第2話 水の都のオルランド邸
準備を終えたドミッティラとザイラが、侍女たちを連れて一階ホールに現れたので、わたしは二人に従い、水辺玄関に出た。そして、門番に見送られ、我が家・ラヴィトラーノ家が所有するゴンドラに乗る。
なぜゴンドラなのかというと、ここヴァルツィモア共和国は無数の運河に仕切られた水の都だからだ。行ったことはないけど、前世の世界にあったヴェネツィアに近い。時代はたぶん、ルネサンスとかそのあたり。
世界史には詳しくないから、あくまでわたしの推測だ。
「エメルネッタ、あんたは外よ」
ザイラが意地悪く言いながら、ドミッティラや侍女たちとともに、キャビンに入っていく。
そう、ヴァルツィモアのゴンドラには、風雨や寒さを防ぐキャビンがついているのだ。入れるのは主や重用されている使用人だけ。もちろん、わたしはいつも外に出ている。今更、なんとも思わないけど。
ラヴィトラーノ邸に面した運河から、目抜き通りでもある大運河に出る。大運河に沿って建ち並ぶ、貴族の館の前をわたしたちの乗るゴンドラが通り過ぎていく。
夜の街を照らす、錬金術と魔道具技術によって作られた魔導街灯の光が、とてもきれいだ。
漕ぎ手によって大運河を進んだゴンドラは、一邸の大きな館の前に到着した。
ここがオルランド邸。歴史を感じさせるファサードが、重厚なお屋敷ね。
階段状になっている船着き場にゴンドラを停め、通常なら水辺玄関にいるはずの門番からチェックを受ける。運河が道路だとすれば、水辺玄関内はその出入り口に当たるから、普段は門番が館内に待機しているというわけだ。
でも、今日は夜会の日なので、いつもより来客が多いはず。門番も来客のチェックや到着したゴンドラの交通整理で忙しいのだろう。
水門を兼ねている扉を通り、水辺玄関からお邪魔する。出迎えてくれた館の従僕に案内され、石段を上って一階ホールに上がり、さらに大理石の階段を上って二階の玄関ホールに上がる。
基本的に、ヴァルツィモア貴族が所有する館の玄関ホールや大広間・応接室は、二階にある。
ヴァルツィモア本島は海に囲まれた潟の上に都市が造られているから、高潮に備える必要があるのよね。
それに、建物の構造上、広い空間が二階にしか確保できないという事情もある。さらに、運河を見下ろせる二階には意匠を凝らしたアーチ窓や彫刻が並ぶから、迎賓には最適だ。
「まあ、ドミッティラさま、それにザイラさま、ごきげんよう」
大広間に入るなり、ドミッティラの知り合いの貴夫人が声をかけてきた。当たり前だけど、わたしのことは完全無視。
ザイラと挨拶を返しながら、ドミッティラが艶やかに笑う。
「ごきげんよう。ところで、ご当主はまだおいでにはならないのかしら。ぜひ、ご挨拶したいと意気込んでおりましたのに」
「まだ、おいでにはならないようですよ。今回は国中の若い貴族令嬢を招いた夜会ですから、そのうちいらっしゃるとは思いますわ。わたしも娘をぜひともご当主にお目通りさせたくて」
貴夫人たちは「ほほほ」と笑い合う。
誰が最初に娘をご当主に紹介するのか、絶対に牽制し合ってる。怖い。
圧を感じたのか、別の夫人が話題を逸らす。
「ご当主といえば、ご商売でもご活躍なさっていらっしゃるようですね」
「ええ、そう伺っております。なんといっても、先々代のころから、女性向けの商品を取り扱っていらっしゃる老舗ですからね。とても素晴らしいですわ。この国の貴族は、商人が源流ですもの。一階の倉庫にはどんな商品が眠っているのか」
「まだ二十歳で、議員の資格もお持ちでないのに……確かお若いゆえに、叔父君が後見人をなさっていらっしゃるのでしたね」
「形だけの後見人でしょう。美貌のうえに、手腕に長けた商会長……ご当主を射止めるのは、どんな女性なのでしょうね」
ひえええ。また貴夫人たちの間で火花が散った。
いい加減、この会話終わらないかな?
