第40話 久しぶりに一人になって
リヴァさまと話し合った翌日、朝食を済ませたわたしは一人で外出着に着替えた。カバンに着替えと小物、基礎化粧品を入れ、現金はポシェットに入れて寝室を出る。
廊下で会ったロミーナがぎょっとした顔をする。
「エメルネッタさま、どうなさったのですか!?」
「しばらく家を出ることにしたの」
言い訳はいろいろ考えていたのだが、その答えに想像を膨らませたらしいロミーナは、大いに慌てる。
「そ、そんなあ!」
ロミーナが走り出してしまったので、わたしは階段を下りていく。目指すは水辺玄関。漕ぎ手はすでに外で待っているはずだ。
わたしが一階にたどり着くと、ロミーナをはじめとした、ほとんどの使用人たちが一階ホールに集っていた。
「エメルネッタさま! 行かないでください!」
ロミーナがそう叫んだのを皮切りに、皆口々に「出ていく必要なんてございません!」「旦那さまに直談判します!」と訴える。いつもは落ち着いているメイド長のクローエまで、必死の表情をしていて胸が痛んだ。
「みんな、ありがとう。でも、しばらく頭を冷やしたいの」
わたしはそう言って、水辺玄関への階段を下りようとした。そのときだ。悲しげな動物の声が聞こえたのは。
振り返ると、エスターテとプリマヴェーラがそこにいた。二人はそっくりな金色の瞳で、じっとこちらを見つめている。
「ありがとう、見送りに来てくれたの?」
エスターテがこちらに大きな身体を押しつけてきた。わたしの足に、たてがみの生え始めた頭を擦りつける。
まるで、「行かないで」と言っているみたいに。
わたしはしゃがみ込み、エスターテの頬をなでながら耳元でささやいた。
「エスターテ……ごめんね。すぐに帰ってくるから」
一瞬、エスターテがぴくりと動きを止める。
わたしが立ち上がると、いつの間にか一階ホールに現れたエルモがお辞儀をしてくれた。
「エメルネッタさま、お気をつけて」
エルモはこの数日間、上からと下からの板挟みで、特に苦労することだろう。
わたしは彼に目でうなずいてみせると、石段を下りて水辺玄関に立つ。ロミーナが何か声をかけてくれたが、わたしは渋る門番に頼み込んで扉を開けてもらい、ゴンドラに乗った。
***
わたしは市内の高級宿に泊まるため、大運河から入れる正面玄関の船着き場で、ゴンドラから降ろしてもらった。船着き場は貴族の館のように階段状になっていて、宿の構造も貴族階級の邸宅を模したもののようだ。
この宿は【獅子の広場】にあるので、地上からの入口もあるのだが、あえて目立つように正面玄関から入ったのだ。
わたしはまだ、社交界でそれほど顔は知られていない。でも、黒塗りにされたゴンドラのキャビン側面には、オルランド家の紋章である一対の翼が描かれている。そのうえ船首像は、【八頭の獅子】にしか許されていない獅子をかたどったものだ。わたしが誰であるかは、ヴァルツィモア人なら誰でも推測がつく。
これで、ドミッティラを誤解させられれば……。
リヴァさまの話によると、ラヴィトラーノ家の使用人は大半が辞めてしまったそうだから、おそらくドミッティラは興信所のようなところに依頼して、わたしに関する情報を集めているだろう。
社交界全体に「オルランド家当主の婚約者が家出したらしい」という情報が出回れば、あとで事態を収集するのが大変そうだ。それでも、リヴァさまと二人で決めたことだ。やり遂げるしかない。
水辺玄関で待機していた宿の係員が、荷物を持ってくれる。
予想どおり、オルランド家のゴンドラから降りたわたしが石造りの階段を上り、宿のロビーに入ると、他の宿泊客の視線が集中する。
受付で、期間は決まっていないが、数日は泊まりたい旨を伝え、ポシェットから取り出したそれなりの額の前金を払うと、どよめきが起こる。
貴族令嬢が自分でお金を払うのも珍しいし、額が額だからだろう。
恭しく案内された客室は二階にあり、大運河を見下ろせるバルコニーがあった。高級宿なだけあって、なかなかいい部屋だ。
……って、オルランド邸で暮らしたせいで、わたしも贅沢になったなあ。
従業員が去ったあと、テーブルを挟んで向かい合わせに置いてある椅子に座り、肩の力を抜く。
……こうして完全に一人になるなんて、いつぶりだろう。
もちろん、ベルを鳴らせば従業員が来てくれるわけだけど、気心の知れた使用人たちではない。エスターテもプリマヴェーラも、他の動物たちもいない。
そして、何よりリヴァさまがいない。
リヴァさまは忙しい方だ。でも、わたしと婚約してしばらくたつと、家に仕事を持ち帰ってでも帰宅を早めてくれた。
共働きだった前世の両親も、代わる代わるでも、できるだけ定時に上がれるように、心を配ってくれていた。
それでも……子ども心にわたしは寂しかった。お父さんとお母さんに早く帰ってきてほしかった。
学校が終わって帰宅する。家の鍵を開けても誰もいない。せめて動物を飼えたらよかったんだけど、わたしと同じような寂しい思いを、その子にさせたくなかった。
だから、わたしは家事を頑張った。家事をしている間は寂しさを忘れられたし、何より「ありがとう。頑張ったね」と帰ってきた両親に褒められるのがうれしかった。
そのうち、一人でいる寂しさも悲しさも鈍くしか感じられなくなって……わたしは進路まで家事を選んだ。
現世でお母さまを失って、すべてを奪われて……そんなときに前世の記憶を取り戻したわたしは、また家事に打ち込んだ。だって、それでしか寂しさと悲しさを埋められないことを知っていたから。
そうしてわたしは、寂しさも悲しさも感じなくなっていったんだ。
でも、今はこうして寂しさと悲しさを感じられる。
オルランド家での楽しい思い出がわたしを癒やしてくれたから。
そして、リヴァさまのことを好きになったから。
リヴァさまはわたしと育った境遇が似ていて、なのに、わたしよりも大変な目に遭っていて。女性不信だったのに、いつも紳士的に振る舞ってくれて。
真面目で誠実なうえ優しくて、思いやりがあって。何をおいても、対話を大切にしてくれていて。
何より、こんなに抜けたところのあるわたしを、たぶん好きになってくれて。
リヴァさまが大好き。彼の白い月のような笑顔が大好き。
今のわたしにとって、オルランド家は大切な居場所だ。その居場所にまた戻れるのなら、これくらいの寂しさなんてどうってことない。
あと数日もすれば、リヴァさまが迎えに来てくれる。わたしから行動できないのはもどかしいけど、動かないほうがいい時期もある。
わたしはとりあえず香草茶で喉を潤そうと、従業員を呼ぶためのベルに手を伸ばした。
あ、手持ちの現金で付けを賄えるように、ちゃんと計算しておかないとね。




