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悪役令嬢(?)に転生したので運を天に任せることにしたら思わぬ方向に向かいました

作者: 乃木太郎

 自分には、どうやら前世の記憶というものがあるらしい。

 十年間、クライネルト公爵家の長女ソフィアとして生きてきたわたくしが、その奇妙な事実に気づいたのは、淹れたての紅茶が美しい琥珀色に輝く、ある晴れた日の午後だった。唐突に、しかしあまりにも自然に、脳裏に「日本」「大学受験」「満員電車」「長時間残業」といった、この世界のどこを探しても存在しない単語の群れが流れ込んできたのである。

 ソフィア・フォン・クライネルト。名門クライネルト公爵家の娘。輝くような銀髪に、母譲りの知性を湛えた紫水晶の瞳。それが今のわたくし。

 前世のわたしは、ごく普通の日本人……だったと思う。今と違ってお金はなかったので、死に物狂いで勉強してなんとかそこそこの国立大学に入り、大手と呼ばれる企業に就職したものの、待っていたのは月に百時間を超える残業が常態化したブラックな労働環境だった。おそらく過労死したのだろう。社会の歯車としてしゃにむに生きるしかなかったしがない会社員。

 二つの記憶が混ざり合い、眩暈がした。しかし、それも一瞬のこと。すぐにわたくしは現状を受け入れた。なぜなら、前世の記憶が蘇ったところで、今のわたくしが公爵令嬢である事実に変わりはないのだから。

 これが転生というものか。

 前世で嗜んだ小説や漫画でよく見た設定だ。そもそもどういう仕組で転生が行われるものなのか、なぜ異なる時間軸が存在しているのか、疑問は尽きないが、ここは物語の世界なのだろうか。しかし、わたくしの記憶をどれだけ探っても、このヴァイスラント王国や、クライネルト公爵家といった固有名詞に、見覚えも聞き覚えもなかった。どうやら、わたくしが知っている作品の世界ではないらしい。

 ――まあ、いいか。

 前世では常に時間に追われ、毎日槍のように降ってくるタスクや上司の暴言に心身をすり減らして生きてきた。それに比べれば、今の生活は天国だ。美味しい食事、美しいドレス、ふかふかのベッド。何より、自分の時間がある。それだけで十分すぎるほど満ち足りていた。仮にこれが幻想の世界であったとして、何が困るというのだろう。ここには、やる意味が見いだせないタスクも、唾をまき散らして罵る上司もいない。

 そんな平穏な日々が、ある知らせによって少しだけ揺らぐことになる。


「ソフィー、お前もそろそろ婚約を考えなければ」


 父であるクライネルト公爵が、そう告げたのだ。

 十歳の少女が婚約。前世だったらSNSで炎上するような話だが、この世界では幼いころに婚約を結び、家どうしのつながりを強固にするのが当たり前だ。自分よりうんと年上の貴族に嫁ぐような令嬢もいる。それが貴族として、民草の血税で生きる者の義務だから。

 婚約者。その言葉に、わたくしの脳内に警報が鳴り響いた。物語における公爵令嬢、そして婚約者。この組み合わせから導き出される役割は、だいたい決まっている。

 ――悪役令嬢かしら?

 なるほど。わたくしはきっと、主人公であるヒロイン(仮)と恋に落ちる婚約者(仮)を邪魔する悪役令嬢で、いずれその座を追われる運命なのだ。だからといって、焦りはなかった。そもそも、わたくしには、ここが何の物語で、誰がヒロインで、婚約者が誰なのか、全く情報がないのだ。回避しようにも、方法がわからない。

 ならば、もう運を天に任せるしかない。なるようになれ、だ。――前世で休日のたびに夢中になったゲームをふと思い出す。この世界にゲームがないことだけがさびしい。

 断罪されるなら、そのときはそのとき。そもそもわたくしはヒロイン(仮)と婚約者(仮)の間を邪魔するつもりはない。公爵令嬢に無実の罪を簡単になすりつけられるほど、クライネルト公爵家は脆弱ではない。婚約破棄になれば、修道院にでも入って、静かに本を読んで暮らすのも悪くないだろう。

