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第一章第5話 澪の行方

澪がいなくなってから、何日が過ぎただろう。

校舎の廊下を歩くたび、風が吹き抜けるような空虚さが胸を撫でていく。彼女の痕跡は、教室にも、森の家にも、どこにも見当たらなかった。

放課後、僕は林先生の研究室を訪ねた。

机の上には、風に関する古い文献が積まれていて、窓の外では木々が静かに揺れていた。

「澪さんを探すなら、保護者の方に話を聞くのがヒントになるかもしれませんよ」

林先生は、眼鏡の奥の瞳で僕を見つめながら、そう言った。

「でも……澪の家は、あの台風で……」

言葉を濁す僕に、先生は静かに首を振った。

「ええ、あの森の家は確かに消えてしまいました。でも、あそこは彼女が昔住んでいた家。今は、保護者の方は青森に住んでいるそうです。澪さんは、この学校に通うために一人で暮らしていたんですよ」

一人で。

その言葉が胸に刺さった。澪は、あの静かな森の中で、誰にも頼らず暮らしていたのだ。風の音だけを友にして。

「東北……行ってみます」

僕は立ち上がり、先生に頭を下げた。

「風は背中を押す追い風にもなるし、進路を邪魔する向かい風にもなる。くれぐれも気をつけてください」

先生の言葉は、まるで旅の始まりを告げる詩のようだった。

その夜、僕は東北新幹線の切符を手に入れた。

澪の過去に触れることが、彼女の行方を知る鍵になる。そう信じて、僕は風の向こうへと歩き出した。

「澪という友達を探しに、青森へ行ってくる」

夕食の食卓でそう告げたとき、家族の箸が止まった。

母は驚いた顔をしながらも、すぐに微笑んだ。

「……そう。あんたにそんなに大切なお友達ができたのね。後悔のないように気をつけて行ってらっしゃいね。」

その声には、僕の決意を尊重する優しさが滲んでいた。妹の渚は、少し照れたように言った。

「お兄ちゃん、かっこいいよ。なんか、探偵みたい」

僕は苦笑しながら、彼女の頭を軽く撫でた。

翌朝、東京駅のホームに立ったとき、風が背中を押してくるような感覚があった。

林先生の言葉が蘇る。

「風は背中を押す追い風にもなるし、進路を邪魔する向かい風にもなる。くれぐれも気を付けてください」

新幹線の窓際の席に座り、発車のベルが鳴る。

車体が滑るように動き出すと、都会の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。

窓の外には、季節の移ろいが広がっていた。

緑の田園、遠くに霞む山々、そして時折見える川の流れ。

風景が変わるたびに、澪との記憶が浮かび上がる。

森の家で一緒に過ごした夏の日。

風に揺れるカーテンの向こうで、澪が静かに本を読んでいた姿。

「風って、見えないけど、ちゃんとそこにいるんだよね」

彼女の声が、車窓の風に重なる。

仙台を過ぎたあたりで、車内販売のワゴンがやってきた。

僕は迷わず「牛タン弁当」を選んだ。包みを開けると、香ばしい匂いが広がる。

厚切りの牛タンに、麦飯と南蛮味噌。

一口食べると、思わず声が漏れそうになるほど美味しかった。

「……澪にも食べさせてあげたかったな」

そう呟いた瞬間、胸が少し痛んだ。新青森駅に近づくにつれ、空の色が変わっていく。

澄んだ青と、遠くに浮かぶ白い雲。風が強くなり、窓に小さな振動が伝わる。

「風が通る場所には、意味がある」

澪が言っていた言葉が、今になって深く響く。

青森の空気は、どこか懐かしく、澪の気配を含んでいるようだった。

駅に降り立った瞬間、風が頬を撫でた。まるで「ようこそ」と言っているかのように。

澪の故郷は、駅からさらに奥へと進んだ場所にある。山と森に囲まれた、静かな集落。

そこに、澪の家族が住んでいるという。僕はリュックを背負い直し、深呼吸をした。

この旅は、澪を探すだけじゃない。彼女の過去と、彼女が見ていた世界に触れる旅でもある。

風が吹く。それは、背中を押す追い風だった。

青森の山間にある集落は、まるで時間が止まっているかのようだった。

舗装されていない細道を抜け、杉林の奥にぽつんと建つ一軒家。木造の古い家屋は、風に軋む音を立てながらも、どこか懐かしい温もりを湛えていた。

「遠いところ、よく来てくれましたね」

出迎えてくれたのは、澪の叔母だった。白髪をきちんと束ね、淡い藍色の割烹着を身にまとったその姿は、静かで芯のある人柄を感じさせた。

囲炉裏のある居間に通され、湯呑みに注がれた緑茶の香りが、旅の疲れを少し和らげてくれる。

「澪のことを、探しているんです」

そう告げると、叔母はしばらく黙っていた。火の揺らぎを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「澪はね……この家系に生まれた“姫”なの。代々、異世界との境界を守る血筋でね。彼女はその中でも、特別な役割を持っていた」

