最終章 あの日の学校で
突如として空が唸りを上げた。
テレビの画面には、巨大な竜巻が街を飲み込む映像が映し出されていた。
「異常気象です。観測史上最大級の竜巻が発生。避難指示が出ています。速やかに安全な場所へ——」
アナウンサーの声が震えていた。画面の向こうでは、ビルの窓が砕け、車が宙を舞っていた。
「どうすれば……」
莉緒は呆然と立ち尽くしていた。
異世界から戻ってきたばかりのこの世界が、今まさに崩壊しようとしている。魔王の死に際に放たれた魔法が、現実世界に届いていたのだ。
そのとき、脳内に鋭い声が響いた。
——英知究明、発動。
「学博社学園の方向に、巨大な魔力反応を検知」
莉緒の目が見開かれる。学園……あの場所に、何かがある。
「行くしかない」
そう呟いた瞬間、足は自然に動き出していた。
澪と通った登下校の道。春には桜が舞い、夏には蝉の声が響いた。
その記憶が、足を速める。風が頬を打ち、心臓が高鳴る。
中央の森を抜け、学博社学園の門をくぐる。
校舎は静まり返っていた。だが、風だけが異様に強く吹いていた。
——風の庭。
林先生が言っていた。「あの庭は、なんだか不思議な感じがするんだよね。」
その言葉が、今になって胸に響く。
風の庭へと向かうと、そこだけ空気が違っていた。
風が渦を巻き、中心に向かって吸い込まれている。まるで、何かを呼んでいるように。
「ここだ……」
莉緒は庭の中心に立ち、地面に手を当てた。
すると、土の奥から微かな振動が伝わってくる。
掘り進めると、そこには一本の刀が埋まっていた。
刀に触れた瞬間——
世界が、真っ白になった。
意識が闇に沈んだ瞬間、風の音だけが耳に残った。
それは、澪の笑い声にも似ていた。優しく、切なく、どこか懐かしい。
目を開けると、そこは庭ではなかった。
空も地もない、ただ風だけが流れる空間。
その中心に、一人の青年のような人物が立っていた。白い衣をまとい、瞳は深淵のように澄んでいる。
「目覚めたか、莉緒」
声は風そのものだった。柔らかく、しかし確かに届く。
「あなたは……誰ですか?」
「私はこの異世界を創った者。神と呼ばれる存在だ。だが、君にとっては語り部のようなものかもしれない」
莉緒は立ち上がり、手にした刀を見つめた。
「この刀は……?」
神は静かに頷いた。
「その刀は、世界を断つためのもの。異世界と君の元いた世界は、魔王の死に際に放たれた魔法によって繋がれてしまった。竜巻はその接続の象徴。放っておけば、君の世界は崩壊する」
「じゃあ、この刀で竜巻を断てば……」
「そう。君の世界は救われる。だが、代償として異世界との繋がりは完全に断たれる。フウリ、セリア、そして澪——彼らのいる世界には、もう二度と戻れない」
莉緒の胸が締め付けられる。
あの旅の日々。笑い合った時間。涙を流した夜。
すべてが、もう二度と触れられないものになる。
「なぜ、そんな選択を僕に……」
「君が選ばれたからだ。風の庭は、世界の境界に最も近い場所。林という教師が感じた“何かを守っているような風”——それは、この刀を封じるための結界だった。君がそこに辿り着いた時点で、運命は動き出していた」
莉緒は刀を握りしめた。
冷たい金属の感触が、現実を突きつける。
「選ぶのは君だ。世界を救うか、仲間との絆を守るか。どちらも、君にしかできない」
風が吹いた。
それは、異世界の仲間たちの声にも似ていた。
遠く、優しく、背中を押すように——けれど、莉緒の足は動かなかった。
刀を握る手が震える。
胸の奥に、フウリの笑顔が浮かんだ。
たわいもない話をして焚き火の前で笑っていた夜。
セリアが、静かに紅茶を淹れてくれた朝。
「莉緒!今日の風魔法も輝いていたよ!」
その声が、風に混じって聞こえた気がした。
「……僕には、選べない」
莉緒は呟いた。
「世界を救うことが、彼らとの別れになるなんて……そんなの、あんまりだ」
神は黙って見つめていた。
「僕は……彼らと過ごした時間が、すごく大切だった。フウリの無鉄砲さも、セリアの優しさも、全部……全部、僕の中に残ってる。なのに、それを断ち切るなんて……」
刀を見つめる瞳が揺れる。
澪のことも、もちろん大切だ。だけど、異世界で出会った仲間たちも、かけがえのない存在だった。
その瞬間——莉緒の脳内に、微かな声が響いた。
「……おい、莉緒? やっと反応したんか!」
頭の中に響いた声は、あまりにも懐かしくて、莉緒は思わず涙ぐんだ。
