第6話 交渉成立
翌朝、わたしは執事に案内されて、オルランド邸の食堂に向かった。リーヴァリートさまから「一緒に朝食でもいかがですか?」とお誘いを受けたのだ。
おそらく、プロポーズの返事を聞かれるだろう。ちょうどよかった。
広々とした食堂に入ると、すでにリーヴァリートさまが長テーブルの短辺の前に座っていた。わたしは誘導され、その右斜め向かいに座る。朝の光に照らされた彼の髪は、きれいなシャンパンブロンドだった。
料理を待っている間、注がれた薬酒にも口をつけず、リーヴァリートさまが重々しく口を開いた。
「……昨日の話、考えていただけましたか?」
「はい」
「お返事を聞かせていただいても?」
「わたしは、契約結婚のお話をお受けしたいと思っております」
そう、リーヴァリートさまに助けてもらった恩返しをするためにも、彼のことを知っていくためにも、これが今わたしにできる最善の答えなのだと思う。
リーヴァリートさまはエメラルドグリーンの瞳を輝かせた。
「ありがとうございます!」
こんなに喜んでくれるとは思わなかった。わたしは自分の選択にちょっぴり自信を持つ。そのあとで、ぴっと人差し指を立てる。
「ですが、一つだけ条件がございます」
「なんでしょう?」
「わたしに家事をする自由を下さい」
リーヴァリートさまはものすごく微妙な顔をした。うん、予想はしていた。彼は困ったように問う。
「……どうしてもですか?」
「はい、どうしてもです!」
アルマンドさまのアドバイスどおりに、押し通す構えを見せる。
三十秒くらい経過しただろうか。リーヴァリートさまがつぶやくように言った。
「……仕方ありませんね。そういう奥方が、ヴァルツィモア中に一人くらいいてもいいでしょう」
「奥方」と聞いて、無性に恥ずかしくなる。そうだよね。これからわたしたち、形だけでも「婚約者同士」になるんだ。
朝食が運ばれてくる。パンとチーズ、干した果物、ナッツなどだ。軽食だけど、わたしが今まで食べていたまかない料理より、すごく質のいい食材を使っていることがわかる。
感動して柔らかいパンを食べていると、わたしの様子をほほえんで見ていたリーヴァリートさまが、チーズをつまみながら言った。
「朝食を終えたら、二種類の結婚契約書を作成しましょう」
ずっとメイドをやっていたからよく知らないけど、結婚契約書は貴族が正式な婚約を結ぶときに作成されると聞いている。
なるほど。両親による両家の交渉をすっ飛ばしているから、爆速で結婚契約書を作成するのね。
あれ? そういえば、持参金はどうするんだろう。所定の持参金が用意できなかった場合、結婚が破談になることさえあるから、貴族の結婚に一番必要なもののはずだ。けど、わたしに都合のいい婿をあてがうつもりの、あのドミッティラが出してくれるはずもないし。
しかも、さっき二種類って言った? どういうことだろう。
わたしは混乱する頭を整理して、質問をした。
「どうして二種類なのですか? それに、継母が持参金を出すとは思えません」
リーヴァリートさまは自信ありげに笑う。
「一通はわたしとあなたの間で交わされる契約書。もう一通は対外的なものです。あなたのご実家に突きつけるためのね。それに持参金はいりません」
「え!? それで構わないのですか……?」
「金には困っておりませんから。そして、持参金を必要としていないことを、ご実家との交渉材料にします」
鋭い笑みを浮かべながら、リーヴァリートさまは交渉の内容について説明を始めた。
***
その日、わたしはリーヴァリートさまと、彼の叔父にして後見人であるアルマンドさまとともに、生まれ育ったラヴィトラーノ邸に入った。正確にはお二人の従者たちも一緒だし、三名の証人、それに公証人も付き添っている。
今のわたしはメイド服ではなく、マント状のコートを羽織り、その下にはスクエアネックのガウンを着ている。十六世紀ごろのヨーロッパ女性が着ていた、袖が付け替えられるドレスだ。袖口と裾には絹の房飾りが揺れ、どこからどう見ても貴族令嬢だ。