“姫”という言葉に、僕は思わず息を呑んだ。

「異世界……って、本当にあるんですか?アニメやマンガの中だけの話だと思ってました」

叔母は、少しだけ微笑んだ。

「そう思うのが普通でしょうね。でも、現世と異世界の境界は、風の流れのように目には見えなくても、確かに存在しているのよ」

「じゃあ……その世界って、どんな場所なんですか?」

叔母の表情が、少しだけ曇った。

「皆さんが想像するものよりも、ずっと過酷かもしれません。文明はほとんど発展しておらず、安全とは言えない環境です。火を吐く魔物や竜が棲み、日々戦いの絶えない世界です。より強い存在が弱者を支配している。この現世よりも、危険で、厳しい世界です」

僕は言葉を失った。澪がそんな場所にいるなんて、想像するだけで胸が締め付けられる。

「澪は、異世界の均衡を保つ“風の姫”。魔王はその力を奪い、異世界を完全に支配しようとしている。だから、澪を連れていったの」

「じゃあ……澪は今、異世界に?」

僕の問いに、叔母は静かに頷いた。

「異世界へ行く方法は、あります。ただし、一度行けば、澪を見つけ、魔王を倒すまで戻ることはできません。覚悟が必要です」

囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。その音が、僕の胸の奥に火を灯す。

「澪は、僕にとって……大切な人です。彼女を助けたい。どんな世界でも、どんな敵でも」

叔母は、僕の目をじっと見つめた。その瞳の奥に、澪と同じ静かな強さが宿っていた。

「ならば、風の門を開きましょう。澪が選んだあなたなら、きっと辿り着ける」

その言葉に、僕は深く頷いた。澪の過去、澪の使命、そして澪の行方。

すべてが、風の向こうにある。だが、叔母は視線を外さず、さらに言葉を続けた。

「……命を落とすこともあり得るのですよ」

その声は、囲炉裏の火よりも静かで、しかし鋭く胸に刺さった。

「魔王を倒すのは、容易なことではありません。澪が連れていかれたのは、それほどの力を持つ存在に目をつけられたからです。道半ばで倒れ、二度とこの世界へ帰れないかもしれない。そうなっても、誰もあなたを救うことはできません」

僕は黙っていた。火の揺らぎが、澪の瞳のように見えた。

澪が笑ったときのこと。風に髪をなびかせて、森の中で振り返った姿。

「風って、見えないけど、ちゃんとそこにいるんだよね」

そう言った彼女の声が、今も耳に残っている。

「僕は……澪に、救われたんです」

言葉が自然と口をついて出た。

「誰にも言えなかったことを、澪は黙って受け止めてくれた。僕の弱さも、迷いも、全部。彼女がいたから、僕は前を向けた。だから今度は、僕が彼女を救いたい。命を懸けても、後悔しません」

叔母は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと目を閉じた。

「……その想いが、風を動かすのかもしれませんね。莉緒君ありがとう。」

囲炉裏の火が、再びぱちりと音を立てた。それは、旅立ちの合図のようだった。

夜の山は、静かだった。

風が木々の間を抜け、葉を揺らす音だけが、世界の輪郭をなぞっていた。

澪の叔母に案内され、僕は家の裏手にある小道を進んでいた。

足元には苔むした石畳。両脇には、古い灯籠が並んでいる。

その先に、小さな祠があった。

「ここが“風の門”です」

叔母の声は、風に溶けるように静かだった。

祠の奥には、円形の石の台座があり、中心には風車のような紋が刻まれていた。

その紋が、風に反応するように、ゆっくりと回転を始めていた。

ここが澪のメッセージにあった「風の通る場所」。

「澪からのメッセージ?見せて頂けますか?」僕は携帯に送られてきた澪からのメッセージを見せた。風の通る場所には意味がある。「あの子は本当に…君が助けてくれるとしんじているようだ。」そう言って涙を浮かべながら携帯を返してくれた。

「風が通るとき、この門は開かれます。けれど、通る者の覚悟がなければ、風は道を閉ざします」僕は台座の前に立ち、深く息を吸った。澪の声が、胸の奥で響いていた。

「準備は……できていますか?」

叔母が問いかける。僕は頷いた。

「澪を、迎えに行きます。彼女がいるなら、どんな世界でも、僕は行きます」

その瞬間、風が強く吹いた。

祠の周囲の木々がざわめき、空気が震えた。

台座の紋が光を帯び、風の渦が巻き起こる。その中心に、青白い光の裂け目が現れた。

それは、空間が裂けたような感覚だった。

風がその裂け目を包み込み、異世界への通路を形作っていく。

「この門をくぐれば、もう戻れません。澪と合流し、魔王を倒すまで、現世には帰れない」

叔母の言葉に、僕は振り返らなかった。

風が、僕の背中を押していた。

「澪……待ってて。今度は、僕が君を守る」

一歩、踏み出す。

風が渦を巻き、光が僕を包み込む。


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