第38話 ラヴィトラーノ家へ(リーヴァリート視点)
リーヴァリートはエメルネッタには「外出します」とだけ言って、ヴァルツィモア市内のラヴィトラーノ邸に赴いた。相手が準備することは承知の上で、アポイントメントを取ってある。
ゴンドラのキャビンから出て、三階建ての館を見上げる。この家でエメルネッタが生まれ育ったというのに、全く温かい感情が湧いてこない。
館に通されると、二階の玄関ホールでドミッティラとザイラが出迎えた。
「リーヴァリート卿、よくぞお越しくださいました」
淑女の礼をしつつ、彼女たちはにこやかにしている。敵の精神的な余裕を感じ、リーヴァリートは不愉快な気持ちになった。
(先手を取ったことで、いい気になっているのか?)
こちらも答礼し、家令に案内されながら廊下を歩く。報告どおり、使用人の姿を見かけない。使用人不足だというのは本当のようだ。
応接室に通されたリーヴァリートは、ドミッティラに席を勧められて腰掛けた。ザイラは同席しないようだ。
リーヴァリートが口火を切るより先に、ドミッティラがしおらしい顔で唇を開く。
「リーヴァリート卿御自らがお越しくださり、大変助かりました。社交界で流れている、エメルネッタについての悪い噂はご存知ですか?」
「多少は。今回訪問したのは、その真偽を確かめるためです」
背景を調査済みだということは黙っておく。
ドミッティラは悲しげな顔をした。
「さようでございましたか……実は、あの噂は事実無根ではございません」
「ほう?」
嘘つき女め。リーヴァリートがそう思った瞬間、ドミッティラはとんでもないことを口にした。
「実は、エメルネッタには将来を誓い合った幼なじみがいるのです」
「……は?」
理解し難いという思いが、声になって出てしまった。ドミッティラが口角を上げたのがわかる。
「名前はトーニオ・ディ・マッテオ。とてもいい青年なのですが、エメルネッタがあなたさまに見初められたせいで、二人は引き裂かれてしまいました」
ドミッティラは切々と訴える。
「今からでも婚約を取りやめにできませんか。代わりにザイラを婚約者に……」
不快な思いと動揺が、とぐろのように脳内を渦巻いていた。
ザイラと結婚などとんでもない。エメルネッタを虐待していた女など、顔を合わせるのも嫌だ。
(そもそも、そんな相手がいるなら、エメルさんが言わないはずがない)
今振り返っても、エメルネッタは婚約して間もないうちから、こちらに好意を寄せてくれていたように思う。心に秘めた相手がいながら、そんな態度がとれるものだろうか。
(いや、他の女性には可能でも、エメルさんにはできない)
彼女はそれだけ素直なうえ誠実で、嘘をつけない人だから。
「トーニオとお会いになりますか?」
ドミッティラが再び揺さぶりをかけてきた。
絶対に嘘だ。そう思っていても、むくむくと好奇心が湧いてくる。
偽物であっても、エメルネッタが将来を誓い合った相手とは、どんな男性なのだろう。
心が揺れに揺れたリーヴァリートは決断した。
(いっそ会ってしまおう。そのほうがすっきりする。それに、偽物の正体をその場で暴けば、ドミッティラがエメルさんを利用しようとしていた動かぬ証拠になる)
エメルネッタへの罪悪感を抱きながら、リーヴァリートはドミッティラに答えた。
「……お願いいたします」
ドミッティラは勝ち誇ったような顔で家令を呼びつけ、彼にトーニオという青年を連れてくるように命じた。
やがて、応接室に一人の青年が現れた。いかにも庶民といった感じのパッとしない容姿の若者で、歳は二十歳くらいだ。とてもエメルネッタとは釣り合わない。エメルネッタはたとえ古びたメイド服に身を包んでいても、美しく愛らしく見えた。
もちろん、人は容姿では判断できないことは、商人であるリーヴァリートはよく知っている。だが、この青年は内面に優れたものを持っているようには思えなかった。
