地図なき旅のはじまり
どうぞよろしくお願いいたします。
青灰色の澄んだ光が首都モントリュスに降りはじめた。
鐘が一つ、長く低く呻くように響いてくる。
朝霧はまだ路地に立ち込め、街は夢の続きを見ていた。
肩を寄せ合うように並んでいる重々しい石の建物の合間からは、いくつもの尖塔が空へと突き出していた。
中でも、東門を守る塔はひときわ高くそびえ立っている。
戦の家──モントリュスを守る軍人たちの本営である。
その尖塔の屋根の上に男が一人寝転んでいた。
広い肩と引き締まった身体。
そこには剣を思わせる静かな鋭さがあった。
肩から斜めに走る深緑の佩巾が風に揺れる。
何を見るともなくサンティアの花の色に輝き始めた雲の端を目で辿っている。
思索とも倦みにも見える沈黙は、しわがれた大声に破られた。
「これで三度目のお召しですぞ、団長どの。
聖ヤンナよろしく己が首を抱えて歩く覚悟なら、お止めはしませんが」
屋根の下の物見台から懸命に身を乗り出しているのは初老の男。
短軀ながらも体つきはたくましい。
腰からは黄の佩巾が揺れている。
白髪まじりの眉の奥には男への忠誠と不安が渦を巻いていた。
「……ねえザフ」
男は寝ころんだまま巻いた皮を持ち上げた。
昇りかけている日に広げると、ぼんやりと目を走らせる。
「聖王様から貰った地図さ、呪いの書に見えてきたよ」
まるで雨でも降りそうだと言わんばかりの口ぶりだ。
ザフは肩をすくめてみせる。
「そうでしょうとも。
厄介ごとにかけてはレオン団長どのは本当にうってつけですから」
皮に記されていたのは記号、そして聖句に似た断片的な文字。
地図に見えなくもない。
だが戯れ書き、あるいは信仰を書きなぐったものとも見える。
──謁見の間。
レオンは王の前でこの地図が手渡されたことを思い出す。
ルノワ・ド・カヴェーヌ。
信仰に身を焦がすモントリュスの若き王。
そしてレオンにとっては遠いながらも血を分けた一族でもある。
ルノワ王の目はまっすぐで曇りなく澄んでいた。
疑いも迷いもない。
絶対の真理があると信じる者の目。
「この国を手放してでも自らの目で確かめに行きたいのです。
だがそれは叶いません。
だからこそあなたに託すのです、レオン様。
この地図が導くその地に御跡はあります。
どうか──それを、この地にもたらしてください」
「くじ運の悪さはお互いだね。
“行けない”って聞けて安心したよ」
そのときは、若い王の真剣な目を見て、つい意気に感じたのだ。
だが今となっては──ただ気が重い。
なにしろ遠い。
あてどもない。
かろうじて読み解けた範囲では──
「塩の谷」は、ヴァレンティア諸王国連合のはるか北西。
クァルザルと呼ばれる山脈を越え、さらにその向こうにあるらしい。
つまり、大陸を横断する旅になる。
少なく見積もっても、八旬──六十四日はかかる。
母なるルデール河に沿って北上し、
やがて「祝福された高地」と記された地へ入る。
森を抜け、乾いた丘陵を越え、
ようやくクァルザルの山々が現れる。
断崖と氷雪。
冷たく尖った石の壁が空を裂くように連なっているという。
ここまででも、すでに骨の折れる旅だ。
だが──本当に厄介なのは、その先だった。
地図は沈黙し刻まれた謎めいた言葉だけが残されている。
それを拾い集めるようにして進むしかない。
「ま、約束しちゃったしね。胸を張って踏み出しますか」
レオンはゆるく笑った。
そして身を起こす。
眠っていた獣が立ち上がるような、無駄のない静かな動き。
尖塔の縁に立ち、見下ろす。
石畳は朝露に濡れて光っていた。
そこに塔の影が長く落ちる。
その頂からは自分の影が突き出していた。
まるで、巨人がこの街に降り立ったかのようだった。
レオンは、ふいに虚空へ身体を投げ出した。
塔の外壁をかすめる風で衣がはらむ。
そのまま、塔の壁をかすめて落ち──
片手で庇をつかみ身体をひねると滑るように物見台に飛び込んだ。
すると、ザフことザファル・ヴォルクスの隣にもう一人の男が立っていた。