⑪ 天井のない夜 ―星だけが見ていた―
三鷹水系に夜の帳がすっかり下りてきていた。
国道を時たま走る車のライトが、ユウトを照らしては闇に呑み込んでいった。
自分が置かれている状況が、ユウトの肩にのしかかってくる。
車が走り去るたび、牛乳が入った買い物袋が小さく鳴った。
オリオンの好きな、いつもの牛乳。
それが今日は特に重たく感じた。
それでも、早く家に帰ろう。
ただ、それだけが歩みを進めていた。
いつもの帰り道。
なのに、──家の光が見えてこない。
いくら目を凝らしても、そこだけが穴が空いたように暗かった。
息が詰まる。心臓がひとつ跳ね、そして凍りついた。
嫌な予感に背中を押されるように、頭で理解する前に気持ちが先に走れと告げていた。
持っていた買い物袋を放り出し駆けだした。
ユウトの背後には、袋だけが取り残されていた。
漏れ出した牛乳が水たまりを作り、走っていくユウトの背中とアパートの歪んだ影が映りこんでいた。
不自然に家の周りだけが暗かった。
心配そうに見ている隣人達の横を走り抜ける。
隣人が何か声をかけた様子だったが、何も聞こえなかった。
何かの力でこじ開けられた扉は、力なく傾いていた。
飛び込むように玄関の前に立つ。
アパートの小さな部屋から吹き込む風が、肌を刺す。
見えるはずの窓もなく、天井もなく、そして屋根さえ消えていた。
床に転がる鍋、砕けた踏み台、口を開けたままの炊飯器。
瓦礫にひっかかり風になびく、オリオンのエプロン。
ここが間違いなく、自分たちの部屋だったことを物語っていた。
だが、今や部屋と外を区切っていた壁は、星空を区切るだけになっていた。
──オリオンはきっと無事だ。そうに決まっている。
部屋の奥で人影が立ち上がる。
星空をそこだけ黒く塗りつぶしたような人のシルエットがあった。
「オリオン!」
ユウトは、叫んでいた。
この危険な雰囲気ごと、不安が消し飛んでほしい。
そんな響きだった。
…返答がない。
風が、ユウトの叫びを星空に吸わせていく。
そしてその人影がゆっくりと声を出した。
「お騒がせしてすいません」
オリオンと同じ声、同じ体格。
だが、何かが違っていた。
「お前…誰だ」
「僕はレイ。アレの所有者です」
レイはゆっくりと影が出てくる。
月明かりだけが、その黒い輪郭を際立たせた。
「部屋の事はすいませんでした。遠隔で操作していると、どうも力加減が難しくて」
物腰の柔らかさと、それに反比例した鉄のような冷たい声だった
オリオンと瓜二つなのに、どこか空洞を思わせた。
ただ一つ、目の赤さだけが際立っていた。
「オリオンはどこだ…」
口から、自分でも驚くほどの低い声が出た。
「部屋は弁償します。アレに今までかかった費用も合わせて──」
「オリオンは…どこだ……!!」
ひび割れた窓ガラスが、ユウトの叫びに揺れる。
「…落ち着いてください。アレは元々私の物です。返してもらっただけのこと」
「オリオンは物じゃない」
怒りで握りこんだ拳が、静かに音を立てていた。
「では、なんです?」
「なに…?」
意外な質問に、思考が鈍った。
怒りで震える拳から力が抜ける。
その瞬間をレイは見逃さなかった
「ユウトさん」
背後から懐かしい声が聞こえる。
反射的に体が動いてしまった。
そこに立っていたのは、オリオンの形をした、また違う何かでしかなかった。
次の瞬間、ユウトの背後から、小さな手が首と二の腕に回り込んだ。
体格ではユウトが勝るはずだが、一方的に力負けした。
必死の抵抗も意味はなかった。
割れたガラスには、
首にひとり、腕にふたり、オリオンの姿をした少年がまとわりつくユウトが映っていた。
そのどれもがオリオンの形をしているが、何かが違った。
どこかを見ているようで、見ていない。
自分の中に自分がいない。
そんな目だった。
「放せ!」
ついには手足全ての自由を複数の少年…いやアンドロイドに掴まれ床に押し倒される。
踏ん張ろうとするも、床は軋んだだけだった。
そして耳元でレイがささやく。
「何か誤解しているようですが、貴方がオリオンと呼ぶのは僕の作ったアンドロイドです」
「オリオンがアンドロイドだと…」
「そうです。僕にはアレが必要なんです。
だから──返してもらう」
ユウトの世界が、音を立てて崩れた。
オリオン座は、毒をもつサソリを恐れ、
サソリ座が空に輝くあいだは姿を見せないと言われています。
では――オリオン座が夜空に昇る時、サソリはどこにいるのでしょう。
それは、きっと彼の足元に。
油断の隙間に潜み、いつでも噛みつける場所に。
どうか、オリオンがその毒に屈しないことを願っています。
次回は2025年12月5日07時30分の予定です
どうぞよろしくお願いいたします。