リーヴァリートとドミッティラに席を勧められ、トーニオは申し訳なさそうに、ドミッティラの隣に座った。
「あの、あなたがエメルネッタの婚約者でいらっしゃいますか?」
他の男がエメルネッタを呼び捨てにすると、ひどく不快だ。リーヴァリートだって、彼女を呼び捨てにすることはめったにないのに。
「……家族でもない女性を呼び捨てにするのは、感心しませんね」
リーヴァリートが真顔で指摘すると、トーニオはおびえたように肩を震わせた。
「も、申し訳ございません! そうですよね、彼女は今や、オルランド家ご当主の婚約者ですものね。三年前、わたしと将来を誓い合ったときとは違う……わかってはいるのですが」
芸が細かい。きちんと設定を考えて、この場に臨んだようだ。
リーヴァリートは冷静に尋ねた。
「エメルネッタとは何年前に知り合ったのですか?」
「八年前です。お屋敷に父が業者として出入りしていて、わたしもそれを手伝っていた縁で出会いました」
「なるほど。そのころエメルネッタはメイドをしていましたからね。継母に虐待されていて」
わざと強い言葉を投げると、トーニオは曖昧に笑った。偽の元婚約者としての雇い主である、ドミッティラを批判するわけにはいかないからだろう。
腹が立つことにトーニオの笑いがへらへらとしたものに変わった。
「……ですが、彼女は貴族令嬢なのに家事が好きな変わり者でしたから、仕事を楽しんでいましたよ」
リーヴァリートは確信した。目の前の男はエメルネッタの元婚約者どころか、知人ですらない。
たまに、エメルネッタは楽しそうにメイド時代のことを話してくれる。その話からは、エメルネッタがメイド仲間や使用人たちと信頼関係を築いていたことがよくわかった。
オルランド家の一員となったエメルネッタが、ロミーナや他の使用人たちから慕われているのがその証拠だ。
だからこそ、メイド時代のエメルネッタを知る者なら、彼女の働きぶりをちゃかすようなことは言わないはずだ。
(しかも、元婚約者役に庶民の男を用意するとは。貴族の中から条件に合った男性を見つけるのが難しかったにせよ、どこまでもエメルさんをバカにしている)
別にリーヴァリートだって、庶民を見下しているわけではない。ただ、エメルネッタは元々が陸上領土の貴族家系。古くからのヴァルツィモア貴族でなくても、由緒正しい血筋の女性だ。
彼女が背負っているものを根こそぎ愚弄されたようで、どうしようもなく腹が立つ。これはリーヴァリートがオルランド家の当主だからこそ、より強く感じることなのかもしれない。
リーヴァリートは貴族としての笑みを浮かべた。他者からは魅力的に見えるであろう、威厳のある笑み。
「わかりました。エメルネッタにはあなたのことを伝え、話し合ってみます。貴族の結婚は好き嫌いでは決まりませんが、人として、好き合っている者同士が結婚するほうが、神々の御心にもかなうでしょうから」
トーニオという偽名の男が安堵したような表情を浮かべ、ドミッティラの口元が緩んだ。
ザイラもそうだが、特にこの女は度し難い。エメルネッタを長年虐待しただけでなく、彼女を私利私欲のために利用しようとして。
リーヴァリートは作戦を変えることにした。先ほどまでは、偽の元婚約者の正体を暴き、ドミッティラに二度とエメルネッタには手出ししないように念書を書かせるつもりだった。
しかし、もうそんな甘っちょろい考えは捨てるべきなのだ。
(必ず後悔させてやる)
リーヴァリートは偽物に会っただけで、ラヴィトラーノ邸を辞することにした。再び玄関ホールで会ったザイラは、母親の表情に首尾よく事態が進んだと見たのか、何かを期待するような上目遣いでこちらを見つめてきた。
〝心の底から気色悪い〟とリーヴァリートは思ずにはいられなかった。
ラヴィトラーノ邸をゴンドラで後にしながら、リーヴァリートは思った。
(そう、好きな者同士で結婚するのが望ましいのだ)
だったら、自分とエメルネッタが結婚するのが一番なのだ、と。




