第二章第6話 森の決戦
「うぇ……吐きそう」
セリアが顔をしかめて呟いた。空気が重く、湿っている。繭から発せられる異様な気配が、彼女の胃を締めつけていた。
その時、羽音が聞こえ始めた。最初は遠く、次第に耳をつんざくほどの轟音へと変わっていく。空気が震え、木々の葉がざわめき、地面が微かに揺れた。
莉緒は一歩後ずさり、繭を見据えたまま言った。
「何かが……目覚めようとしてる」
その声には、確信と恐怖が混じっていた。森の静寂は、嵐の前の予兆だった。
繭の表面が震え、黒紫の筋が脈打つように光った。
次の瞬間、轟音と共に繭が裂け、空を覆うほどの羽音が森を揺らした。
「うそやろ……」
フウリが目を見開いた。繭の中から飛び出してきたのは、百匹を超えるインセクターキング。
それぞれが人間ほどの大きさを持ち、鋭利な羽と甲殻をきらめかせながら空を舞う。
セリアは膝をつき、吐き気を堪えながら呻いた。
「一匹でもAランクやのに……なんでこんなに……」
空を覆う羽音の中、一匹のインセクターキングが前に出た。
その体は他よりも一回り大きく、胸部には赤黒い紋章が刻まれていた。
「皆よく聞け!」
その声は甲高く、空気を裂いた。
「こいつらは我が同胞を三度も殺し、王であるゴキヌス様の命を奪おうとしている!」
フウリの顔が青ざめた。
「ゴキヌスやて……ありえへん……」
莉緒が眉をひそめて尋ねた。
「ゴキヌスって……誰?」
「始まりの五王の一人や。かつて魔王と共に世界を滅ぼそうとした存在。封印されてたはずやけど……もしホンマに復活してるなら、特ランクの人間でも勝てへん……」
その言葉に、セリアと莉緒は戦慄した。
空に舞うインセクターキングたちが、一斉に叫んだ。
「こいつらは生きて返さん!力を一つに!」
その瞬間、空中でインセクターキングたちが互いに殴り合い、噛み合い、殺し合い始めた。
羽が裂け、甲殻が砕け、血が降り注ぐ。
その光景は、まさに地獄だった。
空を覆うインセクターキングたちは、叫びと共に互いに襲いかかった。
羽音は悲鳴に変わり、甲殻が砕け、鋭利な爪が肉を裂く。
空中で繰り広げられる殺し合いは、まるで儀式のようだった。
「なんやこれ……」
フウリが呆然と呟いた。
「自分らで殺し合ってる……いや、違う。これは……融合や」
莉緒は目を見開いた。
「血が……集まってる……!」
地面に降り注いだインセクターキングたちの血が、まるで意思を持つかのように一か所に流れ込み、赤黒い球体を形成していく。
その球体は脈打ち、膨張し、やがて裂けた。
中から現れたのは、異形の怪物だった。
八本の足を持ち、尾には巨大な鉢のような毒針。
口元には鋭い顎が並び、ガシガシと音を立てて噛み合わされている。
全身から放たれるオーラは、空気を歪ませるほどの邪悪さだった。
「……インセクターマスターや」
フウリが震える声で言った。
「インセクターキングが融合して生まれる、最悪の存在……」
その瞬間、インセクターマスターが動いた。
地を蹴り、空気を裂いてフウリに向かって拳を突き出す。
「逃げるで!」
叫んだフウリの声が空に消えた。
彼の体は吹き飛び、巨木に激突して動かなくなった。
莉緒は息を呑んだ。
さっきの攻撃が見えなかった。
恐怖で足が動かない。魔力が乱れ、視界が揺れる。
インセクターマスターがゆっくりと拳を振り上げる。
その先にいたのは――莉緒。
「危ない!」
セリアが叫び、莉緒を突き飛ばす。
拳がセリアの胸を貫き、彼女は血を吐いて倒れ込んだ。
「……相手が悪すぎる……逃げろ……」
セリアの声は、かすれていた。
森の奥から、空気がねじれるような音が響いた。
それは風でも雷でもない。存在そのものが空間を歪ませる、異質な気配だった。
繭の奥が裂け、黒い霧が立ち込める。
その中から、ゆっくりと何かが姿を現す。
まず見えたのは、巨大な脚――一本で人間の背丈を超える。
次に、うねるような胴体。甲殻に覆われたそれは、まるで城壁のように重厚だった。
「騒がしいぞ……」
低く、地鳴りのような声が森全体に響いた。
霧が晴れた瞬間、莉緒は言葉を失った。
そこに立っていたのは、ビル四階建てに匹敵する巨体。八本の脚が地を踏みしめるたび、地面が悲鳴を上げる。背中には無数の棘が生え、尾には黒金に輝く毒針。
顔には目が六つ、口元には顎が三重に重なり、常にガシガシと音を立てていた。
その存在は、ただ“見る”だけで魔力を乱す。
莉緒は膝をつき、息が詰まった。
「……これが……ゴキヌス……?」
フウリは血を流しながらも呟いた。
「始まりの五王……世界を滅ぼそうとした、災厄そのものや……」
ゴキヌスは一歩踏み出した。
その瞬間、空が揺れた。
鳥が逃げ、木々が傾き、森が沈黙した。
「死をもって、我が目覚めを祝え」
その言葉に、空気が凍った。
セリアの体が微かに震え、莉緒は涙を流した。
恐怖ではない。
“理解”してしまったのだ。
この存在は、戦う相手ではない。抗うことすら、許されない。
その時、背後から突風が吹いた。フウリが魔力を振り絞り、二人を抱えて跳躍する。
「こんなん勝てるわけない!引くで!!」
叫びと共に、三人は森の外へと逃げ出した。
その背後で、ゴキヌスはただ一歩、ゆっくりと前に進んだだけだった。
それだけで、森の命が一つ、消えた。「はぁ……はぁ……」
莉緒は地面に膝をつき、荒い息を吐いた。
魔力は枯渇し、視界は霞んでいた。
セリアはフウリの腕の中でぐったりとし、胸元から血が滲んでいる。
「セリア……!」
莉緒が駆け寄るが、彼女は微かに目を開けただけだった。
「……ごめん……守れんかった……」
その声は、風にかき消されそうなほど弱かった。
フウリは地面に座り込み、肩で息をしていた。
顔には擦り傷、腕は折れているかもしれない。
それでも、彼は笑った。
「……生きてるだけマシや。こんなん、勝てるわけない」
莉緒は空を見上げた。
森の奥から、まだ羽音が響いている。
インセクターマスターの気配。
そして、その奥に潜むゴキヌスの存在。
「……負けたんだな、私たち」
その言葉に、誰も反論しなかった。
森の風が静かに吹き抜ける。
木々は沈黙し、空は曇り始めていた。
まるで、世界そのものが怯えているかのように。
「戻ろう。ギルドに報告せな」
フウリが立ち上がる。その背は、いつもより小さく見えた。莉緒はセリアの体を抱え、歩き出す。足取りは重く、心は沈んでいた。
けれど――「まだ、終わってへん」
フウリがぽつりと呟いた。
その言葉に、莉緒は目を細めた。終わっていない。
だからこそ、次へ進まなければならない。
森の奥では、ゴキヌスが静かに目を閉じていた。その周囲に、黒い繭が再び生まれ始めていた。世界の終わりは、まだ始まったばかりだった。




