第三章第9話 風の記憶
エルファスが祭壇の上でゆっくりと手を掲げた瞬間、神殿全体が震え始めた。
空気が軋み、魔力がうねる。床に刻まれた紋様が光を放ち、莉緒たちの足元が崩れ落ちる。
「っ……! 空間が、歪んでる!」
フウリの叫びと同時に、視界が白く染まった。
次の瞬間、彼らは神殿から弾き出されるように、異なる空間へと飛ばされていた。
太陽が照りつける、乾いた大地。
サバンナのような広大な草原に立つと、地面が突然揺れ始めた。
地震だ。大地が裂け、亀裂が走る。足元が崩れ、莉緒は咄嗟に風で体を浮かせる。
「これは……魔法で作られた世界……?」
だが、思考する暇もなく、空間が再び揺れる。
今度は、海のような水のある場所へと転移させられた。
空は鉛色に染まり、遠くから魔力の奔流が押し寄せてくる。
津波のような魔力の壁が、空間を飲み込もうとしていた。
「防げない……!」
莉緒の風が押し返そうとするが、魔力の圧が強すぎる。
セリアの剣も、フウリの雷も、波に飲まれて消えていく。
そして、三度目の転移。
崩壊した街の瓦礫のような場所。
空気は濁り、腐食の霧が漂っていた。
金属が軋み、魔導具が劣化し始める。
セリアの剣に黒い斑点が浮かび、フウリの魔法陣が歪む。
「武器が……腐っていく……!」
ミリが矢を放とうとするが、矢筒の中の魔力が揺れて安定しない。
ルカの弓も、弦が軋んで音を立てる。
莉緒は風を巻き起こそうとするが、風そのものが腐食の霧に飲まれて消えていく。
「こんなの……戦いじゃない。災害そのものよ……!」
セリアの叫びが、空間に虚しく響いた。
エルファスは、祭壇の上から彼らを見下ろしていた。
その瞳には、憐れみも怒りもない。
ただ、自然の摂理としての破壊を淡々と遂行する者の目だった。
「お前たちの力は、自然の前では無力だ。
風も剣も、雷も、すべては我が災厄の前に沈む」
莉緒たちは防戦一方。
魔力の暴力は、彼らの意思を踏みにじるように、次々と空間を変えていく。
この戦いは、もはや“戦闘”ではなかった。それは、王の怒りに晒される平民の姿だった。
「ミリ、あの裂け目……次、来るぞ」
ルカの声は冷静だった。
地震の余波が残る大地。サバンナのような空間の端に、わずかな地形の歪みが生じていた。
エルファスの魔力が空間を揺らすたび、そこに一瞬だけ魔力の流れが乱れる。
「……狙えるかも。兄さん、風を読んで」
ミリは矢を番え、魔力を集中させる。
彼女の瞳は、かつての迷いを捨てた射手のそれだった。
ルカは風の流れを読み、木々の精霊に語りかける。
ミリの矢に、風と木の精霊が宿る。
《双弓・森の誓い》――かつて兄妹が誓い合った技が、今、進化を遂げる。
「行け、ミリ!」
ミリが放った矢は、風を裂き、木々の囁きを纏って空間を駆け抜けた。
矢は魔力の奔流をすり抜け、エルファスの防御結界に突き刺さる。
――ギィィン!
