第一章第4話 焦りと孤独
教室の窓から差し込む朝の光は、以前と何も変わらない。けれど、僕の目に映る景色は、どこか歪んで見えた。澪がいない。それだけで、世界の輪郭がぼやけてしまったようだった。
席はそのまま残されている。澪の机の上には、誰かが置いたままのプリントが一枚、風に揺れていた。担任の林先生は、出席を取るときも澪の名前を呼ばない。まるで最初から存在しなかったかのように、クラスは澪の話題を避けていた。
「ねえ、澪ってさ……」と口にしかけた瞬間、隣の席の女子が眉をひそめて僕を見た。「その子、転校したんじゃなかったっけ?」
その言葉に、僕は何も返せなかった。転校? そんな話、誰が決めたんだ。澪は消えた。僕の目の前で、光になって。
昼休み、校庭を見下ろす階段の踊り場で、僕は一人、澪のLINEを開いた。最後に届いたメッセージは、まだそこに残っている。「風が通る場所に、意味がある」——その言葉だけが、澪の痕跡だった。
教室に戻ると、誰もが普通に笑い、話し、授業を受けていた。澪がいた頃と同じように。でも、僕にはその“普通”が、まるで仮面のように見えた。澪の不在を覆い隠すために、皆が無意識に演じているような気がしてならなかった。
放課後、僕は澪の席にそっと触れた。冷たい木の感触が、現実を突きつけてくる。澪は、もうここにはいない。けれど、僕の中では、澪の声も、笑顔も、あの日の風も、まだ鮮明に残っていた。
この違和感は、ただの寂しさじゃない。澪がいないことで、僕の日常そのものが、根底から揺らいでいる。何かがおかしい。何かが、隠されている。——僕は、澪の消失を“納得できない”という感情に変えていた。
そして、僕は決めた。このまま澪を“転校した”ことにして終わらせるわけにはいかない。僕は、知りたい。澪がどこへ行ったのか。なぜ、消えたのか。
その答えを、誰かに聞かなければならない。
放課後の学校は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓の外では、夕暮れの光が校庭を淡く染めている。
僕は、林先生の背中に向かって、ゆっくりと歩み寄った。
「先生、少しだけ、話せますか」
林先生は、プリントの束を整えていた手を止めて、僕の方を振り返った。その表情には、どこか予感めいたものが浮かんでいた。
「澪さんのことですか?」
僕はうなずいた。先生は、ため息をひとつついて、教卓の脇に腰を下ろした。僕もその前に立ったまま、言葉を探す。
「澪は……どこに行ったんですか。転校って、ほんとうに?」
林先生はしばらく黙っていた。教室の時計の秒針が、やけに大きく響く。
「正直に言うと、私たち教師も、詳しいことは知らされていないんです。保護者の方から“転校したことにしてほしい”とだけ伝えられて。行き先も、理由も、何も。」
「そんなことって……」
「私も納得していません。澪さんは、あの日まで普通に登校していた。何か問題があった様子もなかった。突然、連絡が途絶えて、保護者からの一方的な申し出だけが届いたんです」
先生の声には、教師としての無力さと、個人としての戸惑いが混ざっていた。
「先生、澪は……消えたんです。僕の目の前で。光になって」
林先生は目を見開いたが、すぐにその表情を抑え込むように、静かに言った。
「莉緒くん、君が見たことを、否定するつもりはありません。けれど、学校という場所は、現実の枠の中でしか動けない。だからこそ、私たちは“転校”という形で処理するしかなかったんです」
その言葉に、僕は言いようのない怒りと悲しみを覚えた。澪の存在が、ただの“処理”で片づけられてしまうことに。
「先生は……澪のこと、覚えていますか?」
林先生は、少しだけ微笑んだ。
