第三章第5話 ネイレア
深海の都に、ようやく静けさが戻り始めていた。
ミナの祈りが結界を安定させ、魚たちが再び街を泳ぎ、崩れた建物にも修復の兆しが見え始めていた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「……来る!」
莉緒が気配を察知した瞬間、海流が乱れ、暗い影が都の外縁に広がった。
スパイダージョズ――蜘蛛の脚を持つ異形の水棲魔物が、群れを成して押し寄せてくる。
「なんでや……なんでこんなに大量に……?」
フウリが歯を食いしばりながら呟く。
セリアが剣を構え、周囲を警戒する。「都の結界は安定してるはず。なのに、どうして……」
莉緒は魔力を集中し、周囲の気配を探る。
何かが、深海の底で蠢いている。
それは、澪の気配とは異なる、冷たく巨大な存在だった。
「……恐らく、この近くに五王の一人、水を操るネイレアがおる」
フウリの声は低く、確信に満ちていた。
「ネイレアは水中生物を意のままに操る力を持っとる。スパイダージョズの異常発生も、あいつの仕業やろ」
セリアが目を見開く。「そんな……なんてひどいことを。人の住む都を、まるで遊び場みたいに……」
莉緒は静かに頷いた。
「ネイレアは、きっと近くにいる。探そう。澪に近づくためにも、五王を越えなきゃならない」
三人の視線が、再び都の奥へと向けられた。
静かだった海が、再び不穏な波を立て始めていた――。
スパイダージョズの一体が、結界の隙間をすり抜けて街中へと侵入してきた。
水を切るような鋭い動きで、建物の壁を這いながら、住民の避難所へと向かっていく。
「止めなきゃ!」
莉緒が風の魔力を纏い、手を掲げる。
「《風神の掌》!」
突風が巻き起こり、スパイダージョズの巨体を水中で持ち上げる。
そのまま空中に浮かせられた魔物に、セリアが跳躍して斬撃を浴びせた。
「《剣の極み・断》!」
鋭い一閃が水を裂き、魔物の体を貫いた。
スパイダージョズは断末魔を上げることもなく、泡となって消えていった。
「……数が増えてる。やっぱり、ネイレアの影響かも」
フウリが眉をひそめる。
三人は街中の調査を開始した。
古文書を保管する海底図書館、封印記録が残る祭壇跡、そして避難していた住民たちの証言を集めていく。
「昔、この都には『水の巫女団』っていう神官たちがおってな。ネイレアを神殿に封印してたらしいんや」
フウリが記録の断片を読み上げる。
「でも、その封印は……何かのきっかけで緩んだのかもしれない」
セリアが地図を広げながら言う。
莉緒は静かに頷いた。
「神殿に、何かあるかもしれない。もう一度行こう。澪の気配も、あの場所で強く反応してた」
三人は目を合わせ、再び神殿へと向かう決意を固めた。
神殿の前に立った瞬間、地鳴りが響いた。
水底の岩盤が軋み、結界の紋様が青白く点滅する。
建物の柱が悲鳴のような音を立てて崩れ始めた。
「なんや、何があった!?」
フウリが叫ぶ。足元の石畳が波打ち、神殿の天井がひび割れていく。
空間が、変わった。
冷たい圧力が肌を刺し、息を吸うだけで胸が締め付けられる。
見えない視線が、三人を見下ろしていた。
「……来る」
莉緒が震える声でつぶやいた。
「上よ!」
セリアが絶叫する。
三人が空を仰いだ瞬間、世界が暗転した。
雲のような水の渦が空を覆い、その中心から、巨大な影が姿を現した。
それは、鯨だった。
だが、ただの鯨ではない。
都一戸分ほどの巨体。皮膚は黒曜石のように硬く、ひび割れた岩のような歯が並ぶ口は、街を丸呑みにできるほど広がっていた。
目は黄色く光り、感情のない冷たい輝きで都を睥睨している。
その巨大な視線が、神殿を、三人を、そしてこの海底のすべてを見下ろしていた。
「現れよったで……!」
フウリが声を震わせながら言った。
「――あれが、五王の一人。ネイレアや!」
水が逆巻き、神殿の残骸が空へと吸い込まれていく。
ネイレアの体から発せられる魔力は、海そのものを歪ませていた。
空間がねじれ、音が消え、ただその存在だけが世界を支配していた。
莉緒は拳を握りしめた。セリアが剣を構え、フウリが魔導具を起動する。
三人の視線は、空に浮かぶ神のような魔物へと向けられていた。
ネイレアは、動かない。
