第3話 もしかして、ご当主?
わたしは目の前の男性をまじまじと見た。
この気品ならあり得る! おそらく彼は――
「どうしました?」
男性が首をかしげた。
き、聞けない。わたしの予想が当たっているとすると、恐れ多すぎて聞けない。
「いえ! お気になさらず!」
「そうですか? エスターテが懐くような人に会えてうれしいです。この子の母親――プリマヴェーラは、保護区でケガをしていたところを政府の管理官が保護したのです。本来は野生に戻すべきなのですが、エスターテを妊娠していたことで長く預かる必要があり……それなのに妊娠で気が立っていて人になかなか慣れなかったこともあり、知人の管理官がわたしを頼ってくれて、うちで面倒を見ることになったのです。……すみません、話し過ぎましたね」
「いいえ! そんなことはございません!」
「ありがとうございます」
いい方だなあ。わたしはなんだか恥ずかしくなり、エスターテに視線を向けた。
「どういたしまして! ということはプリマヴェーラさんは、お宅でエスターテ君を出産したのですね」
「ええ。そのせいか、エスターテは子どものように可愛くて。わたしはまだ独身ですが」
そう言って笑う男性の顔はとても優しかった。まるで神殿で見る、慈愛にあふれた女神さまの彫像みたい。男性をそんなふうにたとえるのは、失礼かもしれないけど。
最初は冷たそうに見えた。でも、この方は本当に優しい人なんだ。胸の奥が温かい。
「ああ、こんな所にいた!」
聞き覚えのある声に、わたしはビクッとした。温かかった胸が急に冷たくなる。
振り返ると、ドミッティラとザイラがすぐそばに立っていた。わたしは慌てて立ち上がる。
ザイラが吐き捨てるように言う。
「すぐに戻りなさいよ。引き立て役がいないと話にならないじゃない」
他人のいる場所で叱責されるのはさすがにこたえる。わたしはうなだれながら、ザイラに対して謝罪しようとした。
「身分の違いはあれど、そういう物言いをなさるのはいかがなものですか」
あの男性の声だった。わたしが聞いた優しい声とは違い、不愉快さを必死にこらえているような冷たい声。
ドミッティラが息を呑む音がした。
「まあまあまあ! ご当主ではいらっしゃいませんか! このたびは我が家のメイドがとんだ非礼を――」
「彼女は何一つ非礼なまねはしませんでしたよ。むしろ、わたしはあなた方の態度にこそ、許し難いものを感じています」
「そ、それは申し訳ございません」
ドミッティラはザイラとともに、そろえた両足の片方を引き、膝を軽く折って、やや上半身を傾けた。淑女の礼だ。
わたしは呆然と男性の方を見た。
やっぱり、この方がオルランド家のご当主だったんだ……。
顔を上げたザイラが猫なで声を出す。
「リーヴァリートさま、ぜひご挨拶をしたいと思っておりましたの。今日はあなたさまにお会いするために、こうして着飾ってまいりましたのよ」
ご当主――リーヴァリートさまは、ひどく冷たい顔でそんなザイラを見つめている。彼の心はぴくりとも動いていない。
「おーい、リヴァ! ご令嬢たちがお前に会いたがっているぞ!」
テラスの入り口から、別の男性の声がした。
リーヴァリートさまは表情を緩め、「仕方ありませんね」とつぶやく。それから、わたしに向けて真摯な瞳を向ける。
「何かありましたら、身分のことは気にせず、わたしに声をかけてください。それでは」
そう言い残して、リーヴァリートさまは大広間へと歩いていった。
動物好きなだけじゃない。あの方は、人を身分で差別しないんだ。貴族にもああいう方がいるという事実に、わたしの胸は再びじんわりと熱くなった。
お礼、言いたかったな……。
「な、何よ、あの態度。美しいわたしよりもエメルネッタのほうをひいきするなんて!」
リーヴァリートさまの姿が見えなくなったとたん、ザイラが喚き散らした。キッとこちらをにらみつける。