この外出着は、超特急でリーヴァリートさまが仕立ててくれた。彼の商会では婦人服も扱っているらしく、有能な仕立て屋を雇っているのだ。
もちろん、今回のラヴィトラーノ家への一時帰宅は、電撃的なものではない。
あらかじめ、わたしたちの訪問の知らせを受けていた当主代理のドミッティラは、玄関ホールにて硬い表情でこちらを出迎えた。わたしと目が合ったとたん、ギロリとこちらをにらみつける。
いつものことなので気にしない。ザイラはいないようだ。
家令のコスタンツォによって、わたしたちは応接室に案内される。廊下にはメイド長のベルタをはじめとしたメイド仲間たちが、固唾を呑んだ表情でこちらを見守っている。わたしは彼女たちに笑ってみせた。
応接室に通されたわたしたちは、それぞれ着席する。わたしは前もって決められていたとおり、リーヴァリートさまの隣に座った。……ちょっとこそばゆい。
リーヴァリートさまが口火を切る。
「事前にお伝えしましたとおり、本日はお宅のエメルネッタ嬢に関するお願い事があって参りました」
「エメルネッタが何か粗相を……?」
恐る恐る尋ねるドミッティラに、リーヴァリートさまは爽やかに笑う。
「とんでもない。今日伺ったのは他でもありません。エメルネッタ嬢とわたしの婚約を正式に調えるためです」
リーヴァリートさまが、従者から筒状の羊皮紙を受け取る。わたしたちの結婚契約書だ。彼は紙を広げ、公証人に渡した。
「そちらが、わたしとエメルネッタ嬢の結婚契約書です。結婚に必要なものはすべてこちらで用意し、持参金も必要ない旨が書かれています。今から読み上げますので、この内容でよろしいか、ご意見をお聞かせください」
公証人が結婚契約書の内容を読み上げ始める。
音読が終わったとき、ドミッティラは顔を引きつらせていた。
「た、確かに破格の条件ではございますが、了承はしかねます。大体、わたしはエメルネッタをメイドとして差し出したはずなのに、なぜ結婚という話になるのですか?」
「わたしが彼女を気に入ったからです」
リーヴァリートさまは、なんの迷いもなく答える。本心ではないことがわかっていても、ちょっと恥ずかしい。
ドミッティラは目を剥いた。
「気に入った!? この娘よりも、長女のザイラのほうが、よほどオルランド家の奥方にふさわしいですわ!」
リーヴァリートさまはフッと笑った。
「エメルネッタ嬢からご事情を聞いたときは驚きましたよ。本来ならばラヴィトラーノ家の相続権をお持ちであるはずのご令嬢が、メイドとして扱われていたのですから」
ドミッティラの表情が勢いをなくす。
リーヴァリートさまはここぞとばかりに畳みかける。
「エメルネッタ嬢はラヴィトラーノ家の血を引く、れっきとしたご令嬢です。しかも、容姿も性格も名家のご令嬢に引けを取らない。十二分にオルランド家の妻としてふさわしい。そうですよね? 叔父上」
「ああ、わたしも保証するよ」
アルマンドさまはにっこり笑った。
リーヴァリートさまは後見人の後押しもあって、この結婚を決めた。そのことを眼前にしたドミッティラは、ますます顔色が悪くなる。
それでも、自分の立場を守るためなのか、彼女はぽつりと口にした。
「……了承はできかねます。エメルネッタは婿を取って、この家で生きていくという亡夫との約束がございますから」
そんな約束、あったんだ? 確か父は、先妻との間に娘しか生まれず、後妻との間にも子を授からなかったことで、「せっかくヴァルツィモア貴族になれたのに……」と絶望しながら亡くなったはずだけど。
「そうですか……仕方ありませんね」
応えながら、リーヴァリートさまは従者に目配せする。従者が布張りの箱をドミッティラに向け、差し出した。
瞬きするドミッティラに、リーヴァリートさまは事もなげに言う。
「それを差し上げます。お確かめください」