 わたくしは冷めた紅茶を一口飲み、小さく息を吐いた。前世の知識を思い出して、マドレーヌを紅茶に浸してみる。いつもよりしっとりとして、紅茶の香りをふくんだマドレーヌを味わうだけで、これから起こる未来も意外とどうとでもなるような心持ちがした。




 婚約者(仮)との初顔合わせの場は、王宮の華やかな一室で設けられた。まさか、父の言っていた「婚約」が王族相手なんて。驚きはしたけれど、やはりこれは「転生もの」なのだろうと思う。婚約者(仮)が王族なんて、テンプレ中のテンプレだ。

 ところが、わたくしは婚約者ではなく、あくまでも候補らしい。というのも、その場に集められた令嬢はわたくしを含めて五人。皆、国内でも有数の貴族の娘たちで、それぞれが最高級のドレスと宝石で飾り立て、緊張と野心に満ちた表情でソファに座っている。うまくすれば、わたくしは婚約者の座を逃れられるかもしれない。

 やがて、扉が開かれ、ひとりの少年が入室した。


「大変お待たせいたしました」


 柔らかな微笑みをたたえ、彼は優雅に一礼する。

 アレクシオス・ライナー・フォン・ヴァイスラント。この国の第一王子にして、次期王太子と目される人物。陽光を溶かし込んだような金髪に、空の色を映した澄んだ青い瞳。物語の王子様をそのまま描き出したような完璧な容姿に、令嬢たちがうっとりとため息を漏らすのが聞こえた。

 わたくしも例に漏れず、彼の姿に感嘆した。二次元の美しさをリアルで目にするとはこういうことか。いつも平面的な絵としか見ていなかったものが、立体的な陰影を持ち、その息遣いも聞こえてくる。この人は生きているし、実在している。その事実に感動していたのだ。

 しかし、その感動も長くは続かない。完璧な笑みを浮かべた彼の瞳の奥に、ほの暗いにぶい光が宿っているのをわたくしは見逃がさなかった。前世でも見たことがある。あれは、人を品定めをする目だ。目の前の令嬢たちを、未来の王太子妃という「役割」をこなせるかどうかの駒としてしか見ていない。女性そのものを見下しているようにすら感じられ、わたくしはぞっとした。

 アレクシオス殿下は、令嬢一人ひとりに当たり障りのない言葉をかけ、優雅な会話を繰り広げていく。令嬢たちは、何とかして王子に気に入られようと、必死に取り繕った笑顔で媚を売っていた。その光景は、さながら取引先の接待のようで、アルコールを飲んでいるわけでもないのに胃がむかむかしてくる。

 早々に会話の輪から意識を離したわたくしは、部屋の調度品に目を向けた。壁にかけられた巨大な歴史画。建国神話の一場面を描いたそれは、息を呑むほどに迫力があり、かつドラマチックだった。「魔王」とされる男の苦悩に満ちた表情、その「魔王」を踏みつけて右手拳を堂々とかかげている筋骨たくましい男性は、建国の祖と呼ばれる「英雄」だ。暗雲広がる雲間から一筋の光が指し、「英雄」を祝福するかのように照らしている。


「なんて美しいの……」


 心のなかで呟いていたつもりが、どうやら声に出てしまっていたらしい。


「絵画に興味が?」


 声の主は、アレクシオス殿下だった。いつの間にか、彼はわたくしの隣に立っていた。


「ええ……。これほど心を揺さぶる絵画は初めて拝見しました。特にこの、魔王の表情や光の表現に目を奪われます」


 わたくしは興奮のままに、思ったことを素直に話していた。娯楽の少ないこの世界では、読書や美術鑑賞が貴族の主な娯楽である。男性だともう少し幅広い遊びを楽しめるけれど、女性は家のなかで完結する趣味しか持てない。とくに美術鑑賞は前世の記憶を思い出す前から生きがいになっている。