こちらとしては、縁のないご当主の話なんて興味ないし。それに何より、お屋敷をもっとじっくり見て、清掃の参考にさせてもらいたい!
わたしがうずうずしながら壁際でおとなしくしていると、令嬢たちと話し込んでいたザイラがこちらを振り返った。小バカにした表情。
「えー、あの娘はみすぼらしいメイド服しか持っていないのよ? 今日の服にしたって、母が貸したものだし」
令嬢の一人が、わたしを頭から爪先まで品定めするように見る。
「でも、髪と目はめったにない色じゃない? 美しいドレスを着れば、案外映えるかもしれなくてよ。一応、貴族の令嬢なんでしょう」
そのセリフを聞いたとたん、ザイラが憎しみの籠もった目でこちらをにらみつけた。
どうやら、あの令嬢の言葉が彼女の逆鱗に触れたらしい。こちらにとってはいい迷惑だ。
わたしが息を詰めていると、ザイラは言い放った。
「エメルネッタ、あんたはどっかに行って。目障りよ」
「……かしこまりました」
わたしはさっとその場を去る。
いつものことだけど、あんなふうに敵意を向けられるとさすがにこたえる。
いけないいけない。これを僥倖だと思って、大広間の清掃具合を観察しよう!
「うわあ……すごい」
思わず声が漏れた。さっきからきれいだとは思っていたけど、壁下のベースモールディングの隅々に至るまで、清掃が行き届いている。これは相当に使用人の質がいいようだ。
ホコリ一つない大広間……いい!
シャンデリアの清掃具合も観察したかったが、メイドが大広間の中心を歩くのはとんでもないことなので、壁沿いに歩いていく。
「あ……テラスがあるのね」
美しく磨かれたテラスも、ぜひ見てみたい!
わたしは開放されている大窓を通り、広いテラスに出た。天井にフレスコ画が描かれた屋根がついており、正面に大運河を臨む、見事なテラスだ。要所要所に魔導灯の明かりが灯されており、星空の下、周囲を幻想的に照らしている。
よく磨かれた大理石の床に、感嘆の息が漏れる。歩いていくと、大運河に面した欄干の前に、背の高い男性が立っているのが見えた。足元には中型犬くらいの大きさの動物がまつわりついている。
動物の耳が動き、顔を上げてこちらを見た。暗闇に目が光っている。
釣られたように、男性もこちらを振り返る。
夜闇のせいで、はっきりとした色彩までは判然としないが、明かりが彼の短い髪に反射し、金色に染め上げている。瞳の色はわからない。
二十歳前後だろうか。男性はわずかに眉根を寄せたあとで、少しだけ表情を緩めると口を開いた。
「迷ったのですか?」
迷った? こういうときって、このお屋敷のメイドが何かの用でテラスに現れた、って思うのが普通じゃない? それか、使用人風情が景色を眺める邪魔をするな、と思って言葉尻がきつくなるか。
男性は私が問いを聞き取れなかったと思ったのか、こちらに歩み寄ってくる。
「お嬢さん、あなたは来客についてきたメイドでしょう? 迷ったのなら、ご案内しますよ」
わたしは衝撃を受けた。こちらが来客のメイドだとわかっていて、この紳士的な振る舞い。ごく一般的な貴族は、もっとメイドをぞんざいに扱う。この人、貴族だよね?
