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④ 炎の後に ―からっぽの燃料―

朝、鳥が鳴いた。

青白い光の中で、一番に音を出したのは鳥たちだった。

そして二番目は小さいバイクの音。新聞を配り歩くバイクの音だった。

窮屈そうなジャンバーに身を包んだそれは、ただ淡々と新聞を運んでいた。


三番目に響いたのは、三拍子の足音。

常磐色の軍服には不釣り合いな、杖を携えた男。

一歩目は靴の音、二歩目は杖、三歩目は義足。


その音は二人の部屋に近づいていった。

異質な音でユウトは目を覚ます。


誰も帰ってくるはずのない部屋に向かって、確かに近づいてくる普通ではない足音。

その音は部屋の前でとまった。


ユウトはとっさに戦闘態勢を整えた。

だが、武器も、逃げ場もないユウトにはオリオンを布団で隠すので精いっぱいだった。


扉が開かれる。

そこには常磐色の軍服がこちらをにらみつけていた。


「そこにいるのは誰だ」

しわがれた中に確かな芯のある声がした。

常磐色…狙撃したあの男が仕切っていた軍隊の色。


ユウトは自身がおかれている状況を全く忘れてしまっていた。

先日までの軍人としての自分にはありえない事、自分が腑抜けてしまった事への後悔。

この部屋の唯一の扉を使う方法がないように、この場を切り抜ける賢い方法も思いつかなかった。


「……すみません」

弱々しい答え。それを許さない直立不動な軍服の男。

よく見れば礼式用の軍服。塵も皴一つない特別な日の軍服だった。

だが、安心はできない。懐に武器を隠しているかもしれない。

壁によって不自然に見えない右手に殺意を感じる。


こわばった体は、息さえ呑み込めなかった。

汗ばんだ手の平で布団の中の何かに触れる。

言葉や思考よりも早く、オリオンの無事を祈っていた。


二人の間に緊張が高まる。

男が力強く結んでいる唇が微かに動こうとした。


だが、聞こえたのは意外な愛らしい声だった。


「…おなかすいた」

二人の視線の中央に、トイレから寝ぐせのままオリオンが出てきた。

ぶかぶかな服と、それを逃がさないために裾を掴む。

寝たそうに眼をこすり、二人の間に入る。

二人の緊張をすべて溶かしてしまう。


まるで、平和そのものを映す、夢のような光景だった。


軍服の男は静かに笑った。その眼光から厳しさが零れ落ちた。

その寂しそうな笑顔はこの部屋に帰らぬ同僚によく似ていた。


「待っていなさい」

そういうと軍服の男は、また独特な音をさせて居なくなった。


音が遠ざかるたびに、ユウトの緊張もほどけていった。

ユウトの汗ばんだ手が、今さっきまでオリオンだと思っていた塊を取り出すと、力なく枕が現れた。

それを確かめた瞬間、力が抜けた。


軍服の男が戻ってくるのはそこまで時間はかからなかった。

軍用レーションの中でも、まだマシな方の食べ物をいくつか振る舞ってくれた。


慣れた手つきでスープとパウチを温める姿。

だが、不自然に見えなかった右腕はあるはずの場所にはなかった。

それでも器用に部屋に残された段ボールから食器を取り出す。

男には、どこに何があるか、分かっているようだった。


「食べなさい」

最初に感じた芯…軍人としての声ではない。不器用な優しさが声に詰まっていた。


「ありがとうございます」

ユウトは頭を下げ、カップに注がれたスープに手を伸ばした。

温かい。湯が頬に当たる。

しかしこの温度以上に、このスープは体を温めた。


「遺品の整理に…特別な許可をもらってね」

けして姿勢を崩さなかった男が、座りながら軍帽を脱ぎ、身を崩した。


「私物を墓に入れてやろうと思ったんだが…どうせ空の箱だ。使ってやってくれないか」

男もスープの入ったカップに手を伸ばす。

視線が俯いたのはスープを見るだけではなかった。


「すいません、勝手に上がり込んでしまって」

「いや…別に構わんよ。こっちも睨んで悪かった。部屋を間違えたかと焦ったよ。

 その子は君の子か?」

ユウトは、この男には真実を話そうと思った。

そうしないといけない、そう思った。


「迷子なんです。雨の中で拾いまして」


カップに置かれたスープを不思議そうに見るオリオン。

その頭を微笑みながらなでる。


「迷子か…それは大変だったね」

撫で終わると、またスープに手を伸ばした。


「……食べていいの?」

また愛らしい声が聞こえた。


「おじさんにお礼を言ってからな」

オリオンは立ち上がり、男に抱き着いた。

突然の事でよろけそうになるが、男は嬉しそうな声を上げつつ、ユウトに助けを求めた。


「オリオン、それもいいが、ありがとうございますっていうんだ」

「…ありがとう…ございます?」

「構わんよ。熱いから気をつけなさい」

「…どうやって食べるの?」

男はユウトを見た。

その目線は「君の仕事だろ?」と言っているようだった。

自分が飲んでいたスープをオリオンに持たせ口元を運んでやる。


「カップが重たいから両手で持つんだぞ」

「…あったかいね」

オリオンも、ユウトも、男さえも胸がいっぱいになった。

スプーンで食べ物を口に運んでやる。

