第二章第9話 伝説
霧が濃く、視界は五歩先すら怪しかった。山道は獣の通り道のように荒れており、足元の岩は苔に覆われ、滑りやすい。莉緒は慎重に歩を進めながら、耳を澄ませた。風が木々を揺らす音に混じって、何かが這うような気配がある。魔物だ。だが、近づいてくる様子はない。むしろ、何かから逃げたような痕跡が、地面に残っていた。
やがて、斬られた魔物の残骸を見つけた。体の半分が鋭利に切断されている。斬撃の跡は異様なほど滑らかで、まるで刃が空間ごと裂いたようだった。莉緒は思わず息を呑む。これは、常人の技ではない。剣士であれば直感する。これは“技”だ。極限まで研ぎ澄まされた、理を超えた一閃。
その先に、断崖がそびえていた。見上げると、霧の向こうに古びた庵がぽつんと建っている。屋根は苔に覆われ、木の壁は風雨に晒されて黒ずんでいた。だが、そこから漂う気配は異質だった。空気が張り詰め、まるで結界のように周囲を隔てている。魔力ではない。もっと根源的な、世界の理に近い何か。
莉緒は一歩、崖に足をかけた。心臓が高鳴る。この先に、何かがいる。何かが待っている。――そして、それはきっと、ゴキヌスに立ち向かうための鍵になる。
庵の前に立った瞬間、背後から風が揺れた。
「……何者だ」
低く、しかし澄んだ声が霧の中から響いた。
莉緒が振り返ると、そこに一人の老人が立っていた。
白髪は腰まで伸び、長い髭が胸元で揺れている。
裸足で、杖も持たず、ただ立っているだけなのに、その姿勢は完璧だった。
筋肉は年齢を感じさせないほど引き締まり、目は鋭く、動きに一切の無駄がない。
「……あなたが、S?」
老人は答えず、じっと莉緒を見つめた。
その視線は、心の奥まで見透かすような重さがあった。
「なぜ私を探す?」
莉緒は一歩前に出て、言葉を選びながら答えた。
「ゴキヌスが……復活しました」
その瞬間、老人の目が大きく見開かれた。空気が一変する。風が止まり、霧が揺れる。
「そうか……あの災厄が、再び目覚めたか」
老人はしばらく沈黙し、遠くを見つめていた。
その表情には、過去の記憶が蘇るような深い影が差していた。
「……俺たちは、奴に挑んだ。覚悟も、準備も、すべて整えていたつもりだった。けど――」
莉緒は拳を握りしめ、唇を噛んだ。
その瞳には、敗北の記憶が焼きついている。
「手も足も出なかった。仲間の技も、私の剣も、奴には届かなかった。まるで、風に向かって叫んでいるようだった……」
声が震える。
それは恐怖ではなく、悔しさと無力さの混じった痛みだった。
「だから……力を貸してほしい。あなたの知る技、あなたの経験――今、どうしても必要なんです」
老人はしばらく莉緒を見つめていた。
その瞳は、過去を見ているようでもあり、未来を測っているようでもあった。
やがて、静かに首を振る。
「……お前の言葉に偽りはない。だが、私はもう老いた。かつてのようには動けん。今の私では、ゴキヌスには届かん」
その言葉は、諦めではなく、静かな事実の告白だった。
だが、老人の声には、まだ消えていない炎が宿っていた。
「だが――試練を乗り越えたなら、私の知る技のすべてを教えてやろう。
お前が本当に風の剣を継ぐ者ならば、その証を見せてみろ」
その瞳には、迷いはなかった。
「……受けます。どんな試練でも」
老人は微かに笑った。
それは、風のように静かで、どこか懐かしさを含んでいた。
「ならば、ついてこい。お前の旅は、ここから始まる」
庵の奥へと歩き出す老人の背中に、莉緒は一歩ずつ、確かに足を踏み出した。
「まずは、ここを登れ。道具は使うな」
Sが指し示したのは、切り立った崖だった。
岩肌は鋭く、苔が湿っている。高さは十数メートル。
風が吹き抜け、足元の砂が舞った。
莉緒は無言で崖に手をかけた。
指先が岩の隙間を探り、足をかける場所を見極める。
一歩、また一歩。
腕が軋み、足が震える。
途中、岩が崩れ、体が宙に浮いた。
「っ……!」
咄嗟に指を引っかけ、足を踏ん張る。
爪が割れ、血が滲む。
だが、落ちない。
気力だけで、崖にしがみついた。
「力は流れだ。止めるな、繋げろ」
下からSの声が届く。
莉緒は息を整え、再び登り始めた。
流れるように、岩を伝い、ついに頂へと手を伸ばす。
崖を越えた先に待っていたのは、険しい山道だった。
「次は、ここを全力で走れ。息を切らすな」
莉緒は走り出す。
道は上下にうねり、岩と木の根が行く手を阻む。
足を取られそうになりながらも、速度を落とさない。
突如、茂みから魔物が飛び出す。
牙を剥き、爪を振りかざす。
莉緒は身をひねり、岩陰へ滑り込む。
魔物の攻撃をかわしながら、走り続ける。
息は荒れ、視界が揺れる。
だが、止まらない。
「剣は振るうものではない。置くものだ」
Sの言葉が、頭に響く。
山道を抜けた先に、巨岩が鎮座していた。
「この岩を動かせ。力ではなく、技で」
莉緒は岩に手をかける。
びくともしない。
押しても、引いても、動かない。
彼女は岩の形を見つめ、周囲の地形を観察する。
重心が偏っていることに気づき、角度を変えて押す。
岩が、わずかに揺れた。
「……流れを読む。力は点ではなく、線だ」
莉緒は呼吸を整え、再び手を添える。
今度は、岩がゆっくりと転がり始めた。
最後の試練は、水だった。
Sが湖の前に立ち、言った。
「水の上を走れ」
