最終話 作り直した契約書
わたしとリヴァさまはゴンドラに乗り、オルランド邸に帰ってきた。ラヴィトラーノ邸の保守・点検は、しばらくコスタンツォとベルタにお願いする。そのうち、オルランド家の使用人が派遣されるだろう。
館に入るなり、門番が大声で一階にいる使用人たちを呼びに行った。
「みんなー! エメルネッタさまと旦那さまがお帰りになったぞー!!」
騒ぎを聞きつけ、二階以上にいた使用人たちも下りてくる。アルマンドさままでいる!
数日ぶりに会ったロミーナとクローエは、目に涙を浮かべていた。
すべてを知っているエルモも、安堵しきったような顔をしている。彼はここ数日の激務がたたってか、目の下にクマを作っている。
……もう少しの辛抱よ。もうしばらくしたら、優秀なコスタンツォが、きっとあなたの助けになってくれる。
リヴァさまは彼らの前に進み出て、説明を始めた。
わたしの身に降りかかろうとしていたこと。
それを防ぐためにケンカしたふりをして、わたしが出ていったこと。
本当は今までずっと二人で過ごして計画を練り、たった今、それを実行して成功させたこと。
クローエがあっけに取られたようにつぶやく。
「……ということは、わたくしたちは今まで、お二人の手のひらの上で踊らされていたということですか」
すかさず、リヴァさまが訂正する。
「クローエ、人聞きが悪いですよ。敵を欺くには、まず味方から、というでしょう。……まあ、これはほとんど、ラヴィトラーノ家に復讐したいという、わたしのわがままでしたが」
ロミーナがドン引きした顔をする。
「旦那さま、怖い……」
すかさず、エルモが反論する。
「旦那さまの生い立ちなら、そうお考えになっても仕方ありません」
「エルモはいい奴だなあ。ところでリヴァ、計画が成功したということは、エメルネッタさんに告白したんだろうな? 帰りのゴンドラで、二人っきりだったんだろう?」
アルマンドさまに話を振られ、リヴァさまは言葉に詰まった。
「……まだです」
だって、それはねえ? 一度機会を逃すと、なかなか勇気が出ないものなのだ。それに、告白しなくてもお互いの気持ちはわかっているし、何より婚約済みだし。
ところが、アルマンドさまの意見は違うようだ。呆れたようにリヴァさまを見る。
「まだ? 今まで機会はたくさんあったはずなのに、何をやっているんだ。俺はクラリッサに毎日『好きだ』と言っている。だからお前も見習え」
リヴァさまは反論せずにわたしの方を向いた。
え? え? ここで? みんなが見ているのに!?
あたふたしているわたしを前に、リヴァさまが形のいい唇を開いた。
「エメルさん、好きです。大好きです。わたしと生涯添い遂げてくれますか?」
リヴァさまのまっすぐな言葉はわたしの胸を打った。
告白されるって、こんなにいいものなんだ……。
みんなに見られている恥ずかしさも忘れ、喜びで胸がいっぱいになる。わたしはリヴァさまのエメラルドグリーンの瞳を見つめ、はっきりと答える。
「わたしもリヴァさまが大好きです! ぜひ、生涯あなたの妻でいたいです!」
周囲から拍手が湧いた。その音を聞きながら、わたしたちは互いに手を取り合い、見つめ合った。
***
ラヴィトラーノ家の始末をつけてから数日後。わたしとリヴァさまは三階の居間で隣り合って座り、契約結婚に関する条項を書き換えるため、結婚契約書の変更点を考えていた。
ちなみに、新たに書き直す結婚契約書も、出来上がりしだい公証人と証人立ち会いの下、サインする予定だ。
リヴァさまはアルマンドさまやエルモたちとともに、わたしが浮気したという噂や、婚約解消したらしいという噂はすべてドミッティラとザイラの仕業である、という嘘と真実が半々の話を社交界に流布させた。
そのうえで、わたしが高級宿に宿泊していたのは、ドミッティラの魔の手から逃れるためだった、という話も広めた。
こちらは目撃者が多いだろう、とあらかじめ見込んでいたので、当初からこの言い訳をする予定だったのだそうだ。社交界の人たちもなんの疑いもなく、これらの話を信じてしまったらしい。
リヴァさまの手抜かりのなさには、心底驚いてしまう。敵には回したくないタイプというやつだ。
ドミッティラとザイラがわたしにしてきたことや、なおも利用しようとしたことも社交界に流布され、彼女たちが戻ってこられる素地は完全になくなった。
だから、わたしも心から安心して結婚契約書の変更点を考えられる。
「『夫婦の寝室は別』――これは書き換えましょう。本当の夫婦は寝室を共にするものです」
わたしは頬を熱くさせながら応えた。
「異存はありませんけど、わざわざ書く必要がありますか?」
「あります。子どもが出来たら、いつの間にか夫婦の寝室が別になっていたという話を聞いたことがありますから。そうだ、子どもといえば、養子をもらうという条項も書き換えなければ。自然に子どもが出来なかった場合を除き、後継者はわたしとあなたの間に生まれた子であるべきです」
