第二章第7話 傷と報告
森を抜けた瞬間、三人は地面に崩れ落ちた。
セリアはフウリの腕の中でぐったりとし、胸元から血が止まらず流れ続けていた。
その赤は、あまりにも鮮やかで、現実感がなかった。
「セリア……!」
莉緒が駆け寄り、震える手で彼女の傷口を押さえる。
魔力を込めて止血の術を試みるが、すでに魔力は底を尽きかけていた。
指先が痺れ、視界が滲む。
「くそ……止まれ……お願いだから……!」
セリアの呼吸は浅く、時折痙攣が走る。
そのたびに莉緒の心臓が締めつけられるように痛んだ。
「セリア、聞こえる? お願い、目を開けて……!」
涙が頬を伝い、彼女の顔に落ちる。
それでも、セリアは反応しない。
フウリが顔をしかめながら、風魔法の術式を展開した。
「もう時間がない。急げ、ギルドに戻るで!」
風が巻き起こり、三人の体を包み込む。
フウリはセリアを抱え、莉緒の手を引いて跳躍する。
風の流れが彼らを運び、森の木々を越えて街道へと飛び出した。
「持ってくれよ、セリア……!」
フウリの声は、風にかき消されそうなほど切実だった。
莉緒はセリアの手を握りしめながら、ただ祈った。
どうか、この風が命を繋いでくれますように――。
風の奔流に乗って、三人は街道を駆け抜けた。
フウリの魔法は限界に近く、速度も不安定になってきている。
それでもフウリは歯を食いしばり、セリアの体をしっかりと抱えたまま、前を見据えていた。
「もう少し……あと少しや……!」
莉緒はフウリの背にしがみつきながら、セリアの顔を見つめ続けた。
その唇は青白く、呼吸は今にも止まりそうなほど弱々しい。
「お願い……ギルドまで持って……!」
風が街の門を越え、石畳の通りへと滑り込む。
通行人たちが驚き、道を開ける。
フウリは叫んだ。
「誰か!治癒師を呼んで!セリアが……!」
ギルドの建物が視界に入った瞬間、莉緒の胸に熱いものが込み上げた。
ここまで来た。あと一歩――。
ギルドの扉が開き、受付の女性が目を見開いた。
「セリアさん!? すぐに医療班を!」
数人の治癒師が駆け寄り、セリアを担架に乗せて奥へと運ぶ。
フウリはその場に膝をつき、肩で息をしていた。
莉緒はその背中に手を添え、震える声で言った。
「ありがとう……フウリ……」
フウリは顔を上げ、涙をこらえながら笑った。
「まだ終わってへん。セリアが……生きてる限り、うちらの物語は続くんや」
ギルドの廊下に、セリアの血の跡が細く残っていた。
それは、彼女が命を懸けて守ったものの証。
そして、仲間たちが繋いだ希望の道だった。
セリアの治療が始まった直後、ギルドマスター・グランからの呼び出しが届いた。
フウリと莉緒は互いに顔を見合わせ、疲弊した体を引きずるようにしてギルド奥の作戦室へと向かった。重厚な扉を開けると、グランを中心に幹部たちが円卓に集まっていた。
空気は張り詰めており、二人の足音だけが静かに響く。
「来たか。座れ」
グランの声は低く、感情を抑えていたが、その眼差しは鋭かった。
フウリが口火を切る。
「森での任務、失敗や。敵の規模が……想定を遥かに超えてた」
莉緒が続けるように語り始める。
「インセクターキングの大群が、森の奥に集結していました。数は……数百体。
そして、それらが融合し、ひとつの存在になった――インセクトマスターです」
幹部たちがざわめく。
「インセクトマスター……!?」
莉緒は頷き、さらに言葉を重ねた。
「それだけじゃありません。融合の中心に、かつて封印された存在がいました。
始まりの五王の一人――ゴキヌスです」
その名が告げられた瞬間、室内の空気が凍りついた。
グランの目が見開かれ、額に冷や汗が滲む。
「ゴキヌス……だと……?」
幹部の一人が立ち上がり、声を荒げる。
「馬鹿な!奴は魔王と並び、世界を滅ぼしかけた存在だぞ!封印は絶対だったはず!」
別の幹部が資料をめくりながら言う。
「もし本当に復活しているなら……これは国を巻き込む事態だ。ギルド単独では対処できん」
フウリが拳を握りしめ、悔しげに言った。
「うちら、全力で戦った。でも……セリアが倒れて、あの数にはどうにもならんかった」
莉緒も俯きながら、声を震わせる。
「私たちじゃ……どうにもならなかった。悔しいけど、現実です」
グランはしばらく沈黙し、深く息を吐いた。
「……よく戻った。セリアの命を繋いだだけでも、君たちは十分に役目を果たした」
その言葉に、莉緒の肩がわずかに震えた。
だが、胸の奥に残る敗北の痛みは、簡単には癒えなかった。
「この件は、王都に報告する。インセクトマスターの出現、そしてゴキヌスの復活――
これは、世界の均衡を揺るがす事態だ」
