第四章第1話 聖域の扉
祭壇の前に立つと、莉緒はそっと手のひらを開いた。
そこには、幾度もの旅路で集めた“欠片”が、一つの鍵へと姿を変えていた。澪が残した記憶の結晶。聖域への扉を開く、唯一の手段。
目の前にそびえる扉は、無機質で巨大だった。石でも金属でもない、何か得体の知れない素材でできている。触れる前から、魔力の波動が肌を刺すように伝わってくる。
「俺たちはええよ。二人の空間を邪魔したないしな」
フウリが、いつもの軽い調子で言ったが、その目は真剣だった。
「外で待ってるわ。澪ちゃんに、ちゃんと伝えてあげて」
セリアが微笑みながら、莉緒の背中をそっと押す。
莉緒は頷き、鍵を扉の中心にかざした。
光が走る。静寂が満ちる。そして、扉がゆっくりと開いていく。
白い光が、世界を包み込んだ。音も、色も、重力さえも消えたような感覚。
莉緒は一人、聖域へと足を踏み入れた。
白。ただ、それだけだった。
莉緒の視界は、無限に広がる白に包まれていた。空も地もない。音も匂いも、風すらない。
上下左右の感覚が曖昧になり、まるで世界そのものが“存在”を忘れてしまったかのようだった。
「……ここが、聖域……?」
声は、吸い込まれるように消えた。反響もない。まるで自分の存在さえ、空間に溶けていくような錯覚。
莉緒は一歩、足を踏み出す。すると、足元に淡い光の波紋が広がった。
水面のように揺れ、すぐに消える。
その一歩が、確かに“自分”をこの世界に刻んだ証のように思えた。
「澪……」
呼びかけても、返事はない。気配も、魔力の反応も、何も感じられない。
ただ、白。
澪の記憶が作った空間なら、どこかに彼女の“心”があるはずだ。そう信じて、莉緒は歩き続ける。
波紋が広がるたび、白の中に微かな揺らぎが生まれる。
それは、澪の記憶の断片なのか、それとも澪自身の“痛み”なのか。
莉緒は立ち止まり、空間に向かって叫んだ。
「澪、どこにいるの……! 向かいに来たよ!」
その声は、確かに空間を震わせた。
白の中に、ほんのわずかに影が差した気がした。
澪の気配が、遠くで揺れたような気がした。
白の空間に、ふわりと影が差した。
莉緒が振り返ると、そこに立っていたのは——澪だった。
「莉緒!来てくれたんだ。待ってたよ!さぁ、こっちに来て!」
声は澪のもの。でも、莉緒は一歩、距離を取る。
「……澪?」
「そうだよ。私以外誰に見えるのよ。私はこっちの世界に来て、一人で寂しかった。でも、莉緒が来てくれた。もう私は一人じゃない。ずっとずっと、莉緒と一緒にここで暮らしたい」
空間が揺れる。澪の記憶が断片的に現れる。孤独に震える澪。誰にも届かない声。
莉緒の名前を呼び続ける日々。そのすべてが、空間に映し出された。
「どうしたの?さぁ、私の手を握って!」
澪は笑いながら、手を差し伸べる。その笑顔は、どこか歪んでいた。
莉緒は、静かに言った。
「風の通る場所には、意味がある。風は、誰かの想いを運ぶもの。澪は、風を信じてた」
「風?そんなものどうでもいいじゃない!私はあなたと一緒なら、それでいいの!」
その瞬間、莉緒の瞳が鋭く光った。
「澪は絶対、そんなこと言わない。……君は誰だ!」
澪の笑顔が崩れた。空間が軋み、白が黒に染まり始める。
「……チッ、バレたか。魔王様の命令でお前の心を壊すのが目的だったんだがな」
「やっと会えた姫の顔をして、殺してやろうと思っていたんだが…残念だ。」
澪の分身——いや、魔王の手先が、澪の記憶を利用して莉緒を惑わせようとしていた。
その存在は、澪の“表情”を模倣し、絆を偽ることで心を侵食しようとしていた。
「澪の顔を、そんな風に使うな!」
莉緒が手を掲げる。風が巻き起こる。
風魔法《疾風の刃》が空間を裂き、分身に向かって放たれる。
「……っぐ……!」
分身は叫びながら、風に飲まれて消えていった。空間は静まり返り、再び白に戻る。
莉緒は拳を握りしめ、前を向いた。「澪……本物の君に、会いに来たよ」
風が止み、白い空間に静寂が戻る。
その奥から、ゆっくりと歩いてくる影があった。
澪——本物の澪だった。
その姿は、分身とは違い、柔らかな光に包まれていた。瞳には涙が浮かび、唇は震えていた。
「……待ってたよ……ずっと……」
その声に、莉緒の胸が締めつけられる。
迷いも、疑いも、すべてが消えた。
莉緒は駆け寄り、澪を強く抱きしめた。
「澪……ごめん、遅くなって……!」
澪は、莉緒の肩に顔を埋めながら、ぽつりと呟いた。
「信じてた。莉緒なら、絶対に来てくれるって。……あの風が、教えてくれたの。あなたが、私を探してるって」
その瞬間、空間が揺れた。二人の記憶が重なり合う。
学博社学園の教室の窓際、授業中に思わず目が合い交わした視線。
放課後の廊下、並んで笑いながら帰るときの歩いた足音。
それらが、澪の心に色を差し始める。
空に、淡い青が広がる。
足元には、風に揺れる花の模様が浮かび上がる。
白かった聖域が、澪の記憶と感情によって再構築されていく。
「ここに閉じ込められて、一人っきりで私はずっと閉ざしてた。怖くてたまらなかった。でも、莉緒が来てくれたから、もう怖くない」
澪の声は、風のように優しく響いた。
「この場所に閉じこもってたら、思い出まで消えてしまいそうだった。でも……あなたが来てくれて、全部思い出した。私たち、ずっと一緒だったよね」
莉緒は頷いた。
澪がそっと手を差し出す。
莉緒がその手を握ると、聖域の空がさらに広がり、風が二人の周囲を優しく包み込んだ。
「魔王を倒して……帰ろう、澪。僕たちの教室へ。」
澪は微笑んだ。
「うん。一緒に、帰ろう」
二人は手を取り合い、聖域の出口へと歩き出す。
その背中には、風と花と、再生の光がそっと寄り添っていた。




