私の最悪な人生
まず初めに――。
この物語が真実なのか、それとも虚構なのか。
今、読んでる読者の皆様にお任せします。
今の私は、絶望の淵に立たされている。
怒りも、憎しみも、悲しみすらも、気付けば薄い霧となって消え失せ、胸の内には乾いた空洞だけが残っている。
ひとつだけ、確かな願いがあった。――この人生に、静かに幕を下ろしたい。それだけだった。
雨が降りしきる夜の河川敷。
黒く深い水面が、私の足元から視線を奪い、得体の知れない恐怖で心を締め付ける。
死ぬことは、怖い。
その感情だけは、どれほど追い詰められても消えることはなかった。
だが、それでも。
すべてを失った私には、選べる道がもう残されていなかった。
光に満ちた日常が、ある一瞬で暗闇に呑み込まれたとき、人は時に取り返しのつかない選択をしてしまうものだ。
滝のように叩きつける雨が、まるで私の胸中に渦巻く恐怖を洗い流そうとしているかのようだった。
ひとつ、またひとつと、足を前へ。
ゆっくり、ゆっくりと川の方へ近づいていく。
この水の中へ飛び込めば、楽になれるのだろうか。
それとも、想像もできない苦しみが待っているのだろうか――いや、そもそも“想像できるはずもない”のかもしれない。
私は瞼を閉じ、雨音に身を委ねながら、一歩一歩と死へ向かって踏み出す。目を閉じるたび、脳裏にはあの日の光景がよみがえる。
あの日――。
私は、すべてを失った。
――――
―――
――
二年前。
私が二十五歳を迎えた頃の話だ。
あの頃の私は、今とは比べものにならないほど、未来を信じていた。
そして、人生の大部分を照らしてくれる存在がいた。
仮に、彼女を “A子” と呼ぶことにしよう。
A子は、私にとってあまりに出来すぎた女性だった。
穏やかで、思いやりがあり、誰にでも礼儀正しく、笑えば頬が柔らかくゆるむ――そんな女性だった。少し首をかしげて笑う癖があって、その仕草ひとつで、どれほど疲れていようと胸の奥が温かくなった。
今思い返しても、彼女の存在は奇跡のように思える。
というのも、それ以前の私は、いわゆる“女性運”というものに全く恵まれていなかった。
過去に付き合った一人は、気付けばギャンブルに溺れて借金を作り、最終的には私まで巻き込もうとした。
もう一人は、浮気を平然と繰り返し、咎めても悪びれないどころか、まるで当然のような顔で裏切りを積み重ねていった。
その後も
浮気されたり、浮気されたり――と
よくある話なのだが、私の場合はやたらとそれが多い気がした。
そうした経験の積み重ねは、私の中でひとつの結論を形作った。
――結局、みんな同じなのだ。
女性そのものに対して嫌悪感すら抱き、心のどこかで“もう誰も信じない”と決めつけていた。
恋愛は消耗でしかない。
幸せは幻のように消え、残るのは疲労と失望だけだと。
だからこそ、私は静かに誓ったのだ。
「次に誰かと付き合うときは、ちゃんと見極めよう。軽い感情ではなく、将来を考えられる人を選ぼう」と。
そして――。
そんな私の前に現れたのが、A子だった。
当時の私は会社員として働きながら、生活を支えるために副業としてアルバイトを掛け持ちしていた。新車を購入したばかりで、毎月のローンが思いのほか重くのしかかっていたのだ。
月に一度か二度だけのシフト。
それでも、そのわずかな収入が家計の助けになっていた。
A子と初めて出会ったのは、そのアルバイト先だった。最初のうちは、お互いに興味も関心もなかったと思う。
ただの同僚。
数ある顔のひとつ、そんな程度の印象しかなかった。
しかし、人の縁というものは、時として些細なきっかけで姿を変える。
ある日、私は本職の都合で急にアルバイトへ出られなくなってしまった。シフトに穴を空けるなど本来許されない。困り果てた私は、半ば藁にもすがる思いでA子に代わりを頼んだ。
彼女は少し驚いた顔をしたが、最終的には静かに頷いてくれた。
後日、お礼を伝えたとき、私は照れ隠しのように言った。
「今度、ご飯、奢るから……」
恥ずかしいほど、どこにでも転がっていそうなありきたりの誘い。だが、不思議なもので、その言葉にA子はふっと柔らかく笑って、「うん」と小さく返事をした。