フウリだった。あの元気で、無鉄砲で、でも誰よりも仲間思いの声。
「ずっと思念送り続けてたのに、ぜんぜん反応せいへんから死んだんちゃうかって心配しとってん! ほんま、心臓に悪いわ!」
莉緒は笑った。泣きながら、笑った。
「ごめん……ちょっと、いろいろあってさ」
「そっちはどうなん? こっちは、なんとかダフ二ス倒せたで! めっちゃ強くて、ほんま危なかったわ。セリアが最後、めっちゃええ攻撃してくれてん。あれなかったら、終わってたかもしれん」
「そっか……すごいじゃん。ほんとに、よかった……」
たわいもない会話が、心を温めていく。
でも、莉緒は知っていた。この時間が、もうすぐ終わることを。
「魔王は倒した。でも……魔王が死に際に放った魔法が、僕たちの世界に届いて、今、現実世界が崩壊しかけてる。巨大な竜巻になって、街を飲み込もうとしてるんだ」
しばらく沈黙が続いた。そして、フウリが静かに言った。
「……知っとっるよ。そこにおる神様が、俺たちにも情報共有してきてん。それで、全部分かった。」「莉緒、迷ったらあかんよ。お前がやるべきことは一つだけや」
「でも……でも、それをやったら、もう二度と君たちに会えなくなるんだ。フウリとも、セリアとも……」
「まったく関係ない人の犠牲を出すのは、お前が心を痛めるやろ? それなら、迷うな。お前は、そういう奴や。俺は知ってる」
莉緒は言葉を失った。
そのとき、セリアの声が聞こえた。
「莉緒……私は、あなたに言いたいことがあります」
声が震えていた。泣いているのが、すぐに分かった。
「貴族に紹介されてから、みんなで旅をした時間は、私の人生の中で一番楽しかったです。正直……好きになってしまいました」
莉緒の心臓が跳ねた。
でも、セリアは続けた。
「ただ……あなたの視線の先にいたのは、いつも澪さんでした。私は、それを分かっていました。だから、これ以上は望みません。あなたのことを、一生忘れません。だから……幸せになってください。今まで、ありがとう」
その言葉とともに、セリアの気配が遠ざかっていく。
風が、彼女の涙を運んでいった。
フウリが、再び声を上げた。
「安心せぇ。こっちはお前ひとりくらいいなくても、超元気や! むしろ、やっと静かに風が赴くままにゆっくり生活できるかと思うと、せいせいすらする!」
「……フウリ……」
「なんも、心配なんかいらへんからな! ホンマに今までありがとう! ほな、元気でな!」
その瞬間、思念が途絶えた。
風の音だけが、莉緒の耳に残った。
莉緒は、刀を見つめた。
涙が頬を伝い、地面に落ちる。
「……ありがとう。僕も、忘れない。絶対に」
風が吹いた。
それは、仲間たちの声だった。
背中を押すように、優しく、力強く。
莉緒は、決意を固めた。
この世界を守るために。仲間たちの想いを、無駄にしないために。
思念が途絶えたあと、異世界の空の下。
フウリとセリアは、しばらく言葉を失っていた。
風が静かに吹き抜ける。
その風に、莉緒の気配がもう感じられないことが、二人には分かっていた。
セリアがぽつりと呟いた。
「……あれで、よかったのかな」
声は震えていた。涙が頬を伝い、地面に落ちる。
「魔王を倒して、この世界を救ってくれた英雄。そして、私たちの旅仲間……莉緒との最後の会話だったんだよ」
フウリは拳を握りしめていた。
「……いい、わけないやろ」
その声は、今にも崩れそうだった。
「俺かて、もっと話したいし、あいつと別れたくなんてない。ずっと一緒にいたいよ。大好や……大好きやからこそ、ほんまは別れたくないって言いたかった」
セリアが顔を上げる。フウリの目にも、涙が溢れていた。
「でもな……そんなこと言ったら、莉緒が困ってしまう。あいつは優しいから、迷ってしまう。だから、仲間として、最後は背中を押してあげるべきやったんや」
フウリは空を見上げた。
その空の向こうに、もう届かないはずの莉緒がいる。
「莉緒! 頑張るんやで! ほんまにありがとう!」
叫びは風に乗って、空へと昇っていった。
セリアも、声にならない嗚咽を漏らしながら、フウリの隣で泣いていた。
二人は肩を寄せ合いながら、ただ泣いた。
それは、仲間を失った悲しみではなく——
大切な人が、自分たちのために世界を救う決断をしてくれたことへの、感謝の涙だった。
風が吹いた。
その風は、莉緒の刀の風と、きっと同じだった。
