第一章第1話 始まりの入学式
ジリリリリリ——。
けたたましい音が、静かな部屋に鳴り響いた。目覚まし時計のアラームが、春の朝を容赦なく切り裂く。ベッドの中でうめきながら、僕は手を伸ばして時計を止める。
「ふぁ〜……朝か。」
ぼやけた視界に目をこすりながら、のそのそと起き上がる。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の壁に柔らかく広がっていた。窓際に立ち、カーテンを開けると、そこには青い空と白い雲。まるで絵に描いたような晴れ渡る空が広がっていた。
「今日はいい天気だなー!」
思わず声に出してつぶやく。
そんな空を見上げているのは僕、坂下莉緒16歳。先月中学を卒業し、今日から高校生になる。新しい制服、新しい友達、新しい毎日。すべてが始まる、そんな記念すべき日だ。
昨日、うきうきしながらハンガーに掛けた新品の制服が目に入る。紺色のブレザーに、白いシャツ、そしてまだ硬さの残るネクタイ。それを見ただけで、胸が高鳴る。
高校デビュー。この言葉が、僕の頭の中で何度もリフレインする。
たくさんの友達に囲まれて、笑い合う自分。部活ではエースと呼ばれ、みんなに頼られながら活躍する自分。テストは常に一位で、先生にも一目置かれる自分。
女の子にモテモテで、一緒に勉強したり、放課後にカフェで語り合ったりする自分。
そんな理想の高校生活を思い描きながら、僕はベッドの上で一人ニヤニヤと笑っていた。
……いや、笑いすぎて頬がつりそうだ。
ふと鏡に目をやると、そこには寝癖で爆発したような髪が映っていた。茶髪が混じったぼさぼさの髪が、あらゆる方向に主張している。
「……おっと、まずは髪をセットするところからだな。」
現実は、理想よりもずっと手強い。
鏡の中の自分に苦笑しながら、僕はようやく準備を始めることにした。
窓を開けると、春の風がふわりと頬を撫でた。遠くで鳥のさえずりが聞こえ、街は新しい季節の始まりを祝っているようだった。
僕はタオルと制服を抱えて、階段を降りた。
トーストが焼ける香ばしい匂いが、家じゅうに広がっている。キッチンでは母さんが忙しそうに朝食の準備をしていた。
「おはよー、莉緒!いよいよあんたも高校生になんのね。お母さん嬉しいわ。」
そう言って、母さんは笑顔を向けてくる。僕はちょっと照れながら「おはよう」と返した。
「どしたの、タオルなんか持って」
「ああ、ちょっとシャワーを浴びようと思ってね」
母さんはニヤッと笑った。
「中学生の時は朝にシャワーなんて浴びなかったのに、急にどうしたの?」
「いやー、ちょっと髪の毛の寝癖が気になるし、眠たい顔を起こそうと思って」
「ふふっ、あんた、中学生の時は寝癖ぼさぼさで出かけてたくせに。おしゃれに気を使えるようになったのね〜」
僕は思わず顔が熱くなった。
「うるさいよ。じゃあ、そういうことで」
そそくさと浴室へ向かう。
パジャマを脱ぎ、ドアを開けて蛇口をひねる。
シャァァァ——。
勢いよく出てきた水を顔にかけた瞬間、思わず声が出た。
「冷たっ!」
しまった、水の蛇口をひねっていた。
慌ててお湯の方に切り替えると、浴室に湯気がもくもくと立ち込めていく。
肌にお湯が流れるのが気持ちいい。僕は体を洗いながら思った。
「はぁ……入学式、楽しみだなー」
白く煙る空間の中で、僕の声はふわりと溶けていった。
鏡の向こうに映る自分の顔は、まだ少し眠たげで、どこか頼りない。
でも、昨日までとは違う。
制服がクローゼットにかかっているだけで、なんだか自分が少し大人になったような気がする。新しい教室、新しい友達、新しい日々。
まだ見ぬ誰かと、笑い合ったり、ぶつかったり、何かを共有したり——
そんな輝かしい青春を過ごす自分の未来が、湯気の向こうにぼんやりと浮かんでくる。
「俺、ちゃんとやれるかな……」
ふと、そんな不安が胸をよぎる。
大丈夫。きっと、何とかなる。そう思えるくらいには、僕はもう子どもじゃない。
湯の温かさがそれを包み込んでくれる。
シャワーの音が、静かに僕の背中を押してくれる。
そして今日という一日が、始まる。
シャワーを止め、タオルで体の水滴をふき取る。
ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
