③ 二つの輪郭 ―雨の来訪―
ユウトは古いアパートの階段を息を殺して上がっていった。
二人分の重さに階段が軋んだ。
廊下の蛍光灯はちらつきながら、弱々しく光っていた。
こんな光でも、この町に数少ない光の一つだった。
オリオンと名乗る少年を抱えたまま、小さなドアの前に立つ。
何かが枯れた植木鉢の下に、カギがあった。
一度だけ飲みに来た部屋。主人を失った部屋。誰も帰らぬ部屋。
三鷹水系と呼ばれるこの辺りには同じような部屋がいくつもあった。
ユウトは開けることに少しばかりの抵抗を感じていた。
同僚が暮らした部屋に土足で入るのは、許されることなのだろうか。
一人ならば、きっとここで躊躇ったかも知れない。
だが、今日は違った。
ゆっくりとドアを開けると、予想とは正反対の光景だった
6畳ほどの、こじんまりとした部屋。
家具も私物もなく、あるのは部屋の隅のテレビと、中央にある小さな段ボール、
そしてきれいに畳まれた布団だけ。
以前とは様変わりした部屋の様子に戸惑った。
寂しい部屋だった。
自分がもしそうなったら…自分の部屋もいつかはこうなるのだろうか?
少しばかりの不安を感じつつも、まずは光を求めた。
「電気が来ていればいいが」
壁伝いに手を添えると、旧式のスイッチが指に当たる。
電気来ている。水も出る。それだけでありがたい。
手の中にあったオリオンの手は先ほど握ったドアノブよりも冷たい。
ユウトの体は、寒さには鈍感だ。
それでも、子供が耐えられる寒さではないと感じ、手のひらに温かい息をかけてやる。
これで温まればいいのだが…。
ふと視線を上げると、オリオンがじっとこちらを見ていた。
自分でもおかしくなる。まるで何かの真似事でもしているようだった。
小さく咳払いをし、オリオンを床に降ろす。
とにかく、温めてやらねば。
ユウトは、腕まくりをすると、浴槽に向かった。
浴槽は小さな、循環型。まさに時代遅れの骨董品だった。
お湯の蛇口を捻り、自分の手にかける。
ぬるま湯が、二度三度詰まりながらも出てきた。
湯気が指にまとわりつき、かすかに鉄の匂いがしたが、
少なくとも、自分の息よりはずっとましだ。
オリオンの体にぬるま湯をかけてやる。
「親はいるのか?」
自分の精いっぱいの優しい声を出したつもりだったが、少しも成功はしていなかった。
オリオンはまた不思議そうにこちらを見ている。
ユウトは自分が知る限りの言葉で話しかけながら、
髪を洗い、泥のついた足を洗ってやる。
小さな体を洗い終わる頃にはユウトの言葉は使い切っていた。
そして湯も品切れとなった。
期待して浴槽を見るが、頼りない浴槽に、より頼りないほどの湯しか残されてはいなかった。
「先に…湯を張るべきだったか」
大きなため息をつくと、ユウトは汚れた軍服を脱ぎ
オリオンを抱えて浴槽に入る。
一人用の浴槽に二人で入ることで、湯はようやく十分な量になった。
だが、今まで反応が薄かった手が、握り返してきた。
今まで無表情だった目に焦りが少しだけ見えた。
「なんだ、泳げないのかお前」
より強く支えてやると、その焦りも抵抗も弱くなっていった。
いつしかすべての体重を預けられたユウトは改めて目の前の体を確認した
外傷はない。トラウマを植え付けるような跡もない。
だが、どこか傷ついていると感じたのは、見えない所の傷を感じたからだった。
そしてもう一つ、視線の違和感。
ときおり…その目は何かを見ているようで、何も見てない目に戻る時があった。
それは、かつて見た事がある目。
市街地戦の最中、何度も見た目だった。
生きていると死んでいる、そのあわいに浮かぶ、ただ風景になってしまった目。
それによく似ていた。
人間性を失ってしまうほどの何かを見たか、あるいは――。
そんな心が冷えることを感じつつ、お湯は体を温めていった。
思えばユウトにとっても数か月振りの入浴だ。
自分の体と、湯の境界が解けていくと感じた。
そして、オリオンとユウトの境界も同じだった。
眼下に広がるつむじを覗き込みながら、
このオリオンと名乗る子供は、いくつくらいなんだろうかと考える。
だが、自分にはこの年頃の子供と暮らした経験はない。
白い肌、青い目、自分とは違う小麦が太陽を反射したような明るい髪の色。
それくらいしかわからなかった
入浴を終えると、部屋の中央にある段ボールを開ける。
少しの日用品と、折りたたまれた少しの服が入っていた。
心の中で謝罪すると、その服に着替える。
適当な服をオリオンに投げてよこすが
オリオンはまた服を不思議そうに見ていた。
またユウトはため息をした。
人に服を着させる。
自分で服を着る事と、着させる事ではあまりに勝手が違う。
親ならば当たり前なこと、そんな事もユウトには難しい事だった。
入浴の心地よさで、ユウトは大きなあくびをした。
自分でも張りつめていた緊張が全くなくなっている事に気づく。
今、置かれている状況も、すべて忘れて眠ってしまった。
オリオンは部屋の中で一人になった。
その視線は、部屋の隅にあるテレビを見つめていた。
数分か、あるいは数時間後だろうか。
ユウトは誰かの話声で目を覚ます。
なんてことはない。
テレビがついていたのだ。
オリオンがそのテレビを見ている。
後ろから見たオリオンの姿は、普通の子供に見えた。
だが、その肩が少し震えていた。
また、ため息。
畳まれている布団を広げると、テレビと電気を消し
オリオンをテレビの前から引きはがすと、二人で布団にくるまった。
「子供は寝る時間だ」
ちがう。本当はユウト自身がもっと眠りたかった。
だが、夜の深さは子供を寝かす理由には十分だった。
窮屈な布団の中で、再び身を寄せ合う二人。
つらく寒い雨は、名残惜しそうに西の空に去っていく。
二つの寝息が重なるとき、雨はもう降っていなかった
代わりに古い冷蔵庫の音だけが、静かに、そしてやけにうるさく鳴っていた。
人は、不定形の人格に「服」を着せて、
その人物をひとつの輪郭として受け取ろうとします。
では——もし人からその“服”という境界線が取り払われたら?
今回のエピソードは、銃から人へ、そしてさらに次の段階へ進む
“輪郭の変化”を描いた回でした。
次回は、記憶についての話になります。
今後は二日ごとに朝07時30分に公開する予定です。