空間が軋む音とともに、結界が一瞬だけ裂けた。
その隙を、莉緒たちは見逃さなかった。
「今だッ!」
莉緒の風が突き抜け、セリアの剣が閃き、フウリの雷が空間を貫く。
ミリの矢が導いた一瞬の突破口に、全員の攻撃が重なる。
エルファスの身体が、初めて後退した。
その足が祭壇の縁を踏み外し、空間が揺らぐ。
「……ほう。人の子にしては、見事な連携だ」
エルファスの声に、わずかな揺らぎがあった。
それは、神にも似た存在が初めて人間の力を“脅威”と認識した瞬間だった。
ルカとミリは、互いに視線を交わす。
言葉はない。だが、確かに通じ合っていた。
「兄妹の誓い、無駄にはしないよ」
ミリが呟き、再び矢を番える。空間はまだ歪み続けている。
だが、希望は確かに生まれた。それは、絶望の中に差し込んだ一筋の光だった。
――咆哮が、空間を裂いた。
エルファスが天を仰ぎ、胸の奥から放った一声は、音ではなく“力”だった。
神殿の柱が軋み、天井が崩れ始める。
空間そのものが震え、歪み、悲鳴を上げる。
「っ……ぐあっ!」
莉緒たちは、抗う間もなく吹き飛ばされた。
風の盾も、魔力の壁も、咆哮の前では無意味だった。
セリアは石壁に叩きつけられ、フウリは瓦礫の山に埋もれ、ミリとルカは互いを庇いながら地面に転がる。
エルファスの身体が、ゆっくりと変化を始める。
その髪が、深緑に染まっていく。
肌は光を帯び、体中に自然魔力がまとわりつく。
風、木、水、炎――すべての精霊が彼の周囲に集い、融合していく。
「……これが、真の姿……?」
莉緒は震える声で呟いた。
目の前に立つ存在は、もはや“人”ではなかった。
その輪郭は曖昧で、風のように揺れ、木々のように根を張り、水のように流れ、炎のように揺らめく。
それは、“自然そのもの”だった。
セリアが剣を振るう。
フウリが魔法を放つ。
ミリが矢を射る。ルカが風を操る。
だが――すべてが、空を切った。
剣は彼に届く前に消え、雷は吸収され、矢は霧のように溶け、風は彼の周囲で静かに消えた。
「……攻撃が、通らない……!」
フウリの声に、誰も答えられなかった。
それは、絶望の静寂だった。
エルファスは、ただそこに“在る”だけだった。
攻撃を防ぐのではない。受け止めるのでもない。
ただ、すべてを“無に還す”。
「我は自然の真理。風が吹けば竜巻となり、雷が落ちれば川が氾濫する。人の力など、自然の前では塵に等しい」
その声は、神託のように響いた。
莉緒たちは立ち上がろうとするが、身体が動かない。
魔力が、吸われていく。意志さえも、削られていく。
「どうすれば……勝てるの……?」
ミリの呟きは、誰の心にも刺さった。それは、読者の心にも届く問いだった。
どうすれば、この“自然”に抗えるのか。どうすれば、この“災厄”に勝てるのか。
空間は静まり返る。
「――死ね」
エルファスの声は、冷たい宣告だった。
空間が震え、彼の掌から放たれた魔力の槍が、莉緒たちに向かって一直線に飛ぶ。
それは、災厄の象徴。避けることも、受け止めることもできないはずの一撃。
「……あかん!」
フウリが叫び、前に飛び出した。風が巻き起こり、彼の身体を包む。
その風は、怒りでも恐怖でもない――守るための風だった。
「こいつらだけは……絶対に死なさへん!」
彼の叫びとともに、風が爆ぜた。魔力の槍が風に飲まれ、軌道を逸らす。
空間が軋み、フウリの身体が光に包まれていく。
風が彼の背から吹き上がり、髪が宙に舞う。
瞳が淡い翠に染まり、肌に精霊の紋が浮かび上がる。
それは、風の精霊としての本来の姿――人と精霊の境界を越えた存在。
「フウリ……?」
莉緒が呟いた。
その声に、フウリは振り返らない。彼の風は、もはや“攻撃”ではなかった。
それは、仲間の背中を押す“追い風”だった。セリアの剣が、風に乗って輝きを増す。
ミリの矢が、風に導かれて軌道を正す。ルカの魔力が安定し、雷が空間を裂く。
「なんや……身体が、軽い……!」
「魔力が……流れてくる……!」
「傷が……癒えてる……!」
風は、彼らの心にも吹き込んでいた。恐怖を払い、希望を灯す。
