⑩ 鏡の国のオリオン ―静かな狙撃者へ―
出会いから、まもなく一年が過ぎようとしていた。
今年も、三鷹水系の白い照り返しが、街を蜃気楼の中に沈めていた。
小さなアパートにこもる二人は、どうしようもない暑さに溶けかけていた。
ベランダの風鈴は動く気配もなく、ただうなだれているだけだった。
そんな時、ユウトは思った。
――オリオンはもっと外に出るべきだ。
触れて、感じて、新しい世界を知るべきだ。
わざとらしい声を出す。
「暑くてやってらんねぇ…。よし、泳ぎでもいくか」
「お、泳ぎ…?」
オリオンはびくりと身を起こした。
「気持ちいいぞ、泳ぐの」
「いやでも…水着もないし」
水への恐怖が好奇心の前に立ちはだかる。
「お前、水怖いんだろ」
「こ、怖いわけじゃないよ。ただ…沈んだら戻れなくなる気がして」
ユウトは不敵に笑い、準備していた道具を広げた。
サングラス、ライフセイバーの装備、そしてオリオンサイズの水着。
「この水泳教官に任せなさい」
「もー…ユウトさん元々泳ぎに行くつもりだったでしょ」
「まあ、な」
作戦は成功だ。
三鷹水系の入江。
人々は日陰で入道雲を見上げ、夏から身を隠していた。
体育座りのオリオンの前で、ユウトはわざと軍人気質を持ち出して見せた。
「これから水泳訓練を始める」
「は、はい!」
「コツはな。水に慣れること。味方につけろ」
「…できるかな」
「大丈夫だ。あそこを見ろ」
小さな子たちが自由に泳ぎはしゃいでいる。
「お前よりも小さいやつも、お前よりデカい俺も泳げる。なら、お前が泳げない理由なんてない」
サングラスを外し、いつもの表情に戻る。
柔らかい声と共に、手を差し出す。
「水に慣れる所からやろうな」
オリオンを抱きかかえながら水に近づいていく。
しがみついてくる腕に、力がこもる。
冷たい水が足先から駆け上がり、オリオンは小さく震えた。
それでも、ユウトと触れた部分だけが温かかった。
「どうだ、風呂と変わらないだろ」
「うん…大丈夫」
「じゃあ、少し潜るぞ。水中で目を開ける訓練だ」
ほんの数秒、二人は沈む。
透きとおる水に沈むのは、ほんの数秒。
けれど、あたらしい世界を覗くには、長い数秒だった。
ユウトが笑顔で空を指さした。
顔を上げると、水面が鏡になり、二人を映して揺れている。
実際の自分と、向こう側の世界にいる自分。
その境界だけが、静かに揺れている。
オリオンはまだ泳げない。
それでも今日は、確かに水の中にいた。
――それで十分だ。
訓練を続けるうちに気温が下がり、二人は更衣室へ向かった。
疲れと冷えでオリオンはふらつく。
「疲れたか」
「ちょっとだけね」
二人の歩みはゆっくりだった。
言葉はなかったが、繋いだ手から疲労が伝わってくる。
オリオンは寒さに肩をすくめた。
帰り道の途中、アパートでよく顔を合わせる隣人が、古い三輪車を止めて荷物を降ろしていた。
「川遊びかい? 荷台でよかったら乗ってきな」
ありがたく荷台に乗る。
錆びた荷台に揺られながら、赤く傾いた陽の中をゆっくり走る。
古いエンジンが唸る音も、今日はどこか優しかった。
心地よい疲れと風が全身を撫でていく。
日陰を通るたびに、少しだけ肌寒かった。
ユウトは冷えた体をそっと抱き寄せた。
オリオンはまどろみながら歌を口ずさんだ。
「あかいめだまのさそり~ ひろげた鷲のつばさ~」
ユウトが低く声を添えると、オリオンの震えていた歌が少しだけ強くなった。
「あれ…続き何だっけ」
「オリオンは高く、うたひ。つゆとしもとを、おとす。だな」
子守歌を重ねながら、三輪車はアパートへ向かっていく。
その帰り道を、誰かが遠い場所から静かに、そして注意深く見つめていた。
周りはすっかり暗くなっていた。