 アレクシオス王子は、驚いたように少しだけ目を見開いたあと、おもしろそうに口元を綻ばせた。


「ふつうは英雄に目がいくものなのに、魔王の表情に注目されるとはおみそれいたしました」

「いえ、そんな……」


 しまった、ここは無難な返答をしておくほうがよかっただろうか。いや、むしろ、変な女と思ってもらえたかもしれない。

 王子はすぐにわたくしに興味をなくし、次の令嬢へと声をかける。その背中を見て、わたくしはほっと胸をなで下ろしたのだった。




 数日後、父から告げられた結果は、予想外のものであり、また、ある意味で予想通りだった。


「ソフィア、お前がアレクシオス殿下の婚約者に選ばれた」


 ――ああ、やはり、そういうストーリーだったのか。

 わたくしは驚きよりも、不思議なほど納得感を覚えていた。悪役令嬢が王子と婚約しなければ、物語は始まらない。これで舞台の幕が上がったというわけだ。そのうち、どこからか現れるであろう「正ヒロイン」の登場を、わたくしはただ静かに待つことにした。




 アレクシオス殿下との婚約期間は、驚くほど平穏だった。わたくしたちは週に一度お茶会を開き、月に二度、公務に同伴する。会話の内容は当たり障りのない政治経済の話か、国内外の情勢について。婚約者と言えど、甘い雰囲気は一切存在しない。婚約とはある種の契約である。互いが互いに、個人的な興味を全く抱いていない。

 彼はわたくしを「婚約者の役割をそつなくこなす、都合の良い駒」としか見ておらず、わたくしも彼を「ヒロイン(仮)の相手」としか見ていない。こうしたビジネスライクな関係だからこそ、平穏を保つことができたのだろう。

 一方で、わたくしには「王太子妃教育」という新たな日課が課せられた。歴史、政治経済、外国語、宮廷マナー。その内容は多岐にわたり、一般的には「血を吐くほど厳しい」と評されるものらしい。

 しかし、前世の記憶を思い出したわたくしにとっては、なんてことない内容ばかりである。

 国立大を受験するしかなかったので、英語、数学、国語、理科、社会のすべての教科をまんべんなく勉強してきたわたくしにとって、この世界で学ぶことは圧倒的に「少ない」のである。深い知識は求められるが、覚えることは限定的だし、教科で言えば、英語、国語、社会の三教科だけでいい。媒介変数や複素数平面、化学平衡や、力学……それらがないぶん天国だ。


「……まあ、よろしいのではなくて? ですがソフィア様、公爵令嬢としてこれくらいの知識は『常識』の範囲内ですわ。決してご自分の才を過信なさらないように。もっと深く、行間まで読み解く努力をなさいませ」


 年配の女性教師は、扇子で口元を隠しながら、ネチネチとそう言った。

 蝶よ花よと育てられた令嬢ならつらいかもしれないが、この程度の嫌味なんて、前世の上司が毎朝浴びせてきた人格否定の暴言に比べれば、春のそよ風である。


「……その分析は浅いですね、ソフィア様。机上の空論とはまさにこのこと。もっと民草の感情まで考慮なさい」


 若い男性教師は、軽蔑の視線を隠そうともせずにため息をついた。

 やっぱりふつうの令嬢なら耐え難い屈辱だろうが、パワハラと長時間労働で思考停止した頭で、無茶な要求に応え続けた日々に比べれば、こんな言葉も笑顔で受け流せる。

 前世で経験した受験とブラック労働。それに比べれば、王太子妃教育など、少しレベルの高いカルチャースクールのようなものだった。教師たちの嫌味な物言いは、わたくしにとっては何の精神的ダメージにもならなかった。むしろ、前世の過酷な環境を思えば、生ぬるいほどである。




 わたくしが淡々と、しかし完璧に王太子妃教育の課題をこなしていく様子は、アレクシオス殿下の耳にも入っていたらしい。


「君は、優秀なんだね」


 お茶会の席で、彼がめずらしく感心したように言った。わたくしは殿下の言葉にあいまいな笑顔で返す。

 優秀、とは少し違う。人より特殊な経験――正しくは記憶だけれど――があって、ちょっと耐性がついているだけだ。だって前世のわたくしは、ごくごくふつうの一般人だったから。所変われば品変わる、というやつである。


「君は、嫌になったりはしないのか? 逃げ出したいと思うことは?」


 青い瞳が、わたくしの本心を探るように細められる。


「逃げて、それで何になるというのでしょうか」


 嫌なことがあれば逃げればいい。――それは正しいけれど、当人にとって簡単なことではない。「こうするしかない」と脳が停止してしまえば、それ以外のことなど考えることなんてできない。逃げればいいなんて、本当の苦しみを知らないから言えるのだ。