化粧水、乳液を塗り、髪をワックスで整える。
最近流行りのセンターパート風の髪型。個人的には、けっこう似合ってると思ってる。
自慢じゃないが、中学の時はサッカー部で、そこそこ名の知れた強豪チームに所属していた。
だから、体は引き締まってるし、ほどよく日焼けしてるし、スタイルも悪くない……はずだ。
そんな僕が、おしゃれに気を使い始めたら——
高校生活は薔薇色になるんじゃないか。
友達に囲まれて、部活で活躍して、女の子にモテて……なんて妄想にふけりながら、鏡を見つめてニヤニヤしていた。
そのとき、背後から視線を感じた。
「うわ……キモ」
そう吐き捨てて通り過ぎていったのは、二つ下の妹・渚だった。
「おい、渚。今日高校生になる兄に向かって“キモ”はないだろー」
渚は立ち止まり、振り返って一言。
「鏡に向かってニヤニヤ笑ってるやつ見て、他になんて言えばいいか分かんなかった」
……ぐうの音も出ない。
最近、反抗期なのか、僕への当たりが妙に強い気がする。
でもまあ、妹に冷たくされるくらいでへこたれてたら、薔薇色の高校生活なんて夢のまた夢だ。
僕は気を取り直して制服に手を伸ばした。
新品のシャツに袖を通し、鏡の前でネクタイを締める。
少し緊張しながらも、手の動きは意外とスムーズだった。
最後にブレザーを羽織ると、鏡の中に“高校生”が現れた。
「誰このイケメン……あ、僕でした」
思わず口に出してしまったその一言に、自分で吹き出しそうになる。
制服が思った以上に似合っていて、ちょっとテンションが上がってしまった。
渚が見ていたら、間違いなくドン引きされていただろう。
危ない危ない。あの冷たい視線を思い出して、背筋が少しだけ伸びる。
気を取り直して、制定鞄を準備する。
筆箱、ノート、学生証……必要そうなものを次々と放り込んでいく。
鞄の中身はまだ完璧じゃないけど、気分はすでに“高校生”だった。
制服に身を包んだ僕は、鞄を肩にかけてキッチンへ向かった。
母さんはまだ忙しそうに動いていて、トーストの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっている。
「お、いい感じじゃない。制服、似合ってるじゃん」
母さんが振り返って笑う。
その言葉に、ちょっとだけ胸を張って席に座った。
「ありがと。……なんか、いよいよって感じだよね」
「ほんとよ。あんたが高校生になるなんて、早いわねぇ」
テーブルには、トーストとスクランブルエッグ、そしてミルクの入ったグラス。
いつもよりちょっとだけ豪華な朝食に、母さんの気遣いを感じる。
「渚は?」
「もう出たわよ。あんたより早く支度終わってた」
……あいつ、僕が鏡の前でニヤニヤしてる間に、さっさと出て行ったらしい。
反抗期の妹は、今日もマイペースだ。
トーストをかじりながら、窓の外に目をやる。
春の光が差し込む街は、どこか浮き足立っているように見えた。
制服姿の学生たちが、ちらほらと歩いている。
みんな、今日から始まる新しい生活に、少しだけ緊張しているのかもしれない。
「いってきます」
食器を流しに置いて、玄関へ向かう。
母さんが後ろから声をかけてくる。
「気をつけてね。友達、たくさんできるといいね」
「うん、ありがとう。いってきます。」
靴を履いて、玄関のドアを開ける。
外の空気は、少しひんやりしていて、でも心地よい。
新しい靴の感触が、足元から“始まり”を伝えてくる。
通学路を歩きながら、僕は胸の奥が少しずつ高鳴っていくのを感じていた。
この道の先に、どんな出会いが待っているんだろう。
どんな仲間ができて、どんな日々が始まるんだろう。
そんなわくわくする自分を電車の窓から差し込む朝の光が、制服の袖を柔らかく照らしていた。車内には同じ制服を着た学生たちがちらほらと座っていて、互いに言葉を交わす者もいれば、静かにスマホを見つめる者もいる。僕は窓際に座り、流れる景色に目を向けた。
川沿いの桜並木が、まるで春の祝福のように咲き乱れている。
淡いピンクの花びらが風に舞い、川面にそっと落ちては流れていく。
その様子は、まるで新しい季節の始まりを告げる儀式のようだった。
駅に着き、改札を抜けると、同じ制服を着た学生たちが少しずつ増えていく。
誰もが少し緊張した面持ちで、それでもどこか誇らしげに胸を張って歩いている。
