⑧ 痛い日に優しくなる人 ―誰の手のひらを重ねて―
季節は暑い時期になっていた。
暑くてもこの部屋には空調はない。
湿った空気が流れ込む。
三鷹水系から立ち上がる湿気は町中を蜃気楼のように揺らしていた。
小さい部屋に規則的な包丁の音が響く。
オリオンは足りない背を精一杯伸ばし、台所に立つ。
踏み台を適宜動かしながら味噌汁を作っていた。
コンロの前に台を置けば魚を焼き、炊飯ジャーの前に台を置けば米をよそう。
生活能力については完璧にユウトを超えていたが、それでも作れるのは簡単な料理ばかりだ。
「ユウトさん、ごはん出来たよ」
何度目かの優しい声。ユウトは睡眠不足の体を無理やり起こした
「まるで冬眠明けの熊みたい」
「またテレビで変な物を見たのか」
オリオンの世界は狭い。外の事を知る手段はテレビだけだった。
小さいちゃぶ台に二人分の食事が揃う。
焼き魚、ごはん、漬物、そして味噌汁、そしてコップに注がれた半端な牛乳。
ユウトは牛乳を見て眉を寄せた。
「…牛乳…買い忘れたな」
「…知ってる」
ユウトは日雇いの仕事を始めたが、身分がない物は誰も守ってくれなかった。
夜通しの工事は、疲れが抜けきる前に新しい疲れを重ねてくる。
「天体観測も、昨日だったよ」
「あ……昨日だったか……」
風で揺れるカレンダーには、つたない字で“天体観測”と書かれている。
壁には星座が描かれた紙がいくつも貼られていた。
何か言わねば。せめて謝らねば。
そう思った瞬間。小さいクラクションが外から聞こえた。迎えの三輪車だ。
ユウトは上着を掴むと、玄関に立った。
「今日は牛乳かってくるからよ」
「カルシウム入ってるやつがいい」
「分かってる。お前の好きなやつ買ってくるよ」
ユウトは駆け足で廊下に消えていった。
オリオンは窓を開け、町を見下ろす。
三輪車の荷台で揺られる、なじみのある背中。
「僕も一緒にいけたらいいのに」
ユウトはいつも窓からの視線を感じていたが、今日だけは振り返らなかった。
入道雲の横を飛行機が滑っていった。
三鷹駅前。
今はどこにもつながっていない線路と、もう使われていないバスのロータリー。
そこでは日雇いの仕事を皆が奪い合っていた
ひときわ目立っていたのは、三輪車の荷台から叫ぶヘルメットをかぶった男だ。
「今日は男手が4人いる! 強くて泣き言いわないやつ!!」
ユウトは仲間に礼を言って荷台から降り、広場の奥――目立たない方へ歩く。
よく目立つ所に置かれた三輪車は比較的、道徳的な仕事が多かった。
だが、ユウトが向かうのは太陽から逃げるように隅に止めてある一台。
近づくと、サングラスにアロハシャツ、くわえタバコの男が手招きをする。
「あんた…仕事探してるのかい」
「ああ。なんでもする」
サングラスは値踏みするようにユウトを見た。
「あんた…軍人さんかい」
「関係ないだろ」
「いいね、俺はタフガイってか」
「ああ、普通よりはタフだな」
アロハに案内され、小舟でゆっくり揺られる。
水の底には、戦後の残骸がただ静かに沈んでいた
三鷹水系を貫く高速道路の下を抜けたとき、不自然に止まる一両の列車が目に入った。
「あれが今日の現場だ」
アロハが指をさす。
今日も暑い日が来ると思っていたが……現実は寒々しいものだった。
列車は二つのトンネルの前で止まっていた。
先に来た男たちが、警察によって張られた黄色いテープを片付けている。
何人かの鉄道職員とすれ違ったが、みな暗い顔をしていた。
「今日の仕事はこれだ」
掃除用具がささったブリキのバケツを差し出され、仕事を内容を理解した。