まるで、世界の終わりが、静かに始まったかのようにその沈黙こそが、圧倒的な威圧だった。
ネイレアは都の外縁を旋回していた。
その巨体が水を押し分けるたび、海底都市全体が揺れる。
そして、咆哮が響いた。
「うぉーーーーーー!」
音ではない。圧力そのものが空間を震わせ、三人の鼓膜を突き破るような衝撃が走る。
「いくよ!」莉緒が詠唱を終え、風の矢を放つ。
だが、水の屈折が軌道を歪め、ネイレアの巨体に届く前に消えてしまった。
「くっ……遠すぎる!」
セリアが剣を構えるが、距離がありすぎて跳躍すらできない。
フウリの爆裂魔法も、水圧によって拡散し、ただ泡を巻き上げるだけだった。
「攻撃が通らへん……!」
そのとき、ネイレアの体から黒い霧が広がった。
霧の中から、異形の魔物が次々と現れる。
サメ型の胴体に、蜘蛛のような脚が六本。
鋭い牙と、赤い複眼。
それはスパイダーシャーク――ネイレアの眷属だった。
「来るよ!」
莉緒が叫ぶ。
群れは高速で突進してきた。
水を切る音が耳元をかすめ、三人は散開して応戦する。
セリアが一体を斬り伏せる。
フウリが魔導具で雷を放ち、莉緒が風の渦で敵を巻き上げる。
だが、数が多すぎた。
一体倒しても、次の一体がすぐに襲いかかる。
水中では動きが鈍り、魔法の精度も落ちる。
「このままじゃ……押し切られる!」
莉緒が叫ぶ。
セリアの肩に爪が食い込み、フウリの魔導具が一瞬停止する。
莉緒の魔力も限界に近づいていた。
ネイレアは遠くで旋回を続けている。
その巨体が、まるで戦いを見下ろす神のように、静かに海を支配していた。
三人は背中を合わせ、息を整える。絶望が、じわじわと迫っていた。
神殿の残骸を踏み越え、ミナが駆けてきた。
髪は乱れ、瞳には涙と怒りが宿っている。
その姿は、祈りの巫女ではなく、悲しみを背負った戦士だった。
「この街が受けた悲しみ……あなたにぶつける!」
叫びと共に、ミナの魔力が爆発した。
水が震え、空間が軋む。
彼女の胸元から光が溢れ、《共鳴の涙・解放》が発動する。
水流が渦を巻き、都の記憶が魔力に変換されていく。
崩れた家屋、逃げ惑う人々の叫び。莉緒がその記憶に触れ、胸が締め付けられる。
ミナの魔力は、都の痛みと希望をすべて抱えて、ネイレアへと向かっていった。
水流が巨大な鯨型魔物の体を包み込む。
記憶の奔流が、ネイレアの皮膚を貫き、心へと届くように。
その瞬間――ネイレアが動きを止めた。旋回をやめ、空に浮かぶ巨体が静止する。
黄色い瞳が、わずかに揺らいだ。
「……届いた……?」
フウリが息を呑む。セリアが剣を下ろし、莉緒がミナの肩に手を添える。
ミナの魔力は、まだ震えていた。だがその震えは、怒りではなく、祈りのように静かだった。
ネイレアは、沈黙のまま海を見下ろしていた。その姿は、深海に君臨する魚の王であった。
ミナの魔力が海を満たすと、空気が変わった。
水の流れが整い、魔力の粒子が三人の周囲に集まり始める。
莉緒の風が鋭さを取り戻し、セリアの剣が水を切るように動く。
フウリの魔導具も、安定した光を放ち始めた。
「今や!魔力が通るようになってきた!」
フウリが叫ぶ。
「一気に畳みかけるわよ!」
セリアが前へと踏み出す。
三人の攻撃が連携し、スパイダーシャークの群れを次々と撃破していく。
莉緒の風が敵を浮かせ、セリアの剣が断ち、フウリの雷がとどめを刺す。
水中戦の不利を、ミナの魔力が覆していた。
ネイレアの巨体が、わずかに動きを鈍らせる。
黄色い瞳が揺れ、海の支配者に迷いが生まれたようだった。
だが――その沈黙は長くは続かなかった。
「調子に乗るなよ、人間風情が……!」
ネイレアが再び咆哮を上げる。
その声は、怒りと嘲笑を混ぜたような響きだった。
「我には届かぬ……!」
その瞬間、ネイレアの体に刻まれた傷が、黒い霧に包まれた。
霧が収束すると、裂け目は消え、皮膚は再生していた。
「再生……!?」
莉緒が息を呑む。
「なんや、あれ……傷が戻ってるやんか……!」
フウリが震える声で言う。
セリアが剣を握り直す。
「でも、動きは鈍った。今なら、届くかもしれない……!」
ミナは静かに祈り続けていた。
その背に、都の記憶が宿り、魔力の波が再び広がっていく。