そして約束の食事の日。
私たちは、他愛もない話ばかりしていた。
仕事の愚痴、好きな音楽、休日の過ごし方。
いつもならすぐに疲れてしまう会話が、その日だけは妙に心地よかった。
気がつけば、私は久しぶりに“誰かと一緒にいること”を悪くないと感じていた。
あの日の心地よさが本物なのか――。
確かめるように、私はA子と何度も食事へ行き、ときには映画を観に行き、休日に少し遠くまで足を伸ばして散歩をした。
気付けば、彼女と過ごす時間が当たり前になりつつあった。
そして、驚くほど自然に私たちは付き合い始めた。
まるで流れる水が行き着く先を選ぶように、ごく自然な流れだった。
交際を始めてから、そう日も経たない頃だ。
A子は少し緊張した面持ちで、唐突にこう言った。
「……私の家族に、会ってほしいの」
意外だった。
驚きが先に立ったが、その裏には確かに嬉しさもあった。
これほど真正面から向き合ってくれる人など、今まで誰ひとりいなかったのだから。
胸の奥がじんわりと熱くなったことを覚えている。
後日、私はA子に招かれて彼女の家を訪れた。
白い壁に黒い瓦の、落ち着いた住宅。
小さな庭には手入れの行き届いた植木と、小型犬が尻尾を振って走り回っていた。
家の中は静かで温かい家庭の匂いがした。
A子の父は、定年退職を間近に控えた穏やかな男性だった。
初対面だというのに距離の詰め方が上手く、気さくで、すぐに私は彼と庭先で一緒にタバコを吸う仲になった。
吸い殻を灰皿に落とすと、父はニッと笑って「気楽にいけ」と肩を叩いてくれた。
一方――。
初めて会ったA子の母が私に向けてきた視線には、どこか言葉にしづらい違和感があった。
敵意ではない。
警戒でもない。
ただ、冷たいのか温かいのか判断がつかない、曖昧で濁ったものが潜んでいるようだった。
しかし、そのときの私は深く考えようとしなかった。
この家での時間が、A子と過ごす日々が、何より心地よかったからだ。
A子の両親に挨拶を済ませて数日後、今度は母方の親戚に会いに行った。
元々、A子の自宅からも私の家かまで車で二時間ほど離れていた。だからこそ、必然的に私の家からはA子の親戚の家まで二時間かかる事になる。
正直、距離だけ見れば気の重い行程だった。
だが――愛する人のためだと思うと、不思議とアクセルを踏む足には迷いがなかった。むしろ、A子が私を「家族の輪」に招こうとしてくれることが嬉しかった。
目的地の家は、昔ながらの造りの大きな平屋で、庭には季節外れの花がいくつか咲いていた。
玄関を開けると、懐かしいような、少し湿った畳の匂いが漂ってくる。
A子とその親戚は、見たところとても仲がいいように見えた。
しかし――。
その親戚が放った言葉は、まるで私の期待を裏切るかのように鋭く、冷たかった。
「あの人は、めんどくさいところがあるからなぁ」
「そうそう、強情だし……あんたも苦労するかもしれんよ?」
その口ぶりは冗談めいていたが、言葉に含まれる棘は隠しきれていなかった。
初めて訪れた家で、しかも私の目の前で、平然と悪口に似た言葉を並べる光景に、私は驚きを隠せなかった。
私は苦笑いを浮かべることしか出来ず、その場に座っていた。
居心地の悪い空気が、部屋の隅に淀んでいるようだった。
――どうして、こんな場所で彼女の父を貶すようなことを言えるのだろう。
その場にいた誰もが悪気を感じていないかのような態度に、私は薄ら寒い違和感を覚えた。
その家庭に対する印象は良いものではなかった。
この小さな違和感こそ後に訪れる“あの日”に繋がっていたのかもしれない。
――私は不意に我に返った。
目の前に広がる川。
水面に反射した私の顔は、どことなく生気を失っている。
一歩、また一歩と歩みを進めていく。
川の音が不思議と心地良い気もした。
私は――
自分の人生に後悔しながら、覚悟を決めるように、その一歩を踏み込んだ。
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