階段の途中でユウトは足を止めた。
何かの気配を感じるも、振り返らなかった。
「ユウトさんどうしたの?」
「いや…なんでもない」
扉を開け早々と家に入る。
オリオンはキッチンに立ち、夕食の準備を始めた。
いつもの包丁の音も、今はどこかよそよそしかった。
ユウトは感じたものの正体を考えていた。
兵士であった頃には嫌というほど感じた感覚…
軍にいた頃から、妙な胸騒ぎだけは外したことがない。
窓辺に歩き、暗い町を見下ろす。
ガラスに反射した自分の顔には、兵士の影がつきまとっていた。
窓の外、いつもの屋上ですら敵の匂いをさせていた。
──脱走兵の回収か。
──それとも報復攻撃か。
せめて、無関係なオリオンが傷つくことはないようにしなければ。
そんな考えが脳裏によぎっていた。
ユウトは冷蔵庫をあけ、牛乳をつかむ。
買ったばかりの牛乳は十分な重さがあった。
流しの前にたち、オリオンの方を伺う。
エプロン姿のオリオンは、ユウトの目にはいつもと同じに映る。
精いっぱい背伸びをして炊飯器の前に立っていた。
ふと、調理途中の鍋に目をやる。
湯気の向こうで、煮物が静かに音を立てていた。
ユウトは手に掴んだ牛乳を流しに捨てる。
子供向けの明るいパッケージの牛乳はすぐに空になった。
白い水たまりが回転しながら吸い込まれてゆく様子に自分のこれからを重ねた。
「なんだ、もう牛乳ないのか」
「え? 買ったばかりじゃない?」
「よし、ちょっと買ってくるわ」
「いいよ、夕食のあとで」
「いや、すぐそこだしな」
上着を掴み、玄関に向かう。
背中越しの声に声をかけた。
嘘だとばれないように。
「オリオン」
「なに?」
「ちゃんと戸締りするんだぞ」
「…うん、わかった。どうしたの?」
「いや、なんでもねぇよ」
オリオンが声を掛けようとしたが、その気配より早くユウトは外に出た。
キッチンには煮物の沸騰する音だけが残った。
灯りのない道を歩く。
武器もない。勝ち目もない。
それでも、オリオンは巻き込まない。
──戻れないとしても、あいつは生きていける。
覚悟はしていた。
いつかこの生活が終わることも。
人は追われると、なおさら平穏を求めるのだろうか。
そう考えながらオリオンと潜った入江についた。
周りに光はなく、水面は鏡のように星空を浮かべていた。
そこには天と地の境界はなく、世界そのものが星々の形をしているように見えた。
狙撃するなら、奇襲するなら絶好の場所。
タバコを取り出しゆっくりと火をつける。
顔の前に光が灯される。
「撃つなら、頭にしてくれよ」
独り言のように呟いた。
せめて遺体の判別だけはできないように。
オリオンが悲しまなくて済むように。
時間だけがゆっくり進んだ。
タバコの火が、指先を焦がす。
……しかし、何も起きない。
気づけば、タバコは燃え尽きそうになっていた。
服についた砂を払う。
ユウトは空を見上げ、ほんの少し笑った。
「…今日は…俺の番じゃなかったか」
小さい溜息に、小さい背中。タバコの煙だけが見送った
兵士たちは暗闇で火を使うとき、
炎の位置が外から見えないよう、掌で覆い隠す癖があります。
実際の戦場ではこんな言い伝えもあるそうです。
「一本のマッチで三本の煙草に火を点けるな」
一人目で見つけられ、
二人目で狙いを定められ、
三人目には――撃たれる。
夜の光は、慰めにもなるが、
同時に命取りにもなる。
物語の中でユウトが火を灯す時、
ふとその言葉を思い出していただければ幸いです。
加速を始めた物語は、もう誰にも止められません。
次回は2025年12月03日 07時30分の更新の予定です。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




