海の壁、砂の道
気が付いたら、波の上にいた。
波は僕を持ち上げたかと思うとたたき落とす。体がもみくちゃに揺さぶられる。
息の音と喘ぎが耳の中で大きく響く。
海に入ったのは初めてだ。泳ぎ方も知らない。こうして浮かんでいるのが不思議だった。
動くと沈みそうで身体を動かせない。
不意に頭の中で声が響く。
「どうしようもないねえ、これじゃあ」
「死にはしないでしょうけれど、助けなければ」
「まだ我らの力は乏しい…が、やむをえまい」
波のざわめきの奥に、違う世界の音が割り込んでくる。海の響きや風のうなりとも違う泥の底から泡立つような囁き。
海の底で聞いた声だ。
不意に剥き出しの背中にざらりとしたものが触れた。
砂だと気づいたときには僕はもう水辺に打ち上げられていた。身体が転がって上下も分からなくなる。
こすりつけられた砂が肌を引き裂いている。痛みでもがいていると足が砂についた。よろめきながら立ち上がる。
不意に吐き気がこみあげてきた。
唇の震えがとまらない。歯がぶつかり合う乾いた音が自分のものだと気づくまで時間がかかる。
背筋の奥から震えが走る。けれど、その奥に熱が生まれる。そして指先まで広がっていく。
いつもならもう動くこともできないはずだった。
でも、傷だらけになりながらも身体が軽い。血のめぐりが速く、そして強い。
初めて味わう感覚だった。戸惑いながらも気づけば僕は笑っていた。弱かった僕がこうして生き延びて立っている――それがたまらなく嬉しくて、怖くて、胸がざわつく。
そのとき、砂地の向こうに影が見えた。
舟のそばに群れて、網を手繰る大人たち。朝の海鳥みたいに同じ動きで肩を揺らしている。
やがてその群れのひとりが、こっちを見て声をあげた。
「おい、見ろ。海が割れてるぞ…」
「名無しのやつだ、海に捧げたんじゃ……」
ざわめきは潮のように広がり、僕の体を包んだ。胸の奥でさっきまでの熱が急に冷えていく。
高揚は、みるみる萎んでいった。
そうだ、僕は死ななければならなかった。なのに――。
いたたまれなくて、どこかへ逃げ出したかったが、大人たちの言葉が気になって辺りを見る。
――何が起こっているのか分からなかった。
海は僕の両脇で、背よりもずっと高くそそり立っている。
壁の中では海草が髪のように揺れて、ときどき魚の影がきらめいた。斜めに差し込む光が壁の中に白い帯を何本も描いている。
足もとには、濡れた道がまっすぐ浜へ続いていた。
砂は水気を吸って、踏むたびに甘い砂糖みたいな音を立てて沈む。逃げ遅れた魚が跳ねまわりながら銀色の腹を見せて息を吸おうとしている。
「おやおや、とんだ出迎えだ。礼ってものを教えてやらないといけないねえ」
肩口をかすめるように冷気が流れた。海風よりも鋭く、骨の奥まで凍えるようだった。
同時に、鼻腔の奥で潮の匂いが濃くなった。周りが生臭い海底の匂いに満ちていた。
振り返っても誰もいないのは分かっていた。
それなのに、声は肩のすぐ後ろで繰り返される。
そのたびに冷たい指で骨をなぞられている気分がする。
――僕はもう普通の人間じゃない。
生きて戻ってきた代わりに、何かを連れてきてしまったのだ。
浜へ向かって歩くあいだに、大人たちは網を放り出し、砂をはね散らして村へ駆けていった。
やっと乾いた砂を踏んだ瞬間、水の壁がぐらりと傾き、左右から海がぶつかり合って轟いた。水しぶきが背中に降りかかってくる。
気づけば、心は家に向かっていた。
焚きつけの乾いた煙、土間の湿り、炉端に置かれた匙の熱――次々と浮かぶのに、そこに在るはずの人だけがいない。
「母」という音だけが残って、その中身は水で洗われた貝殻みたいに空っぽだった。
髪に触れる手の重みも、呼ばれたときの胸のひびきも、触れる前からほどけていく。
家に戻ればまだ何かをつかめるかもしれない。
僕を救うために払われたものへの、せめてもの報いとして――そして、空っぽになった「母」のまわりに、少しずつ輪郭を戻すために。
家に戻ろう。これからのことは、そのあとで決めればいい。