は笑った。
風は、いつも気まぐれだ。
でも、必要なときには、ちゃんと吹いてくれる。
「じゃあ、次は一緒に街を歩いてみる?」
「しゃーないな。案内くらいはしてやるわ。異世界人やしな」
フウリが立ち上がり、しっぽを揺らした。風がまた、僕の背中を押すように吹いた。
この世界には、まだ知らないものがたくさんある。
でも、隣に風がいるなら——きっと、進んでいける。
そして僕は、フウリと並んで歩き出した。




