還らぬ者の還り
浜から続く道を登ると高く重たげにそびえた木々が見えてきた。
風守りの木というのはこれのことかと思った。人々の話によく出てきたシルヴァの並木。
木の根元には苔むした丸い石が並べられている。それぞれの石に彫られた字に夜露がたまって朝の光を受けてきらめいている。
朝が怖かった。
僕の弱い喉は寝ているうちにすっかり細くなってしまう。
すっかり息が詰まって、その苦しさで目を覚ます。手足は痺れるほど冷たくなっていて胸は重い石を乗せられたように痛い。
喉はすっかりふさがってしまって声を出すこともできない。息の仕方を間違えると戻れない気がして、暴れる心臓に逆らうように、できるだけ静かにゆっくり息を胸に送り込む。
今は違う。
息も深く鼓動も強い。頭の奥まで澄んだ水が満ちている感じがする。体が、自分のものとは思えないほど心地よい。
母が自分を犠牲にして結んだ——ひどく悪い取引の代わりに手に入れた何かが今の僕を支えている。それは毒のように甘く、罪の味が僕を苦しめる。
村に目をやると白い煙の筋がいくつも立ち上って淡い色の空へほどけていく。クロアを焼く匂いがかすかに漂ってきた。
いつもの毎日が始まる合図だと思った瞬間、胸の中でなにかが軋む音がする。
見えるものすべてが、いつもよりくっきりしているのに、景色はよその村のようだった。一人で出歩くことなんかできなかったから、村での思い出はすべてが母とつながっている。だから今、村は僕の知らない顔をしている。
気づけば四方から人が集まりはじめていた。
浜で大声をあげていた男が村の真ん中にある井戸のそばに立っていた。背をこちらに向けたまま大きく手を振りまわして何事かを叫んでいる。
皆の足音と囁きが渦を描いて僕を井戸端へと追い立てる。それは大きな生き物の腹の中に僕だけが押し込まれていくみたいだった。
すれ違う影が次第に増える。横から出てきては僕の歩みをふさぎ後ろから押し寄せる気配が背を追い立てる。
「見てごらん、あの髪、それに背も……」
「海に還した子が……」
「駄目だ、あいつの親が思い出せない。呪いはまだ……」
やがて人垣が割れて、歩み出てきたのは村長だった。
腕を組んで立ちすくんだまま口を閉ざしている。目を見開き眉はきつく寄せられてむき出しになった歯が震えている。
しかし、大人たちの醜く険しい表情にも、何も怖さを感じない。足は地に根を張ったように揺るがないし、じっくり観察する余裕もある。
群衆のざわめきはしだいに荒れていく。
「化けて出やがったのか」
「もうあの子じゃねえ、海に食われたんだ」
「死人が歩くなんて気味が悪い」
その時、また耳の奥でかすかな囁きがした。意味のない言葉の切れ端が重なり合い海鳴りのように低く唸る。
髪がかすかに揺れた。見えない指が撫でていったみたいだった。潮の匂いが濃く立ちのぼり鼻の奥を焼く。
そして――
世界はまた裏返る。
「ああ、いいねえ。恐れも怯えも。すっかり忘れちまって味だよ」
「だが、まだ足りぬ」
「少し脅かして差し上げましょう」
優しい笑いが耳の奥で響くと、井戸の石の縁が音を立てて震え出した。そして、井戸から水柱が高く荒々しく噴き上がる。
飛沫は光を散らして広場一面に時ならぬ雨となって降り注ぐ。女たちは金切り声を上げて身を引いた。
潮の匂いが広場を覆って人々は凍りつく。
男の一人が口元を拭って驚きの声を上げた。
「……潮の味がするぞ!」
別の男が濡れた指先を舐めて叫ぶ。
「海水だ!井戸が死んじまった!」
その言葉に村人たちがどよめいた。
井戸は村の暮らしの要だ。日々の食事も漁の仕度もすべてこの井戸から汲む真水に頼っている。
そしてついに、ひとりの男が僕を指を突きつけて叫んだ。
「あいつだ!あの灰頭が災いを連れてきた!」
全ての視線が僕に突き刺さる。
足の裏から冷たいものが這い上がり心臓を握りしめる。
「ああ、怯えた魂から力が流れ込んでくるよ」
「耐えて久しい潮の災いを思い出すがよい」
「これはまだ戯れでしてよ」
「ちがう……僕は何も……!」
やがて濡れた桶や器が、地面を離れてふわりと宙に浮いた。
水滴をこぼしながら舞い上がり、
次の瞬間――。
人々の体までもが一瞬浮き上がった。そして見えない手で押し潰されるように叩きつけられた。
地面が揺れている。それも激しく。
「地面が……狂ってる……!」
震える声が地鳴りにかき消される。
家々の影は伸び縮みを繰り返し、壁が音もなく崩れていく。光も形も揺らいでいる。世界がひとつの渦に飲み込まれていくようだった。
頭上に不意に影が差した。
烏の群れだ。
どこから現れたのかも分からず気づけば空一面に広がり陽の光を覆い隠している。数え切れないほどの黒い羽が渦を描いて不規則な影を投げ落とす。
羽音は地を震わせるほどに重なり合い濁った鳴き声が群れ全体からほとばしり出た。
「や、やっちまえ」
大人の一人が瓦礫を投げる。
しかしそれはどこにも届かない。
手から離れたとたん、渦に吸い込まれるように地に落ちる。
「化け物だ……!」
誰かが悲鳴をあげた。
荒くれの漁師たちがいくら怒声をあげても手足は地に縫いつけられたかのように動かない。呻き声をあげながら、ひとり、またひとりと地に伏していく。爪で土を掻き、必死に抗っても逃れられない。裂けた唇も血走った目もガルクーンの面のようだ。
その恐怖と憎しみを生んでいるのは僕自身だ。誰よりも弱く名すらない僕に皆が怯え苦しんでいる。
そして胸の奥で嬉しそうに身じろぎしていた炎は踊り出しそうなほど熱を増している。
ここにはもう居場所がない。
その悟りが胸を刺し声も涙も出ない。
潮の匂いだけが広場に残る。黒い羽が一枚、遅れて落ちた。
――翌朝、僕はもう村にはいなかった。