 わたくしはそれだけ言って口をつぐむ。彼は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は何も聞いてこなかった。

 そうして、婚約者として月日は流れた。わたくしは成人を迎え、アレクシオス殿下は正式に立太子することとなった。ヒロイン(仮)は未だ現れていない。もし現れなかったとしても、それはそれでいいかと思っていたけれど。

 やはり、物語の幕は上がっていたのである。




 アレクシオス殿下の立太子を祝う夜会は、建国以来の盛大さで行われた。シャンデリアの光が会場を隅々まで照らし、着飾った貴族たちの喧騒と、軽やかなワルツの音色が満ちている。

 わたくしは王太子の婚約者として、彼の隣に寄り添っていた。完璧な淑女の笑みを浮かべ、次々と挨拶に訪れる貴族たちに優雅に対応する。これもまた、与えられた役割の一つだ。

 そのときだった。会場の入り口が、ひときわ騒がしくなったのは。

 視線を向けると、そこに一人の令嬢が立っていた。

 亜麻色のふわふわとした髪に、庇護欲をそそる大きな翠の瞳。ドレスは他の令嬢に比べて質素だが、それがかえって彼女の可憐さを引き立てている。少しおどおどとした様子で、しかしその瞳はきらきら輝き、見るものすべてに心を奪われているようだ。

 誰もが、思わず彼女に目を奪われていた。

 ――この人だわ。

 わたくしは内心で快哉を叫んだ。間違いない。彼女こそが、この物語の「正ヒロイン」だ。

 ちらりとそばに控えていた侍女に目をやると、優秀な侍女はわたくしにそっと耳打ちする。彼女はフィオナ・ベルク。最近、とある伯爵家に引き取られたばかりの、遠縁の令嬢だという。なんという、絵に描いたようなヒロイン設定だろうか。

 これでようやく、わたくしの役目も終わりに近づく。きっとこのあとアレクシオス殿下は彼女とこの夜会で恋に落ち、わたくしは悪役令嬢として断罪され、婚約破棄を言い渡されるのだ。ああ、待ち遠しい。早く田舎の修道院でのんびり読書生活を送りたい。