オリオンもそれを受け入れ、雛鳥のように口を開ける。


外では氷が溶けはじめ、部屋の中には、微かに暑き季節の気配が満ちていた。


「失礼ですが、その軍服は…」

「………ああ」

ユウトは疑問に思っていた。敵らかな敵国の軍服。

階級は高くない。だが、胸に輝く勲章はその男の軍歴の長さを語っていた。


「君も息子を知っているなら、私がどういう立場だったか分かるだろう」

男は語った。戦争が終わったとしても、憎しみは消えない。

お互いを憎む色の違い。

それを象徴するような男だった。


「この負傷で、軍を去る事になった。その処理で紙の記録が見つかってね。

 このような老人にもなると、あの処置も利きが悪い。

 多少の記憶がある…つもりだったんだが、息子のことは忘れてしまっていたよ。

 まさか、敵に息子がいるとはね…いや居た…か」


軍隊に入ると兵士は記憶を封じ込まれる。

過去を捨て、純粋な武器として戦うためだ。


「大戦から十七年だ…最初は兵士の心を守る。

 そんな綺麗ごとにみんなが騙されていた。

 今思うとずいぶん残酷な事をしたものだ」


何も知らなければ何も失う事はない。

だが、確かに失っていた――そう誰かに言われねば、何かを失った事に気づけなかった。


「君は大戦を知っているか」


「…はい。終戦まで二年間、従軍しました」


「そうか…君も…そうか…」


戻っても、別の場所に居ても、戻らないものは、戻らない。

お互いの過去は、お互いの記憶は、もうこの世に存在しない。


かつてまだ条約という世界的な約束事が存在した。

国々は兵士たちの心を守るために「記憶保管計画」を求めた。

戦場の恐怖から兵士を守るため、記憶だけを抜き出し、中立地帯の地下へと封じたのだ。


世界中の兵士の記憶をひとつの場所に集め、痛みのない戦争を作ろうとした。


だが、大切な物を失った兵士達は、やがて、骨の髄まで銃に変わってしまった。


彼らは、18歳で入隊し、そして過去を奪われた。

過去を持たない純粋な銃たちは、存在しているかもしれない、という幻想の温かさに支えられることになった。

存在しているかもしれない、と思い込む“失われた故郷”の温度と香りだけを拠りどころに、

戦地から帰る日まで「からっぽのまま」銃として形を保っていた。


ユウトも、その大勢と同じだった。


中立地帯の三鷹市――その地下。

最初の爆撃、その後に続く小さいとは言い難い紛争、そして大国同士の戦争。

その最初の爆撃で、地下に封じられた記憶ごと、三鷹は消えた。


兵士の鉄の意志も、誇りも残った。

ただ、魂の燃料だけが燃え尽きた。


大戦は際限なく燃え広がり、紙の記録を焼き、街を焼き、そして家族を焼いた。

灰になった紙、灰になった街並み、灰になった家。

その火は、その中も外も、燃やし尽くした。


「妻も…行方知らずだ。せめて息子だけでも墓地に弔ってやりたくてね…。

 無名の兵士の墓では、落ち着かないだろう」

ユウトも、他の兵士たちも、銃口の向こうにいる相手でさえも、18歳以前の記憶を持っていなかった。

銃が涙を流せないように、兵士たちは“全員が他人になった世界”で痛みを感じなかった。


――もし記憶が残っていたら。

――もし互いが誰かを愛していた、と覚えていたなら。

もしかすると、戦争はもっと早く終わっていたのかもしれない。


「私たちは何を守っていたんだろうな…」


ユウトはすべてを理解した上で黙っていた。

こういった悲しみを話す相手すらいない。

そんな境遇を自分自身に重ねていた。


「軍には戻らないのかね」

男は、察していた。だが、具体的な事は聞いてこなかった。


「……俺は、もう役目を終えましたので」

「そうか、同じだな」

二人は沈黙した。


男の袖の奥で、腕時計の秒針が静かに進む。

男は帽子をかぶり直し、立ち上がる。


「迷子二人には狭いかもしれんが…好きなだけ居なさい」

ユウトは何か言わねばと思ったが、見えぬ右腕に制止されたような気がした。


男は背で語るように、扉へ向かう。

静かにドアを開けた。彼の頬に最初とは違う、温かい太陽の光が差す。


オリオンが小さく手を振った。


「…バイバイ」


その声を背でうけた男。その表情は分からなかった。

だが、違う色の軍服で戦った男は、来た時より幾分軽やかな三つの音を響かせて去っていった。


「ユウトさん」

「…どうした」

ユウトは感じていた。雪解けの音のような音を。

オリオンの声は柔らかかった。


「ぼく、もっとはなしてみたい」

「ああ、そうだな。全部お前の好きなようにしていいぞ」


慣れない手つきで頭を撫でてやる。


同じくらいの慣れない笑顔で。

雪も雨も、音の前ではただの“遮り”にすぎません。

けれど、その遮りが消えた瞬間——

本当に聞こえるべき音だけが、鮮やかに浮かび上がります。


もしそれが“記憶”だったら、何が浮かび上がるのでしょうか。


知らないということと、

“知らない事を知ってしまう”ということ。

どちらがより苦しいのか。


次回は、光についての話になります。

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