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第三章第8話 樹王エルファス

森の奥へと踏み入るたび、空気は次第に重く、肌にまとわりつくような湿気が増していった。木々は密集し、陽光はほとんど差し込まず、昼であるはずなのに辺りは薄暗い。莉緒たち一行は言葉少なに進みながら、ただならぬ気配に神経を尖らせていた。

やがて、鬱蒼とした木々の隙間から、それは姿を現した。

巨大な神殿。草木に覆われ、苔が石壁を這い、まるで森そのものが建造物を飲み込んだかのような姿。柱は太く、根のように地面に絡みつき、天井は枝葉に覆われている。人工物であるはずなのに、自然と融合し、異様な生命感を放っていた。

「……これが、森の神殿……?」ミリが息を呑む。

空気が震えるような感覚。魔力の濃度が異常に高く、呼吸するだけで胸が圧迫される。澪の気配も、この濃密な魔力にかき消されているようだった。

フウリが一歩前に出て、神殿を見上げながら言った。

「きっとこの中に原因がある。魔力が濃くなっている原因も、魔物が暴れてるのも……全部、ここが中心や」

その言葉と同時に、神殿の奥から、微かに地鳴りのような音が響いてきた。誰かが待っている。いや、何かが、侵入者を拒むように目を覚まそうとしている。

莉緒は剣の柄に手を添え、静かに頷いた。

「行こう。澪を取り戻すために」

そして、一行は神殿の闇へと足を踏み入れた。

フウリが神殿を見上げて「きっとこの中に原因がある」と言った瞬間だった。

背後の森が揺れ、地面が震えた。まるで大地そのものが怒りを発しているかのような地響き。莉緒たちは反射的に振り返る。

木々をなぎ倒しながら、巨大な影がいくつも迫ってくる。

ブラッティーオーク――森に棲む木の巨人。通常は単独で行動し、青い瞳を持つ温厚な魔物。だが今、彼らの目は血のように赤く染まり、理性を失った獣のように唸り声を上げていた。

「群れてる……?そんなはずない!」ミリが叫ぶ。

その異様な光景に、莉緒の胸がざわつく。何かがおかしい。何かが、彼らを狂わせている。

そのとき、莉緒の脳内に響く声があった。

英知探求――彼女の魔導具に宿る人工知能が、冷静に告げる。

「精神操作魔法の痕跡を検知。対象はブラッティーオーク群。殺意の指令を確認。神殿に踏み入る者を排除するよう設定されています」

「精神操作……?つまり操られてるってことか……まずい。これは罠だ」

莉緒の声が震える。誰かが、意図的に魔物を操り、神殿を守らせている。侵入者を殺すために。ブラッティーオークたちは、もはや森の守護者ではなかった。

その巨体は怒りに満ち、地を踏み鳴らすたびに周囲の木々が裂け、空気が震える。

「来るぞ!」ルカが叫び、剣を抜く。

一行は即座に陣形を整えた。だが、数が多すぎる。しかも、通常のブラッティーオークとは違い、動きが速く、攻撃的だ。まるで何かに突き動かされているように、彼らは迷いなく莉緒たちを狙っていた。

「これは……ただの魔物じゃない。殺すために、仕組まれてる」

フウリの声が低く響く。

神殿の奥に潜む何者かが、魔物を操り、侵入者を排除しようとしている。

その殺意は、森全体に染み渡っていた。

莉緒は剣を構えながら、心の奥で確信する。

この神殿は、ただの遺跡ではない。

ここには、意志がある。

そしてその意志は――彼らの侵入を拒んでいる。

怒号のような咆哮とともに、ブラッティーオークの群れが襲いかかる。

ルカとミリは背中合わせに立ち、矢と剣で応戦する。矢は正確に敵の関節を狙い、ルカの剣は木の巨体を裂くように振るわれる。だが、数が多すぎた。しかも、彼らは理性を失い、痛みすら感じていないようだった。

「ミリ、下がれ!」

ルカが叫んだ瞬間、ミリの肩に一体のオークの腕が叩きつけられた。彼女は吹き飛ばされ、地面に転がる。

「ミリッ!」

ルカの叫びが森に響く。彼の視界が赤く染まる。怒り、恐怖、そして――焦り。

ミリは血を流しながらも、震える手で弓を握りしめていた。

「……まだ、撃てる……兄ちゃん、あたし、まだ……!」

その言葉に、ルカの胸が締め付けられる。幼い頃、森で迷った二人が互いを呼び合いながら手を繋いだ記憶。誰にも頼れなかった日々。支え合って生きてきた兄妹の絆が、今、魔力として共鳴し始める。