「……え?」
Sは一歩踏み出す。
水面に足を置き、まるで地面のように走り出した。莉緒も湖に向かう。
一歩目で沈み、全身が水に浸かる。何度も挑戦するが、足が沈む。
魔力を込めても、うまく流れない。
「力を押し込むな。流れに乗れ」
莉緒は魔力の流れを意識し、足の置き方を変える。
水面に魔力を薄く広げ、足を滑らせるように走る。
何度目かの挑戦で、彼女は水の上を三歩、五歩、十歩と駆け抜けた。
岸に戻ると、Sが静かに頷いた。
「……試練は終わった。お前には、私の技を学ぶ資格があると認めよう」
莉緒は膝をつき、荒い息を吐いた。だが、その瞳は、確かに光を宿していた。
「風が通る場所には、意味がある」
Sの言葉は、静かに、しかし確かに莉緒の胸に届いた。
庵の裏手に広がる竹林の中、風が葉を揺らし、音を奏でていた。
その音は、どこか懐かしく、澪が語っていた言葉と重なった。
――風は、すべての生き物を繋いでいる。
偶然ではなく、必然として。
人も、獣も、草も、石も。
風はそれらを結び、導いていく。
「風は誰しもに影響を与える力を持つ。追い風となり、後ろから支えることもあれば、前から抑えることもある。
それらすべてに意味がある。そして、風は大きな力を持つ。すべてのものを吹き飛ばす力だ」
Sは手を広げ、空を見上げた。
「風が海とつながれば、それは竜巻となる。だが、風は救うこともできる。
幸せを運び、まき散らすこともできる。風は、ただの現象ではない。意志を持つ力だ」
莉緒はその言葉を胸に刻んだ。
風を操るとは、ただ動かすことではない。
風の意味を理解し、自分がどうしたいのか――その願いを風に乗せること。
「魔法の根幹は、イメージすることだ。イメージできることは、実現できる」
Sはそう言いながら、一本の木の枝を拾い、空に向かって振った。
枝先から風が生まれ、鳥のように舞い上がった。
「お前が風を使って何を成したいのか。それを明確に描け。
その先にあるのが、特級魔法『風神の戯れだ」
莉緒は目を閉じ、イメージを描こうとした。
ゴキヌスの姿。仲間の声。澪の笑顔。
だが、風は揺れるだけで、形にならない。
何度も挑戦するが、魔力は拡散し、風は暴れるだけだった。
焦りが募り、心が乱れる。
「力で風を押さえつけるな。風は、流れだ。止めるな、繋げろ」
Sの言葉が響く。
だが、莉緒の心はまだ定まらない。
その夜、庵の縁側で風に吹かれながら、莉緒は澪のことを思い出した。
あの日、澪が言った言葉。
「風って、誰かの願いを運ぶものだと思う。だから、私は――」
莉緒は拳を握った。
「……会いたい。澪に。もう一度、一緒に戻りたい」
その願いが、胸の奥から溢れた瞬間――風が動いた。
静かに、しかし確かに、莉緒の周囲に集まり始めた。
魔力が風と融合し、空気が震える。
足元から風が巻き上がり、莉緒の髪を揺らす。
「……これが、風神の戯れ」
Sが目を細め、微かに笑った。
風は踊り、空を裂き、光を纏った。
それは破壊ではなく、祝福のような力だった。
莉緒はその風を手に取り、確かに感じた。
澪への想いが、風を導いたのだ。
「よくやった。お前は、風を理解した。その風ならば、ゴキヌスにも届くだろう」
莉緒は頷いた。その瞳には、もう迷いはなかった。
夜の庵は静かだった。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、壁に揺れる影が二人の間に落ちていた。
莉緒は湯気の立つ茶碗を手にしながら、Sの言葉を待っていた。
「……五王とは、世界の誕生と共に存在した者たちだ」
Sは火を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
「彼らは、理を司る存在だった。だが、理は均衡を保つものではない。
五王はそれぞれ、世界を自分だけのものにしようと争いを始めた。
魔王もまた、その争いに加わった。世界は、奪い合いの場となった」
火が揺れ、Sの顔に深い影が落ちる。
「だが、ゴキヌスだけは違った。奴は“破壊”そのものを愛していた。
理も秩序も関係ない。ただ、命を喰らい、世界を壊すことだけを望んでいた」
莉緒は息を呑んだ。
Sの声には、かすかな震えが混じっていた。
「かつて、奴は魔王と手を組み、世界を滅ぼしかけた。
私はその時、仲間と共に剣を振るった。命を賭けて、奴に挑んだ」
囲炉裏の火が強く燃え上がる。Sの瞳が、過去を見つめるように遠くを見ていた。
「私たちの冒険者パーティーは、ゴキヌスを追い詰めた。
そして、仲間の魔術師が隙を突いて弱った奴を封印した。
彼女の魔術は、時を越えて奴を閉じ込めるほど強力だった。
だが……彼女は、最近亡くなった。
その瞬間、封印が揺らいだのだろう。
奴は、その隙を見逃さなかった。
きっと数百年の渇きを、今ここでぶつけるつもりだ」
囲炉裏の火が静かに揺れる。
莉緒は立ち上がり、Sを見据えた。
「俺たちが、止める。今度こそ、終わらせる」
Sはしばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「ならば、風を纏え。お前の剣が、世界を繋ぐ風となるように」
その言葉は、祝福であり、託された願いでもあった。
庵の外では、夜風が静かに吹いていた。
それは、遠い過去から続く風だった。