……少し鋭い面差しだけど、お顔立ちは整っていて美しい。加えて、この真の意味での品のよさ。間違いなく貴族だ。しかも、おそらく上位一パーセントくらいしかいない、教養も品性も兼ね備えた本物の貴族。
まずい。この人と話し込んでいるところでもドミッティラとザイラに見られたらまずすぎる。確実に二人の機嫌は悪くなる。
わたしは周囲を見回した。よし、誰もいない。
ならば、わたしのするべきことは一つ。
「お気遣いありがとう存じます。迷ったわけではないので、ご安心ください。それでは、わたくしは主のもとに戻りますので」
我ながら完璧な口上。わたしは右足を軽く引き、エプロンをつまみながら、深く腰を折った。この国での使用人が上位者にするお辞儀だ。
「そうです――」
男性が言いかけたセリフを遮るように、「ナァァァ」という鳴き声がした。声のした方を見ると、こちらに向けて中型犬くらいの動物が走り出したところだった。
あ! この子、中型犬じゃない。ライオンの子ども……いや、有翼獅子の子どもだわ! 折り畳まれた翼が背中に生えているもの。
走り寄ってきた仔有翼獅子は、こちらの顔を覗き込んでくる。真ん丸の瞳孔が目立つ瞳はくりっとしていて、言葉では言い表せない可愛らしさだ。まだ房毛の生えていない尻尾をピンと立て、「ナァ!」と鳴いた。
わたしは相好を崩したが、どう見ても貴族である男性への、お辞儀の姿勢を崩すべきか悩んだ。
男性が「フッ」と笑う声がした。
「楽にしてください。この子はあなたが気に入ったようです。有翼獅子が全くの他人に懐くのは珍しい。なでてあげると喜ぶと思いますよ」
言われたとおり、顔を上げると、男性が優しくほほえんでいる。
……この人、こんな顔もできるんだ。
明かりに照らされた彼の瞳は、深いエメラルドグリーンだった。とてもきれいな色。
思わず見とれてしまったわたしはハッとして、視線を仔有翼獅子に向けた。なぜか、無性に恥ずかしかったから。
しゃがみ込み、仔有翼獅子の頬から頭をなで、次いで喉をなでる。ふわふわの毛並みだ。まだ子どもだから、頭と身体全体にまだら模様がある。
ゴロゴロと喉を鳴らし始めた仔有翼獅子を、男性は温かい目で見やり、わたしと同じようにしゃがみ込んだ。
「この子は生後三か月弱なので、まだ瞳がキトンブルーなのです。暗がりだとわかりにくいとは思いますが。キトンブルーはご存知ですか?」
「ええと、確かネコ科の動物が赤ちゃんのときにだけ見られる、瞳の色ですよね」
「そうです。猫、お好きですか?」
「はい。犬も好きですよ。もちろん、有翼獅子も。この国のシンボルですから」
そう、前世のヴェネツィアと同じく、このヴァルツィモア共和国でも有翼獅子がシンボルなのだ。ただし、前世と決定的に違うのは、有翼獅子が実在しているということ。
有翼獅子は基本的に野生動物で、神聖な動物であると見なされていることもあり、ヴァルツィモアでは乱獲が禁止されている。
保護されている有翼獅子だが、昔から飼育されている個体の子孫は、ヴァルツィモア市内で定期的にお披露目される。政府の速達郵便に使われることもあるし、軍事に使われた例もある。上位貴族に飼われている個体も存在すると聞いている。
わたしは実際に有翼獅子を見るのも初めてだし、もちろんその子どもなんて、会うのを想像したことすらなかった。
うれしくて、仔有翼獅子の両頬をわしゃわしゃしてしまう。
この子、全然嫌がらない。それどころか、気持ちよさそうにしている。メロメロになったわたしは、相手が格上だということも忘れて、つい聞いてしまう。
「この子の名前は?」
「夏といいます。安直ですが、夏生まれなので。この子の母親が春という名前なので、ちょうどいいと思いまして」
「男の子ですか? それとも、おとなしいから女の子?」
「男の子です。ふだんはやんちゃなんですよ。もう好奇心旺盛で」
男性がフフッと笑ったので、わたしも釣られて笑う。その直後に、ふと気づいた。
(……ん? 有翼獅子って、飼えるのは国と上位貴族くらいよね? しかも、いくらこの国のシンボルだからって、普通は動物を夜会に連れてこないわよね? ってことは……)




