第一章第3話 神隠しの台風
そして、しばらくして暴風雨と共に本当に台風がやってきた。大雨と強烈な風によって山が崩れ、海では波が立っている映像がテレビで中継されていた。澪の家のある森は大丈夫かなーと思っていた時だった。スマホの画面に、たった四文字が浮かんでいた。
「助けて」——澪からのLINEだった。
指先が震えた。その言葉には、説明の余地がなかった。
ただならぬ気配が、画面越しに伝わってくる。澪の声が、胸の奥で静かに響いていた。
窓の外では、風が唸っていた。まだ雨は降っていない。けれど、空気がざわついている。
テレビでは、ニュースが異様な緊迫感を帯びていた。
「異例の春にやってきた、過去に見ぬ巨大勢力を持った台風です。絶対に外に出ないでください!」
アナウンサーの声は、もはや報道ではなく叫びだった。
その剣幕に、スタジオの空気まで張り詰めているようだった。
その瞬間、テレビが突然映らなくなった。
画面がノイズにまみれ、音が途切れた。
外から、何かがぶつかる鈍い音が響いた。
窓を開けると、飛ばされてきた看板がアンテナに直撃していた。
金属の軋む音が、風に混じって消えていく。
僕はスマホを握りしめた。
澪の「助けて」が、頭の中で何度も繰り返される。
迷いはなかった。
僕は玄関へ向かい、靴を履いた。
風が扉を叩いていた。
それでも、僕は澪の元へ向かう決意をした。
玄関を開けた瞬間、世界が牙を剥いた。
風が唸り、空が裂けるような音が響いた。
まだ雨は本格的に降っていないのに、空気が濡れている。
湿った風が肌を叩き、髪を引きちぎるように舞い上がる。
僕は走った。
澪の家がある森へ向かって、ただひたすらに。
足元には、折れた枝や飛び散った瓦が散乱していた。
標識が根元から倒れ、電柱が軋んでいる。
空では雷が走り、雲が唸っていた。
風が、まるで意思を持っているかのように僕を押し戻す。
それでも、澪の「助けて」が頭の中で何度も響いていた。
その言葉が、僕の身体を前へと突き動かしていた。
森の入り口に差し掛かったとき、風が一層激しくなり、木々が悲鳴のような音を立てて揺れた。雨粒が斜めに叩きつけるように降り注ぎ、視界が白く霞む。
葉が舞い上がり、枝が折れ、地面を打つ音が耳をつんざいた。
森に足を踏み入れると、空気が変わった。湿気が肌にまとわりつき、風が身体を押し戻そうとする。まるで、森そのものが侵入者を拒んでいるかのようだった。
木々の間を縫うように走る僕の足元には、濡れた落ち葉と泥が絡みつく。
雷鳴が頭上で炸裂し、空が裂けるような音が響いた。
風が唸り、雨が地面を叩き、森は暴力的な生命を持っているようだった。
それでも、僕は止まらなかった。
澪の家は、階段を上った森の奥にある。
その家の姿が見えた瞬間、僕は叫んだ。
「澪ー!」
風に乗って、僕の声が森の奥へと響いていく。
すると、家の影から澪が姿を現した。
髪が風に舞い、瞳が僕を捉える。
その瞬間、僕たちは互いに走り出した。
吹き荒れる風の中、僕たちは手を伸ばし合い、つないだ。
その瞬間——風が、ぴたりと止まった。雨も、やんだ。
空が、晴れ渡った。青い空が広がっていた。
まるで、嵐の中心にだけ、別の世界が存在しているかのようだった。
澪の家の周囲は、異様な静けさに包まれていた。木々は揺れているのに、音がない。
空は青く、風は止まり、雨は消えた。まるで、時間が止まったようだった。
澪は僕の手を握りながら、静かに言った。
「来てくれてありがとう。本当に怖かった」
「当たり前だよ…、それより、なんで雨が止んだの?晴れてる?」
「ここは……台風の目の中よ」澪が、僕の手を握ったまま静かに言った。
僕たちの周囲には、まるで結界のような境界線があった。
森の外側では、木々が激しく揺れ、雨が横殴りに降っている。
雷が走り、風が唸っているのに、ここだけが異常なほど穏やかだった。
「ここを中心に周りは吹き荒れているの」
澪の瞳は、空ではなく、地面を見ていた。
その視線の先には、澪の家があった。
古びた木造の家。けれど、今はどこか幻想的で、現実のものとは思えなかった。