空気が震えた。

ルカとミリの魔力が融合し、弓に宿る。

「ミリ、撃て!」

「うん……!」

二人が同時に矢を放つ。

その瞬間、矢は緑色の光を帯び、森の魔力と融合した。枝葉が矢に絡みつき、風がその軌道を導く。

《双弓・森の誓い》

矢は空を裂き、ブラッティーオークの群れの中心へと突き刺さる。

爆発するような魔力の波動が広がり、敵の動きが一瞬止まった。

「今だ!」

莉緒が風の刃を放ち、フウリが雷を纏った剣で突撃する。英知探求が魔力の流れを解析し、弱点を指示。連携は完璧だった。

風、雷、剣、そして絆の矢――

それらが交差し、ブラッティーオークの群れは次々と倒れていく。

最後の一体が崩れ落ちたとき、森に静寂が戻った。

ルカはミリに駆け寄り、彼女の傷に手を添える。

「……ごめん、守れなかった」

「違うよ。兄ちゃんがいたから、撃てたんだ」

二人の手が重なり、魔力が穏やかに流れ合う。その光景に、莉緒は微笑んだ。

「兄妹の絆って、すごいね」

だが、神殿の奥から、再び空気が震え始める。まだ終わっていない。

本当の敵は――別にいる。

ブラッティーオークの群れを退けた一行は、静まり返った神殿の前に立ち尽くしていた。

空気はまだ重く、魔力の濃度はむしろ増しているように感じられる。莉緒は剣を収めながら、深く息を吐いた。

「澪の気配……まだ、感じる。でも、揺れてる。苦しそうに」

神殿の扉は、自然の根が絡みついていたが、フウリの雷の一撃で解かれ、ゆっくりと開いた。

中は薄暗く、壁や天井は蔦と苔に覆われていた。だが、中央に鎮座するそれだけは、異質だった。

巨大な祭壇。

黒曜石のような材質でできた台座が、地面から突き出るように立っている。表面には古代文字のような紋様が刻まれ、そこから淡く、しかし濃密な魔力が放たれていた。

「……これは、ただの祭壇じゃない」

フウリが低く呟く。

魔力は空間を歪ませ、周囲の空気が波打つように揺れていた。

澪の気配も、その魔力に飲み込まれるように、苦しげに震えている。

莉緒は祭壇に近づき、手をかざした。

その瞬間、彼女の魔導具――英知探求が反応した。

「解析開始……完了。高濃度の自然魔力、災厄属性を検出。空間干渉レベル:危険域。

この場所は、ヴァルクが言っていた“聖域”である可能性が高いと考察されます」

「聖域……?」

莉緒は眉をひそめる。ヴァルク――莉緒たちが倒した、澪を捕まえ、聖域へ閉じ込めた焔王。その言葉が、今になって繋がる。

「……ここか!この先に澪がいる……!」今まで集めた二つの鍵の欠片が反応している。

祭壇の魔力は、まるで澪の存在を封じ込めるように、空間をねじ曲げていた。

その中心に、微かに澪の気配がある。だが、触れようとすると、魔力の壁が拒絶する。

「この祭壇が、澪の気配を覆ってる……!」

莉緒の声が震える。

だがその瞬間、祭壇が微かに光を放ち、空間が震えた。

空気が裂けるような音。次元が、何かに引き裂かれようとしている。

莉緒は剣を構え直しながら、仲間たちに目配せした。

「来る……何かが、この祭壇を守ってる」

祭壇の上に、まがまがしく黒いオーラを放った異界の穴が開き始めていた。

祭壇の魔力が震え始めた。

空気が軋み、空間が歪む。まるで見えない手が世界を引き裂こうとしているかのように、神殿の中心に黒い亀裂が走った。

「何者だ。我が領域に土足で踏み入る愚か者は……」

声が響いた。

低く、重く、森そのものが語りかけてくるような声。

その瞬間、祭壇の上に次元の裂け目が出現した。空間が裂け、闇が溢れ出す。

そこから、ゆっくりと一人の男が姿を現した。

身長はおよそ一八〇センチ。

赤く燃えるような髪が肩まで垂れ、緑の瞳は蛇のように細く鋭い。

その目が莉緒たちを見下ろした瞬間、全員の背筋に冷たいものが走った。

男の周囲には、まがまがしいオーラが渦巻いていた。

自然の魔力とは違う。これは、災厄そのもの。

木々がざわめき、神殿の壁が軋む。森が怯えている。

「……あれは……」

フウリが一歩前に出て、声を絞り出す。

「奴は……始まりの五王の一人。樹王エルファスや!」

その名が告げられた瞬間、空気がさらに重くなった。

かつて魔王と同等の力を持ち、世界を自然災害の魔力で滅ぼそうとした存在。

その力は、風や雷ではなく、地震、津波、疫病、腐食――自然が持つ“破壊”の側面を操るもの。

エルファスはゆっくりと歩みを進め、祭壇の前に立った。

その足元から、根のような魔力が広がり、神殿の床を這う。

「いかにも、私がエルファスである。この森は我が領域。侵入者には死を与える。

お前たちの存在は、自然の均衡を乱す異物だ」

その言葉に、莉緒は剣を構えた。

澪の気配が、祭壇の奥で微かに震えている。

「この森が、お前たちを飲み込むか、あるいは——お前たちが森を裂くか」

神殿が震え、祭壇の魔力が再び膨れ上がる。戦いは、始まろうとしていた。

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