 わたくしがそんな未来予想図に胸を躍らせていると、アレクシオス殿下は少しだけ眉をひそめ、「少し失礼する」と言って、宰相閣下に呼ばれて人混みの中へ消えていった。

 ひとりになったわたくしを、絶好の機会とばかりに待ち構えていた人物がいた。


「ソフィア」


 声の主は、ベアトリス・ライナー・フォン・ヴァイスラント殿下。アレクシオス殿下の姉君にして、この国の第一王女だ。

 弟とは対照的に、燃えるような真紅の髪と、情熱的な紫色の瞳を持つ、勝ち気で情感豊かな女性だった。


「ベアトリス様、ご機嫌うるわしゅう」

「まあ、いやだわ、そんな他人行儀な態度は。あなたはかわいい義妹ですもの。さあ、あちらでわたくしと話しましょう?アレクったらずっとあなたをひとり占めするんだもの」


 わたくしはベアトリス様に促されるまま、喧騒から離れたテラスへと向かう。


「アレクシオスはどう?迷惑をかけていないかしら」


 ベアトリス様のストレートな物言いに、思わず笑みがこぼれる。彼女は、弟の無機質な性格を昔から心配し、婚約者となったわたくしのことをいつも気にかけてくれていた。


「はい。何の問題もございませんわ」

「それならいいけれど……。あの子ったら、ソフィアに愛の言葉のひとつも囁いていないんじゃないの?」


 さすが、鋭い。わたくしは苦笑するしかなかった。


「殿下とわたくしは、互いを尊重し、良きパートナーとして信頼関係を築いております」

「そんな建前はいいのよ」


 ベアトリス様は、じっとわたくしの目を見つめた。その真剣な眼差しに、わたくしはつい、本音を漏らしてしまった。


「……いずれ、殿下は真実の愛を見つけると思いますわ。そうしたら、わたくしとの婚約など、解消なさるのではなくて?」


 先ほど現れたヒロインの顔を思い浮かべ、わたくしは小さく頷く。あんなに可憐な令嬢なのだから、アレクシオス殿下が心を奪われても無理はない。

 その瞬間、ベアトリス様の顔から、すっと表情が消えた。

 テラスの陽気な雰囲気とは不釣り合いな、絶対零度の空気が流れる。


「……なんですって?」


 地を這うような低い声。先ほどまでの親しげな態度はどこにもない。

 ――しまった。

 そう思って取り繕うと思ったが、遅かった。


「あの、今のはなんといいますか……」

「ふざけないでちょうだいッ!!」


 突如、雷鳴のような怒声がテラスに響いた。ベアトリス様の瞳は怒りの炎で燃え上がり、その体からは威圧感が溢れ出して、びりびりと空気を震わせている。


「ベアトリス様、落ち着いてくださいませ。あの、冗談ですから」


 わたくしの言葉をさえぎって、彼女はわなわなと震えながら言い放つ。


「ソフィーのようなすばらしい婚約者を見つけて、わたくしも父上も母上も、国中の人間が安堵しているというのに!そんな大切な婚約者を不安にさせるようなことをしたのでしょう?」

「い、いえ!その、違います」

「いいえ、違わないわ。思慮深いソフィーから婚約破棄なんて……。あの朴念仁!」


 ガチギレだ。予想の斜め上を行く反応に、わたくしは完全に思考を停止させてしまった。ヒロインを目にして、婚約破棄の未来がいよいよ現実のものになりそうな雰囲気に、うっかり口を滑らせた自分の迂闊さが許せない。口は災いのもとである。


「いいわ、ソフィー。今すぐ愚弟を捕まえて、あなたのその目で、確かめなさい」


 ベアトリス様はわたくしの腕をむんずとつかむと、有無を言わさぬ力で会場へと引きずっていく。その形相は、まるで鬼神のようだ。

 怒髪天を衝く勢いのベアトリス様に引きずられ、会場に戻ったわたくしの目に飛び込んできたのは、まさに「物語が動き出した」瞬間である。

 アレクシオス殿下と、ヒロインことフィオナ・ベルクが、楽しげに談笑している。

 完璧な王子様と、可憐な少女。それは一枚の絵画のように美しく、お似合いの光景だった。

 ――物語が動き出したのだわ。

 わたくしがひとり、感慨にふけっていると、隣のベアトリス様が、完璧な淑女の笑みを浮かべて、ずんずんと二人のほうへ歩いていく。その笑顔は、恐ろしいほどの圧を放っている。


「ごきげんよう、アレクシオス。楽しそうね」

「姉上。……ええ、まあ」


 アレクシオス殿下は、姉のただならぬ雰囲気に気づき、わずかに警戒の色を見せた。

 ベアトリス様は、その視線を無視して、隣に立つフィオナ嬢へと顔を向けた。


「それで、そちらのかわいらしいご令嬢は、どちら様かしら?」


 あくまでも優雅に。しかし、その声には刃のような鋭さが含まれている。

 フィオナ嬢は、王女殿下に声をかけられたことに驚き、慌ててスカートの裾をつまんだ。


「は、はじめまして、ベアトリス殿下! わたくし、フィオナ・ベルクと申します!」


 ベアトリス様は、ふふ、と微笑み、決定的な問いを弟に投げかけた。


「それで、アレクシオス。このフィオナ・ベルク嬢は、あなたの『お知り合い』なの?」


 さすがに出会ったばかりで「運命の人だ」と言い出すことはないだろうが……。アレクシオス殿下の表情はいつも通りよくわからない。

 しかし、もし殿下がヒロインにひとめぼれしていて、すでにヒロインを妃にしたいと考えているかもしれない。フィオナ嬢はほほを赤く染め、潤んだ瞳でアレクシオス殿下を見つめている。ヒロインのほうは、物語を始める準備がすっかり整っているようだ。