それは、フウリの“意志”だった。
「風はな……誰かを倒すためにあるんちゃう。
誰かを守るために、背中を押すために、吹くもんや」フウリの声は、空間に響いた。
エルファスの魔力が再びうねる。だが、今度は違った。
風が、空間を守っていた。仲間を包み、魔力の暴力を和らげていた。
「お前の災厄に、負けへん。
この風は、希望のために吹くんや!」
その瞬間、空間が揺らいだ。エルファスの瞳が、わずかに揺れる。
それは、初めて“風”に押された瞬間だった。莉緒たちは立ち上がる。
風が背を押す。心が、前を向く。
フウリの覚醒は、ただの力ではなかった。それは、仲間を守る“意志”の風だった。
風が吹いていた。
それは、恐怖を払う風。それは、背中を押す風。
フウリの覚醒によって生まれた“守る風”が、空間を満たしていた。
「今なら……通る!」
ルカが叫び、ミリが矢を番える。
フウリの風が二人の背を押し、矢に精霊の力が宿る。
風と木の精霊が再び矢に纏い付き、軌道を導く。
「兄さん、いくよ!」
「任せた、ミリ!」
矢が放たれた。
それは、風の渦に乗って空間を裂く。
エルファスの周囲に漂う自然魔力をすり抜け、結界の隙間を突き破る。
「通った……!」
セリアが剣を構える。
莉緒が風魔法を最大出力で展開する。
空間が震え、風が唸る。
「今こそ、四人の力を――!」
フウリが叫ぶ。風が集まり、魔力が融合する。
ルカとミリの矢、セリアの剣、莉緒の風――すべてが一つの流れとなる。
「《フルショット・オブ・ウィンド》!」
四人の声が重なった瞬間、風が爆ぜた。渦巻く風の中に、矢と剣が浮かび上がる。
それは、精霊の力を宿した“希望の刃”。
エルファスが目を見開く。その瞳に、初めて“恐れ”が宿る。
「これは……人の力か……?」
風の渦がエルファスを包み込み、矢と剣がその身体を貫いた。
自然魔力が暴走し、空間が軋む。エルファスの身体が揺らぎ、崩れ始める。
「我は……災厄……。だが……これは……」
その声は、風に飲まれて消えていった。
エルファスの身体が崩れ落ち、空間が静まり返る。
風が止んだ。だが、それは終わりではなかった。
それは、始まりだった。莉緒たちは、互いに顔を見合わせる。
傷だらけの身体。疲れ切った魔力。それでも、笑みがこぼれる。
「……勝った、んやな」
フウリが呟く。その声に、誰もが頷いた。
《フルショット・オブ・ウィンド》――それは、四人の絆が生んだ奇跡だった。
風は、守るために吹いた。矢は、希望を貫いた。剣は、未来を切り開いた。
エルファスの身体が、風に溶けるように霧散していった。
自然魔力の奔流が空間に吸い込まれ、静寂が戻る。
その場に残されたのは、ひとつの欠片――銀色に輝く鍵の破片だった。
「……これって……」
莉緒がそっと手を伸ばし、欠片を拾い上げる。
すると、胸元にしまっていた二つの鍵の欠片が、淡く光を放ち始めた。
三つの欠片が空中に浮かび、互いに引き寄せられるように回転する。
風が巻き起こり、精霊の囁きが空間を満たす。
「融合してる……!」
ミリが息を呑む。
ルカとセリアも、言葉を失って見守る。
光が収束し、三つの欠片は一つの鍵へと姿を変えた。
それは、風と木と雷の紋が刻まれた、美しくも力強い鍵だった。
その瞬間、祭壇の奥にある扉が震え始める。石造りの扉が軋み、紋様が淡く輝き出す。
空間が共鳴し、風が扉へと導くように吹き抜ける。
「澪の気配が……強くなってる……」
莉緒が呟いた。その言葉に、誰もが静かに耳を澄ませる。
――……待ってるよ……
微かな声が、風に乗って届いた。それは、確かに澪の声だった。
遠く、優しく、でも確かに存在する声。
「澪……やっと会いに行ける。すぐに迎えに行く」
莉緒の瞳が、決意に満ちる。風が彼女の髪を揺らし、鍵が手の中で温かく脈打つ。
風は、次なる旅路を指し示していた。仲間たちは、互いに視線を交わす。
疲れは残っている。傷も癒えてはいない。それでも、心は前を向いていた。
風が吹いていた。それは、希望の風だった。




