第二章第8話 伝説を求めて
朝の光が、ギルドの回復室の窓から差し込んでいた。
セリアは静かに眠っている。顔色は少し戻ってきたが、まだ動ける状態ではない。
莉緒はそっと椅子に腰を下ろし、彼女の呼吸に耳を澄ませた。
「……まだ終わってないよね」
昨夜、セリアがそう言った時の声が、頭の中で繰り返される。
「うん。……あいつに、フウリにもう一度会いたい」
その言葉には、痛みも悔しさも、そして希望も混ざっていた。
フウリは風に乗って姿を消した。
あの時、何もできなかった自分。
ゴキヌスの圧倒的な力。
そして、ギルド内で囁かれていた“S”の噂――五王と渡り合った伝説の冒険者。
莉緒は立ち上がり、セリアの額にそっと手を添えた。
「必ず戻るから」
声には出さず、心の中でそう告げて、静かに部屋を後にする。
廊下を歩きながら、莉緒は拳を握った。
今のままでは、また誰かが傷つく。
守りたいものがあるなら、動かなければならない。
(俺が動く。次は、勝つために)
朝の光が、彼の背中を照らしていた。
ギルドの資料室は、朝の光が差し込む静かな空間だった。
棚に並ぶ古文書や報告書の匂いが、過去の戦いの記憶を呼び起こすように漂っている。
莉緒は、前夜に聞いた“S”の噂を頼りに、資料をめくっていた。
「五王と渡り合った冒険者」――その言葉が、頭から離れない。
古い戦歴の記録。
五王の侵攻に対抗した少数精鋭の部隊の中に、名前を伏せられた一人の剣士がいた。
「風のように現れ、敵を斬り、姿を消す」
その記述は、まるで神話の一節のようだった。
別の報告書には、こう記されていた。
「蒼い紋章を背負い、剣を一閃。魔王級の魔物を一撃で沈めた。だが、名も告げず、報酬も受け取らず、風とともに去った」
莉緒は眉をひそめながら、さらに資料を探る。
目撃証言の断片が、いくつも見つかった。
「北の山岳地帯で見た。霧の中、風を纏った男が魔物を斬っていた」
「名前は知らない。ただ、背中に蒼い紋章があった」
「人間とは思えない動きだった。まるで風そのものだった」
そのすべてが、“S”という存在を指していた。
だが、居場所は不明。連絡手段もない。
まるで、必要な時にだけ現れる幻のようだった。
莉緒は資料を閉じ、静かに息を吐いた。
ゴキヌスの気配を思い出す。あの圧倒的な力。
フウリが震え、セリアが倒れ、自分も何もできなかった。
「……この人なら、ゴキヌスに対抗できるかもしれない」
その言葉は、希望ではなく、確信に近かった。
莉緒は立ち上がり、地図を広げる。
目撃証言が集中していた北の山岳地帯――そこが、次の目的地になる。
「風の剣士“S”……会えるなら、今しかない」
静かな資料室に、彼の決意が響いた。
昼下がりの街は、陽射しに包まれながらもどこかざわついていた。
莉緒はギルドを出て、まず情報屋の店を訪れた。
狭い路地の奥にあるその店は、冒険者たちの噂が集まる場所として知られている。
「“S”のことを探してる?」
店主は目を細めて言った。
「最近、北の山岳地帯で見かけたって話がある。霧の中で魔物を一撃で斬ったってな。風を纏った剣士だったらしい」
莉緒は礼を言い、次に古書店へ向かった。
埃をかぶった棚の奥に、過去の冒険者記録が眠っていた。
店主の老人は、記憶を辿るように語った。
「名前は言わなかったが、背中に“蒼い紋章”があったって話を聞いたことがある。
あれは、風の剣士の証だって言う者もいる。……本物かどうかは知らんがな」
最後に訪れたのは、街の酒場。
夕方になり、冒険者たちが集まり始めていた。
莉緒は静かに耳を傾け、話の断片を拾っていく。
「俺の知り合いが言ってた。山の麓で、風みたいな動きの剣士を見たって。
魔物が一瞬で倒されたらしい。……人間の動きじゃなかったってさ」
「蒼い紋章? ああ、背中にあったって。見た者は皆、口を揃えて言う。
あれは“風の剣士”の証だって」
莉緒は酒場の隅で地図を広げ、証言を照らし合わせていった。
北の山岳地帯――複数の目撃情報がそこに集中している。
霧が深く、魔物の巣も点在する危険地帯。だが、今の彼にとっては迷う理由にならなかった。
「……ここだ。きっと、ここにいる」
地図の一点を指差し、莉緒は静かに呟いた。
その瞳には、確かな光が宿っていた。
夕方、柔らかな光が回復室の窓から差し込んでいた。