僕もその一人として、川沿いの道を歩き始めた。
道の両側には古い石垣が残っていて、ところどころに苔が生えている。
その静かな風景の中に、桜の花が鮮やかに映えていた。
歩くたびに、制服の裾が春風に揺れ、靴音が石畳に優しく響く。
やがて、遠くに見えてきたのは、重厚な門構えとレンガ造りの校舎。
学博社学園高等学校——戦前から続く、国内でも有数の歴史と品格を誇る学び舎。
門の上には、金色の校章が朝日に輝いていた。
門をくぐると、広々とした中庭が広がっていて、そこにも桜の木が並んでいる。
校舎の壁には蔦が絡まり、時の流れを静かに物語っていた。
その風景に、僕は思わず足を止めてしまう。
「ここが、僕の新しい日常になる場所なんだ」
胸の奥で、何かが静かに高鳴る。
この場所で、どんな出会いが待っているのだろう。
どんな言葉を交わし、どんな物語が始まるのだろう。
歴史ある学園の空気に包まれながら、僕は一歩、また一歩と校舎へと歩みを進めた。
その背中には、春の光と桜の風がそっと寄り添っていた。
講堂の扉をくぐった瞬間、僕は思わず足を止めた。
マホガニーの床が朝の光を受けて艶やかに輝き、天井にはコンサートホールのような巨大な
シャンデリアが吊るされている。
その光が、まるで祝福のように新入生たちの肩を照らしていた。
「……すごい」
小さく漏れた声は、誰にも聞かれず床に吸い込まれていった。
講堂の奥には、待機スペースとして長テーブルが並べられ、そこには焼き菓子や瓶入りのジュースが整然と並んでいる。
緊張をほぐすための配慮なのだろう。格式ある学園の品格と、細やかな心遣いが同居していた。僕は一人、端のテーブルに向かい、レモンケーキを手に取った。
口に運ぶと、ほのかな酸味と甘さが広がり、少しだけ肩の力が抜ける。
周囲では、すでに何人かが打ち解けて笑い合っていた。
「同じ制服を着ていても、話し方や雰囲気はそれぞれ違っていて、みんな自分より頭がよさそうだなー」と思いながら部屋を見まわしていたそのときだった。
講堂の奥の扉が静かに開き、一人の女子生徒が入ってきた。
彼女は、他の人と少し雰囲気が異なっていたので目についた。
黒髪は肩までの長さで、風に揺れるような柔らかさを持っている。
制服の着こなしは端正で、どこか古典的な美しさを漂わせていた。
そして何より、彼女の目——澄んだ水のような青い瞳が、空間の空気を一瞬で変えた。
莉緒は、気づけば彼女を目で追っていた。
彼女は迷うことなく、講堂の中央にあるテーブルへと向かい、静かにカップを手に取った。
その所作は、まるで舞台の上の演者のように洗練されていて、周囲のざわめきが少しずつ彼女に引き寄せられていくのがわかった。
「……あの、ここの席、空いてますか?」
声をかけられたのは、莉緒だった。
彼女が莉緒の隣の椅子を指して、少しだけ首を傾げている。
「え、あ……どうぞ」
言葉がうまく出てこない自分に驚きながら、莉緒は椅子を引いた。
彼女は軽く会釈して座り、カップを口元へ運ぶ。
「ありがとう。ねぇ君、もしかして……緊張してる?」
「はは、ちょっとだけしてるかな。」
僕はぎこちない笑顔で返事した。彼女はそんな僕をじっと見つめていた。
「ふふ、私も。こういう知らない人がたくさんいる場所って慣れないのよね。」
彼女の声は、どこか落ち着いていて、でも柔らかかった。
まるで春の風が言葉になったような、そんな響きだった。
「ねぇ名前、聞いてもいい?」
「うん。僕は坂下莉緒。よろしくね。君は?」
「澪。水城澪。“水の城”って書くの。ちょっと変わってるでしょ」
「……すごく綺麗な名前だと思う」
言った瞬間、莉緒は自分の言葉に少し照れた。
でも澪は、ふっと微笑んで「ありがとう」と言った。
その笑顔に、莉緒の胸の奥で何かが静かに動いた。
それは、まだ名前のない感情だったけれど、確かにそこにあった。
講堂の奥から、入学式の開始を告げるアナウンスが流れる。
澪は立ち上がり、莉緒に向かって手を差し出した。
「行こう、莉緒くん。新しい学校生活の始まりだよ」
この出会いは、きっと偶然なんかじゃない。
桜が咲き乱れる春の日に、歴史ある学園の講堂で出会った澪——
その手を取った瞬間から彼女との物語が、今、静かに始まったのだ。