「エメルネッタ! 身体でも使って、あの方をたらしこんだの!? あんたの取り柄なんて、それくらいだものね!」
「ち、ちが――」
リーヴァリートさまは、そんな方じゃない。思わず反論しようとしたそのとき、足元で「ナァ」という声がした。
見ると、エスターテが小さな身体を踏ん張って、私の前に立っている。まるで、こちらをザイラから守るように。
どうしよう。リーヴァリートさまについていかなかったんだわ。
わたしがあたふたしていると、エスターテに気づいたザイラが、興味深そうにこちらに近づいてきた。
「まあ、有翼獅子の子どもじゃない。珍しいわね。ここで飼われてるのかしら。可愛い」
ザイラがエスターテに手を伸ばす。
そのとたん、全身の毛を逆立て尻尾を膨らませたエスターテが、翼をばたつかせながら「シャー!!」と彼女を威嚇した。
ザイラは不愉快そうに顔をしかめる。
「な、何よ。どいつもこいつも……わたしの思うように動きなさいよ!」
いったん怒り出したザイラは何をするかわからない。たとえ大切に保護されているこの国のシンボルといえど、踏みつけられない保証はない。
わたしはバッとしゃがみ込み、エスターテの身体を包み込むように抱き締めた。
「こ……の……!」
ザイラの激昂した声が聞こえ、わたしはぎゅっと目を閉じる。彼女の平手打ちが飛んでくるのが見なくともわかった。
だが、覚悟していたのに、いつまでたっても痛みは訪れない。
恐る恐る目を開くと、わたしの前に大きな背中があった。片膝を立て、防波堤となってわたしとエスターテを守ってくれているのは、まさしくリーヴァリートさまだった。
ザイラが慌てふためく。
「リ、リーヴァリートさま……」
そんな彼女には構わず、リーヴァリートさまはエスターテを抱き締めたままのわたしに、優しく声をかけてくれた。
「大丈夫ですか? わたしが来る前に殴られたりはしていませんか?」
「は、はい……大丈夫です」
リーヴァリートさまは安心したようにうなずくと、立ち上がった。
「先ほど、わたしの頬にあなたの手がかすりました。ヴァルツィモア貴族として、オルランド家の当主として、許し難い侮辱です。この責任は取っていただきますよ」
ドミッティラもザイラも完全に威圧されている。
「も、申し訳ございません……! 何とぞご容赦を! ほら、あなたもお謝りなさい、ザイラ!」
「申し訳ございません! リーヴァリートさまを殴ろうとしたわけではないのです!」
リーヴァリートさまは、少し間を置いて応えた。
「なに、そう難しいことではありませんよ。別に、賠償金を巻き上げようとは思っていませんし、我が家は金には困っておりませんから」
「で、では、何をすればよろしいのでしょう?」
ドミッティラの質問を受け、リーヴァリートさまはなぜかこちらを振り返る。
「こちらの女性を当家のメイドとして差し出しなさい。そうすれば、今回の件は不問にします」
え!? でも、引き続きメイドとして働けるみたいだし、使用人のみんなとは離れ離れになってしまうけど、それもアリ……なの……?
「そ、それは、さすがに……」
わたしに婿を取らせ、いつまでも当主代理の座に納まっていたいドミッティラは目を泳がせる。
リーヴァリートさまはそんな彼女に、さらに低めた声をかけた。
「では、あなた方を訴えます。二度と社交会には出られないでしょうね」
ドミッティラは顔面蒼白で何かを考えているようだったが、やがて、声を絞り出すように言った。
「……かしこまりました。そのメイドは差し上げます」
「え!? お母さま、いいの?」
ドミッティラはザイラの問いには答えず、黙って彼女の腕を引っ張り、大広間に戻っていった。
リーヴァリートさまは深くため息をつくと、こちらを振り返る。その表情は静かだった。
「驚かせてしまってすみません。あれは方便です」
「……え?」