「な、なんだか生々しい契約書になりそうですね。本当に公証人と証人に見せるのですか? しかもこれ、公証人が読み上げますよね?」
リヴァさまはニコッと笑う。
「エメルさんは結婚式でも恥ずかしがるつもりですか? そんなあなたも可愛いですが」
みんなの前で告白し合ってから、リヴァさまは慎み深くなくなった。執事が給仕している食事中でも甘いセリフを吐き、わたしを悶絶させそうになる。
たぶん、理性という名のリミッターが外れたんだろう。わたしの感覚はといえば、以前と同じなので大いに困っている。
わたしがとっさには答えられずにいると、リヴァさまは続ける。
「子どもは二人以上欲しいですね。長男はオルランド家と商会を継がなければなりませんし、次男は陸上領土のラヴィトラーノ家を継がなければなりません」
そう、ドミッティラがラヴィトラーノ家の当主代理としての資格も実権も剥奪されたので、陸上領土のラヴィトラーノ家所領の管理権は、当主代理としてわたしが正式に継ぐことになった。目下、コスタンツォに書類を集めてもらいつつ、その手続きを進めているところだ。
二人男の子が生まれるかどうかはわからないけど、陸上領土のラヴィトラーノ領はわたしが産んだ男子が継ぐことになるだろう。
わたしは男子ではないので、ヴァルツィモア貴族としてのラヴィトラーノ家は継げない。ただ、財産を継ぐ権利はあるから、それを我が子に伝えていくことになるだろう。
祖父の代から続いたヴァルツィモア貴族としてのラヴィトラーノ家は、わずか二代で終わった。
寂しくないか? と聞かれたら、少し寂しいとは思う。でも、どんなことにも終わりはある。この国だって、永遠には残らないかもしれない。それでも、次の世代に何かを残そうとするのが、人という生き物なのだ。
「……リヴァさまとの子ども。楽しみです」
思わず、そんな言葉が出た。
リヴァさまは目をみはり、それからほほえむ。
「わたしも楽しみですよ。その過程も含めて、ね」
うわわわわ。恥ずかしすぎる!
わたしが真っ赤になっていると、リヴァさまはくすりと笑い、元の契約書に視線を移した。
「『養子が二十五歳になったあとは、お互いの合意に基づき、離婚できるものとする』。これも削除ですね。わたしは離婚する気はありませんから」
離婚というのは夫婦の権利のはずなんだけど……まあ、いいか。たぶん、わたしたちには必要ないものだと思うから。
「わたしもそれでいいと思います」
「ありがとうございます。『結婚式は、夫・リーヴァリートが議席を持つことになる二十五歳を待って挙げるものとする』。これもひどい条項ですね。削除しましょう。わたしは今すぐにでも、エメルさんと結婚したいのです」
「ええ!? 今すぐ!?」
思考するより早く、言葉が口から漏れた。
「実は結婚式の準備を進めさせています」
あまりにも自信満々に断言するリヴァさまの姿におののきつつ、わたしは女性にとって一番の懸念事項を尋ねる。
「……でも、さすがにドレスの準備は……」
「もちろん進めさせていますよ。以前、エメルさんの服を仕立てたときに採寸は済ませていますし、そろそろ仮縫いに入るころでしょう」
「えええ? 用意周到すぎます……」
「嫌ですか?」
わたしはふるふると首を横に振る。
「嫌……ではありません。リヴァさまなら、わたしに似合うドレスのデザインも、わたし以上に知っているでしょうし」
ただ、この先がちょっぴり不安だ。そう、彼の重い愛と溺愛に耐えられるかどうかが。
そのことを伝えていいものか迷っていると、リヴァさまが不意に言った。
「……エメルさん、キスしてもいいですか?」
再びわたしの顔が熱くなる。
わたしたちはまだキスをしたことがない。というか、わたし、前世でも現世でもキスなんかしたことないんですけど!
リヴァさまがとろけそうな声で続ける。
「告白してから、ずっと機会をうかがっていたのです。今は二人きりですし、直す条項も決まりましたし……いいですよね?」
リヴァさまのエメラルドグリーンの瞳は優しいのに、どこか妖艶だ。
わたしはドキドキしながらうなずくと、まぶたを閉じた。
彼の手が頬に触れる。
そのあとに落ちてきた唇は、柔らかくて、花みたいにかすかないい匂いがした。
今はこの幸せを噛み締めよう。
家事以外に大好きなものがなかったわたしが、ようやく見つけた大切な相手。それがリヴァさまだから。
唇を離すと、リヴァさまと目が合った。彼は一瞬だけはにかんだような顔をしたあと、こう聞いた。
「もう一度、お願いできますか?」
「もちろんです」
そうわたしは答え、もう一度、目を閉じた。
――完――
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
「面白かった」「エメルとリヴァが幸せそうでよかった」と思ってくださったら、ブックマークやページ下部の☆☆☆☆☆で応援していただけると大変励みになります。
それでは、またお会いできることを祈って。