莉緒は静かに扉を開け、セリアの様子を見に入る。
彼女はベッドに横たわったまま、目を開けていた。意識ははっきりしているが、まだ身体を起こすのは難しそうだった。
「調子はどう?」
莉緒の問いに、セリアは小さく笑って答える。
「まあまあ。動けるようになるには、もう少しかかりそう」
「そっか……」
莉緒はベッドの脇に腰を下ろし、しばらく黙っていた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
「俺、行ってくるよ」
静かに、しかし確かな声で莉緒は言った。
セリアが目を向ける。
「Sを探す。ゴキヌスに勝つために。……今のままじゃ、また誰かが傷つく。だから、動く」
セリアはしばらく黙っていた。
その瞳には、迷いも不安もなかった。ただ、莉緒の言葉を受け止めていた。
「気をつけて」
そう言って、彼女はゆっくりと頷いた。
「……帰ってきたら、また一緒に戦おう」
莉緒はその言葉に、少しだけ笑みを浮かべる。
「必ず見つけてくる。俺たちの戦いは、まだ終わってない。……ここからだよ」
セリアは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「うん。待ってる」
その言葉は、風のように優しく、しかし確かに莉緒の背中を押した。
彼は立ち上がり、部屋を後にする。
扉の向こうには、旅の始まりを告げる夕焼けが広がっていた。
夜明け前の街は、まだ眠っていた。
薄暗い空に、星の名残がかすかに瞬いている。
莉緒はギルドの玄関で立ち止まり、背負った荷物の重さを確かめた。地図は胸元のポケットに収めてある。目的地は、北の山岳地帯――風の剣士“S”の痕跡が残る場所。
扉を静かに閉めると、冷たい空気が頬を撫でた。
街路は静まり返り、石畳に靴音だけが響く。
灯りの消えた窓、誰もいない広場。
それでも、莉緒の足取りは迷いなく、確かだった。
遠くに霞む山々が、夜の帳の向こうに輪郭を浮かべている。
あの先に、伝説がある。
ゴキヌスに対抗できる力が、きっと。
歩きながら、莉緒はふとフウリの言葉を思い出す。
「約束はせん。でも……また会えたらええな」
風に乗って消えた仲間の背中。
そして、ベッドの上で微笑んだセリアの顔。
「帰ってきたら、また一緒に戦おう」
その言葉が、胸の奥で静かに灯っている。
(俺が強くなる。誰も、もう傷つけさせない)
心の中で、莉緒はそう呟いた。
それは願いではなく、誓いだった。
空が少しずつ白み始める。
新しい一日が始まる。
そして、物語もまた、新たな章へと踏み出す。
莉緒は足を止めず、北へ向かって歩き続けた。
風が背中を押すように吹き抜けていく。
山岳地帯の麓にある小さな村に、莉緒は昼過ぎに到着した。
石造りの家々が並び、風が木々を揺らす音だけが響いている。
人の気配は少なく、空気は澄んでいたが、どこか張り詰めた静けさが漂っていた。
村の広場で、薪を割っていた中年の男に声をかける。
「すみません。最近、この辺りで……風のような剣士を見たって話、聞いたことありますか?」
男は手を止め、しばらく考えてから頷いた。
「……ああ、いたよ。数日前、山の方から降りてきた男がいた。誰とも話さず、魔物を一撃で斬って、すぐに姿を消した。まるで風みたいだったな」
莉緒は礼を言い、さらに村の奥へと足を運ぶ。
古びた井戸のそばに座っていた老人が、彼に目を留めた。
「お前さん、あの男を探してるのかい?」
「……はい。蒼い紋章を背負った剣士を」
老人は目を細め、遠くの山を見つめながら語り始めた。
「確かに見たよ。背中に蒼い紋章を背負った男が、魔物を斬って去っていった。
あれは人じゃない、風そのものだった。剣を振るう前に、魔物が怯えていた。……まるで、存在そのものが違うんだ」
莉緒は息を呑んだ。
その描写は、資料で読んだ“S”の姿と一致していた。
「どの方向へ?」
「山道を登っていったよ。霧が深くて、普通の者じゃ迷うだけだが……あの男は、迷わなかった」
莉緒は地図を広げ、村人たちの証言を照らし合わせる。
点と点が線になり、目的地が浮かび上がる。
「……ここだ」
地図の一点を指差し、莉緒は立ち上がる。
風が吹き抜け、木々がざわめいた。莉緒は山道へと足を踏み出した。
霧の向こうに、伝説の背中が待っている。