「もちろんです。彼女の書いた詩、今でも印象に残っています。風の描写が、どこか現実を超えていた。——澪さんは、何かを感じ取っていたのかもしれませんね」
その言葉に、僕の胸の奥で何かが震えた。
「僕は、澪を探します。先生が知らないなら、僕が知るしかない」
林先生は、しばらく僕を見つめていた。そして、静かにうなずいた。
「気をつけて。風は、追い風だけじゃない。時に人を試すから」
その言葉を背に、僕は職員室へ向かった。澪の不在は、ただの空白ではない。——それは、僕が向き合うべき“問い”だった。
職員室の空気は、夕暮れの光に包まれていた。林先生に付き添われて入った僕は、静かにスマートフォンを取り出した。そこには、澪から届いた最後のLINEが残っている。
「風が通る場所に、意味がある」
その言葉を見せながら、僕は口を開いた。
「先生、あの日……台風の日のことです。僕は澪に会いました」
僕の告白に、職員室は静まり返った。教師たちが顔を見合わせ、誰もが“現実”の枠を越えた何かに触れてしまったような表情をしていた。
そのとき、重厚な足音が響いた。振り返ると、校長・大河内が静かに扉を閉めて立っていた。白髪混じりの髪に、深い皺を刻んだ顔。けれど、その眼差しは澄んでいて、風のように静かだった。
「話は聞かせてもらいました」
校長はゆっくりと林先生の机の前に歩み寄り、僕の隣に立った。
「君の話には、風がある。——それは、誰かの記憶を揺らす力だ」
その瞬間、僕の脳裏に、入学式のあの日の言葉が蘇った。
「与えられる学びではなく、自ら課題を見つけ、探求し、解決する者であれ」
僕は、校長に向かって言った。
「僕にとって、それが今なんです。澪の消失は、僕にとっての課題です。誰も答えをくれないなら、自分で探すしかない。だから、行かせてください。澪を探しに」
沈黙が落ちた。職員室の時計の針が、静かに時を刻む音だけが響いていた。
校長は、ゆっくりと窓の方へ視線を移した。外では、夕風が木々を揺らしていた。
「風を読む力がある者には、風が道を示す」
その言葉は、まるで澪の残した言葉と呼応するようだった。
「君は、風の声を聞いた。ならば、君の歩む道は、もう始まっている」
校長は、僕の肩にそっと手を置いた。
「探求とは、孤独であり、同時に最も深い対話でもある。澪さんが残した“意味”を、君が見つけることを願っている」
その言葉に、僕は深くうなずいた。
校長は、何も言わずに職員室を後にした。背中に夕陽が差し込み、彼の姿が一瞬、風に溶けるように見えた。
そして僕は、探求者としての第一歩を、静かに踏み出した。
夕暮れの空が、校舎の屋上を淡く染めていた。僕はフェンスのそばに立ち、吹き抜ける風を全身で受け止めていた。高い場所に立つと、風は言葉のように肌を撫でる。まるで、何かを語りかけてくるようだった。
澪が最後に残した言葉が、胸の奥で静かに響く。
「風が通る場所には、意味がある」
その意味を、僕はまだ知らない。でも、確かに澪はその言葉を信じていた。そして、僕に託した。だからこそ、僕はここに立っている。
目を閉じると、風の音が澪の声に重なった気がした。あの日、台風の中で聞いた声。風の目の中で交わした言葉。澪の瞳に宿っていた、何かを知っている者の静けさ。
風が、僕の髪を揺らす。制服の裾が、空に向かって踊る。孤独だったはずのこの瞬間に、澪の気配が確かにあるような気がした。
「澪……」
声に出してみる。誰もいない屋上に、僕の声だけが残る。
でも、風は答えた。澪のいた場所を、澪の選んだ道を、僕に示すように。
僕は目を開けた。空は広く、風は遠くへと続いている。
澪は消えた。でも、澪が残した“問い”は、僕の中で生きている。
そして僕は、風の通る場所を探す旅に出る。
それは、孤独の始まりかもしれない。けれど、希望の始まりでもある。