風の庭に、静寂が戻っていた。刀を握る莉緒の手は、まだ震えていた。
仲間との思念が途絶えた今、心に残っているのは——澪のことだった。
「……神様」
その声は、風に溶けるほど小さかった。だが、神は確かに耳を傾けていた。
「一つ……頼みがあります」
神は黙って頷いた。莉緒は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「澪は……向こうの世界で命を落としました。でも、僕の中に、彼女の魂が残っている気がするんです。ずっと、感じてる。彼女の声も、温もりも、僕の中にある」
風が、優しく吹いた。
それは、澪が微笑んだときの風に似ていた。
「だから……この世界と異世界を断ち切ったら、澪の魂は僕の中に閉じ込められる。そうなったら……生き返らせてほしい。彼女は、死んだわけじゃない。まだ、ここにいるんです」
神は、しばらく何も言わなかった。その沈黙が、莉緒の願いの重さを物語っていた。
そして、風が一度だけ強く吹いたあと——
神は静かに頷いた。
「その願い、受け取った」
それだけだった。だが、その言葉には、確かな力が宿っていた。
莉緒は、涙を流した。それは、悲しみではなく——希望の涙だった。
「ありがとう……」
空を見上げると、竜巻がまだ遠くで唸っていた。
だが、もう迷いはなかった。
澪の命を、仲間たちの想いを、そしてこの世界を——
すべて守るために。莉緒は、刀を握り直した。風が、彼の背を押していた。
風の庭に立つ莉緒の背に、風が集まっていた。
刀は静かに輝き始めている。まるで、彼の決意を感じ取ったかのように。
「……行こう」
莉緒は刀を握りしめ、風魔法を発動させた。
足元から風が渦を巻き、彼の身体を空へと押し上げる。
風の庭から跳躍するその姿は、まるで空に向かって祈るようだった。
空は荒れていた。
竜巻が唸りを上げ、街を飲み込もうとしている。
その中心へ向かって、莉緒は一直線に飛んだ。
胸には、澪の祈りがあった。
「生きて……」
あの最後の言葉が、風の中で何度も響く。そして、仲間たちの声も——
「莉緒! 頑張るんやで!」
「幸せになってください!」
「ありがとう……一生忘れません」
そのすべてが、莉緒の背中を押していた。
竜巻の中心に近づくにつれ、風の抵抗が強まる。
だが、莉緒の瞳は揺るがなかった。
「風よ——僕に力を」
その瞬間、刀が眩い光を放った。
風が刀に集まり、形を変え、刃を包み込む。
莉緒は叫んだ。
「この世界を守るために! 仲間の想いを、無駄にしないために!」
そして——
一閃。
空が裂けた。竜巻が悲鳴のような音を立てて、消えていく。
風が静まり、空が晴れていく。
莉緒は、空の中で静かに刀を下ろした。
風が彼を優しく包み込み、地上へと導いていく。
その風は、澪の笑顔のように——優しく、あたたかかった
風が、静かに庭を撫でていた。
竜巻が消えたあと、空は澄み渡り、世界は静けさを取り戻していた。
風の庭の中心で、澪がゆっくりと目を開けた。
頬に触れる風が、どこか懐かしくて、胸が熱くなる。
「……莉緒くん……」
その声は震えていた。澪の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
彼女は確かに生きていた。莉緒の願いが、風に届いたのだ。
遠くから、その姿を見つめる影があった。
莉緒だった。彼は静かに澪の復活を見届けると、何も言わずに背を向けた。
風が彼の髪を揺らす。その風は、澪の笑顔のように優しかった。
——それから、日々が流れた。
学博社学園での毎日が、再び始まった。
教室の窓からは、穏やかな風が差し込む。隣の席には、澪が座っていた。
彼女は以前より少しだけ、柔らかな表情をしていた。
「おはよう、莉緒くん」
「……おはよう、澪」
それだけの言葉に、すべてが詰まっていた。
異世界での記憶は、誰にも話せない。でも、心の奥には、確かに残っている。
フウリの笑い声。セリアの涙。
焚き火の夜、戦いの朝、旅の風景——
もう、彼らの声は届かない。思念も、魔法も、何もかもが断ち切られた。
けれど、風は吹いていた。澪の髪を揺らし、莉緒の頬を撫でる。
その風は、異世界の仲間たちの想いを運んでいるようだった。
「莉緒、頑張るんやで!」
「幸せになってください」
「ありがとう……一生忘れません」
莉緒は、窓の外を見つめながら、そっと微笑んだ。
風が吹いていた。
——完。