「物わかりがよくて助かるよ。俺はあそこで休んでっから終わったら教えてくれ」
ブルーシートを超え、列車の整備をする男たちを超え、そして汚れた先頭車両にたどり着いた。
その光景は、忘れていた戦場を思い出させるには十分だった。
人の、命の形を跡を消す仕事。
気づけば、ユウトの歩みは止まっていた。
線路と車体の隙間に、小さな白い手形が残っている。
誰もがそこを見ないふりをしていた。
だが、そこを消すのはユウトだ。
掃除用具が崩れ、バケツの中で軽々しい音を立てていた。
仕事はまず、やり易そうな車体の清掃からにした。
見ないように、想像しないように気をつけても、車体は透けて、その下のものが見える気がした。
それでも、仕事をこなさねばならなかった。
戦場で、色々なもの見てきた。
だが―こういった生活の中で出会う事は全くの別物だった
始めた頃は、割り切れると思っていた。
俺は戦場で暮らした。何か違うのか、と。
何度も自分を奮い立たせたが、最後にその場所だけが残ってしまった。
そして…ついに車体の下を見たとき、この仕事を後悔した。
その持ち主を見てしまったのだ。
小さい手。小さい足。そして―
「休憩にしようぜ」
背後からの声に、ユウトは心臓が捕まれたように感じた。
そこにいたのは、アロハだった。
喫煙所で無駄に広く座ったアロハは、タバコを差し出した。
普段は吸わないが、今は何かを肺に入れたかった。
「お前もう帰っていいよ。」
ユウトはためらった。反論するべきか。金は必要だ。
だが…出来ればあの仕事はしたくない。
「お前の所のガキいくつなの? 結婚してねーの?」
「………いや…結婚はしてないが…」
「そっか。なんかよ…悪かったな。ガキがいるとよ…キツイよな」
ユウトは差し出されたタバコを受け取り、肺いっぱいに吸い込んだ。
仲介業者――利用する側の人間にも、帰る家があることをユウトは思い出した。
「………ああ。きついな」
「今週で三件目だとよ。ガキの形のアンドロイドがこのあたりで騒ぎ起こしてんだ。どっからきたかしらねーがよ。困ったもんだぜ」
二人は空を見上げた。遠くの空に飛行機雲が見えた。
「で、ガキいるの?」
「ああ、いる」
「俺のところは10歳でさ、ちょうどあれくらいなのよ。だから自分でできなくってよ…」
アロハの口から、煙と共に悲しみが出ていった。
「これ、俺の家族。みんなバカみたいな顔してるだろ」
アロハは財布から写真を取り出した、
折り目が十字に入った家族写真。何度も開いた跡だ。
「いい写真だな」
「あんがとよ。何にも考えないで誘っちまって悪かったな…よかったらこれもってけよ」
差し出されたのは吸いかけのタバコの箱と、折りたたまれた紙幣。
「いいのか?」
「いいよ、たまには早く帰ってやりな」
「あんた、いいやつだな」
「今日だけさ。俺はバカだからよ。痛い日にしか優しくなれないんだわ」
挨拶もそこそこに、ユウトは家に急いだ。
今はオリオンを力いっぱい抱きしめてやりたいと思った。
アイスを買って帰れば笑ってくれるだろうか?
その笑顔がみたかった。
汗も拭かず、家へと駆け続けた。
人が懐に写真をしまうのは、
写真という技術が優れているからではありません。
それが立体映像でも、文字だけでも、手形でもかまわない。
大事なのは、その中に宿った「思い」を懐に抱きたいからです。
ユウトの懐にも、その思いはたしかに入った。
たとえ形がなくても。
次回は、物語の“温度”が少し上がります。
引き続き読んでいただければ嬉しいです。
次回は2025年11月28日 07時30分更新予定です