作戦室の空気は、次なる嵐の予兆に満ちていた。
報告を終えた後、フウリは静かにギルドの屋上へと向かった。
夕焼けが街を染め、風が高く吹き抜ける。彼は瓦の縁に腰を下ろし、空を見上げていた。
足音が近づく。莉緒だった。
「……どこ行くん?」
フウリは振り返らず、空を見たまま答えた。
「ちょっと、風に当たりたくてな」
莉緒は隣に座る。しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
「俺、怖かったんや」
フウリがぽつりと呟いた。
「ゴキヌスの気配だけで、心が折れそうやった。あれは……生き物の枠を超えとる。
見ただけで、魂が震える。俺、戦うどころか、逃げることしか考えられへんかった」
莉緒は静かに聞いていた。
フウリの声は、いつもの軽さが消えていた。
「でも、逃げずに助けてくれたやん。セリアを抱えて、風で運んでくれた。あれがなかったら、今ここにいないよ」
フウリは首を振った。
「助けたんやない。……逃げるために動いたんや。セリアが傷ついて、俺は何もできんかった。
あいつ、俺よりずっと強いのに……俺はただ、見てるだけやった」
莉緒は言葉を探したが、何も言えなかった。
フウリの拳が震えていた。
「……ちょっと、休むわ」
そう言って、フウリは立ち上がった。
「このままじゃ、次に会う時も、俺は何もできん。だから、風の向こうに行ってくる。
自分の弱さを、ちゃんと見つめてくる」
莉緒が立ち上がり、問いかける。
「戻ってくる?」
フウリは少しだけ笑った。
その笑顔は、どこか寂しげで、でも優しかった。
「約束はせん。でも……また会えたらええな。そん時は、ちゃんと強くなってるから」
莉緒はふと、空を見上げて呟いた。
「……全員、生きて帰れただけで奇跡みたいなもんや。
あたしの幸運のおかげかもな」
フウリは笑った。
「せやな。莉緒の運、ちょっと分けてもらったかも」
風が吹いた。
その瞬間、フウリの身体が淡い光に包まれた。
光は風に溶けるように舞い上がり、空へと流れていく。
彼の姿は、風とともに消えていった。
莉緒はその場に立ち尽くした。
夕陽が沈み、空が群青に染まっていく。
「……待ってるよ」
その言葉は、風に乗って遠くへと流れていった。
夜の帳が降りた頃、セリアは静かに目を開けた。天井の木目がぼんやりと揺れて見える。
隣には、椅子に座ったままうたた寝していた莉緒の姿があった。
セリアが身じろぎすると、莉緒が目を覚ます。
「……セリア! 気がついたんだね!」
「うん……ここ、ギルド?」
「そう。セリア、呼んでも動かないから。あの時……本当に死んじゃうんじゃないかって…」
泣きそうな莉緒にセリアは少しだけ笑って、視線を窓の外へ向けた。
夜空には星が瞬いている。
「……フウリは?」
莉緒は少しだけ黙ってから、静かに答えた。
「行ったよ。風に乗って。……少し休むって」
セリアは目を伏せ、しばらく黙っていた。
そのまま、二人は窓辺に並んで座り、夜空を見上げる。
風が静かに吹き抜ける。遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「負けたけど……まだ終わってないよね」
莉緒がぽつりと呟く。セリアはその言葉に、ゆっくりと微笑んだ。
「うん。……あいつに、フウリにもう一度会いたい」
その声には、痛みも悔しさも、そして希望も混ざっていた。
莉緒はセリアの横顔を見つめ、拳を握る。
「絶対、会える。僕らはまだ終わってない。ここから。……ここから、始めよう」
夜空の星が、二人の決意を見守るように瞬いていた。
朝のギルドは、いつもよりざわついていた。
回復室の扉を開けた莉緒は、廊下の端で耳にした会話に足を止める。
「……ほんと? “S”がこの街に?」
「かつて五王と渡り合った冒険者だよ。ゴキヌス級にも通じるって噂さ」
その名に、莉緒の心が揺れた。
「……その人なら、ゴキヌスに勝てるかもしれない」
呟きながら、彼女はセリアの部屋へと向かう。
ベッドの上で、セリアはまだ静かに目を閉じていた。
呼吸は安定しているが、動けるようになるにはもう少し時間が必要だ。
莉緒は窓辺に立ち、朝の光を浴びながら拳を握る。
「セリアが動けるようになるまでに……私が動く。
次は、勝つために」
彼女はギルドの資料室へと足を運び、冒険者“S”に関する記録を探し始める。
断片的な情報、古い報告書、噂話。
それらを一つひとつ拾い集めながら、莉緒の目は鋭さを増していく。
「……待ってて。今度は、負けない」
その背中には、静かな決意が宿っていた。