「なんか変なのよ。この台風は普通じゃない」澪がぽつりと呟いた。
「きっとこれはこの世界のものじゃない。これは——」
言いかけた瞬間、空が震えた。風が、再び唸りを上げた。
青空の中心から、黒い手のような何かがゆっくりと伸びてきた。
それは風でも雨でもない。
形を持たないはずの闇が、輪郭を持って現れたようだった。
手のようなものだった。
指も爪もない。
ただ、黒い霧が集まり、腕のように澪へと向かっていた。
「澪!」
僕は叫び、澪の手を強く握った。
けれど、その手は、まるで霧のようにすり抜けていく。
澪の身体が、黒い“それ”に引き寄せられていく。
「離さない……絶対に……!」
僕は必死に腕を伸ばした。
足元が泥に沈み、風が身体を押し戻す。
それでも、澪の手を掴もうとした。
澪は微笑んでいた。
その笑顔が、風に揺れていた。
瞳が僕を見つめていた。
けれど、その瞳も、次第に光を失っていく。
「莉緒……」
澪が何かを言いかけた。
でも、その声は風にさらわれ、僕の耳には届かなかった。
次の瞬間、澪の身体が青い光に包まれた。
その光は、風とともに舞い上がり、空へと吸い込まれていった。
「澪ー!」
僕の叫びも、風にかき消された。
声が届かない。手も届かない。
澪は、もうそこにはいなかった。風が再び唸りを上げた。雨が地面を叩きつける。
空が裂け、雷が走る。世界が、怒りを爆発させたようだった。
そして——すべてが静まった。風が止み、雨がやみ、空が晴れ渡った。
まるで、何事もなかったかのように。澪の姿は、もうなかった。
僕の手の中には、何も残っていなかった。ただ、澪の声だけが、胸の奥で静かに響いていた。
翌朝、空は嘘のように晴れていた。
昨日の暴風雨がまるで夢だったかのように、街は静かで、空気は澄んでいた。
けれど、僕の中では何も終わっていなかった。
ニュースでは「奇跡的な台風の消失」と報じられていた。
「春の台風としては観測史上最大級の勢力でしたが、未明に急速に勢力を失い、現在は完全に消滅しています」
専門家は「特殊台風」「異例の現象」と語っていたが、誰もその理由を説明できていなかった。
僕はテレビの音を消して、澪の家へ向かった。
昨日、彼女が消えた場所。
森の入り口は、すでに倒木が撤去され、通行止めの看板が立てられていた。
それでも、僕は足を踏み入れた。澪の家があったはずの場所には、何もなかった。
家の形をした空間すら、残っていなかった。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように。僕は地面を見つめた。
泥にまみれた靴跡も、風に消されていた。昨日、確かにここで澪と手をつないだ。
「ピロン!」突然携帯電話の通知が鳴った。相手は澪だった。たった数文字だけのメッセージ
「風が通る場所に、意味がある。」とだけ書かれていた。
風が止み、空が晴れ渡った。今は——ただの静かな森だった。
家に戻ると、母が「台風、すごかったね」と言った。
妹は「テレビ映らなくなって最悪だった」と文句を言っていた。
誰も、澪のことには触れなかった。
学校が再開された。クラスメイトたちは、台風の話で盛り上がっていた。
「窓ガラス割れたらしいよ」「うちの自転車飛んでった」
そんな話題の中で、澪の名前は一度も出なかった。
僕は席に座りながら、澪の机を見た。そこには、何も置かれていなかった。
担任の林先生は、朝のホームルームでこう言った。
「えー、昨日の台風はすごかったですね。皆さん大丈夫でしたか?
先生の家は瓦が全部飛ばされてしまって大変でした。台風の中皆さんが無事かすっごく不安でした。だから、今日皆さんの顔が見れて先生すごくほっとしています。
あと、澪さんは……突然ですが転校されました。事情は聞かないでください」
その言葉に、教室がざわついた。でも、誰も深く追及しなかった。
まるで、澪という存在が、最初から曖昧だったかのように。
僕は納得できなかった。澪は、確かにそこにいた。風の中で、僕と手をつないだ。
そして、青い光となって消えていった。
澪は消えた。でも、風はまだ、僕の周りを吹いていた。