「知らない」


 凛とした、よく通る声。しかし、その内容はあまりにも無慈悲だった。

 フィオナ嬢だけでなく、ベアトリス様もわたくしも固まってしまう。

 アレクシオス殿下は、そんなわたくしたちにかまうことなく続けた。


「突然話しかけられたが、今日は無礼講だから、対応していただけだ」


 氷のように冷たい声だった。そこには、一片の感情も含まれていない。

 フィオナ嬢の顔が、みるみるうちに青ざめていく。彼女が何かを言う前に、満足したように頷いたベアトリス様が、追い打ちをかけるように言った。


「そう。なら、いいのよ」


 すっかり怒りが収まったらしい姉殿下は、くるりとわたくしのほうを向くと、爆弾を投下した。


「ねえ、アレクシオス。あなたの大切な婚約者、ソフィアが言っていたわよ。『そのうち婚約破棄でもするんじゃないか』って」


 状況が飲み込めていないのは、わたくしとフィオナ嬢だけだった。

 アレクシオス殿下は、その言葉を聞くと、はじめて心底驚いたという顔をして、わたくしを見る。


「……本気で言っているのか、ソフィア」

「なんというか、言葉の綾で……」


 しどろもどろに答えると、彼は天を仰ぎ、深いため息をついた。そして、きっぱりと言い放つ。


「あり得ない」


 アレクシオス殿下はまっすぐわたくしを見つめる。


「どんなときも、私に一切の興味を示さない。だというのに、あれほど厳しい王太子妃教育を、文句一つ言わず、遊びもせず、完璧にこなし続ける。そんな逸材を、王家が、私が、手放す理由がないだろう」


 愛の告白とはまったく趣の異なるその言葉は、やはりどこまでもビジネスライクで、ある種即物的な内容だった。


「君は、本来なら投げ出してもいい責務も、感情に流されず、淡々と、こちらの期待通りの成果を上げてくれる。その姿を見て……未来の王として、襟を正す思いだったか」


 アレクシオス殿下は生真面目な顔をして、その真意はやはりよくわからない。しかし、ヒロインのはずのフィオナ嬢には目もくれず、目の前の仕事に向き合う姿勢に、わたくしははじめてアレクシオス殿下と心を通わせられた気がした。

 プレッシャーにさらされながら参考書と問題集に取り組み、模試の成績を見るたびにどんどん追い詰められていった大学受験。なんとか国立大を出て大手企業の内定を勝ち取ったものの、蓋を開けてみればワークライフバランスなんて欠片もない超ブラック企業。月百時間を超える残業、理不尽な上司からの叱責、降りかかる膨大なタスク。眠る時間も、心を休める時間もなかった。常に何かに追われ、すり減っていく毎日。

 自分には何もない。国立大卒大手企業勤務というラベルだけがすべてだった。

 目の前にいるアレクシオス殿下も同じなのかもしれない。王太子はいずれ国を背負う。国を背負うということは、とても孤独だ。そもそも国王が、残業は嫌だなどと言えるわけもない。常にタスクに追われ、追い詰められ、王族であることが自分を苦しめているのに、王族であることが自分のすべてであることも理解している。

 ――まさか、こんな形で前世の知識が役に立つなんて。

 アレクシオス殿下の本心がわかる……とおこがましいことは考えていない。それでも、甘やかな、自分の義務を放り出して、享楽にふける道を選ばない覚悟に寄り添うことは、わたくしにしかできなかもしれない。

 呆然と立ち尽くすわたくしに、アレクシオス殿下は、穏やかで、少しだけ熱を帯びた瞳を向けた。


「だから、ソフィア。私が次の国王になる以上、君と婚約破棄などあり得ない。君は、わが国に必要な妃だ」

 

 どうやら、この名も知らぬ物語は、わたくしの予想とはまったく違う結末を迎えるらしい。

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― 新着の感想 ―
このフィオナというご令嬢、前世で元ネタの小説か何かを知ってる系のお花畑なのか、ただ単に世間知らずで貴族常識皆無なお花畑なのかは知らないけど、すっかり背景のモブに成り下がってて草。 なぜ主人公に「自分…
とりあえず主人公の中で「何かの作品の世界」なのが確定して進んでるのがちょっとよく分かりませんでしたが、とりあえず身を任せるしか無いよなってのはその通りかなーと思いました。 あとは自分の人生にキチンと向…
これは確かに恋愛ではない。ビジネス戦士の連帯だ。 まだ子供の時分に過度な外圧は歪みを生むが、主人公が導となり王を継ぐものとしての正道を歩けているという実感を得られるに至ったからこそ彼は踏み外さなかった…
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