第8話 嘆きの人形と甘い香り
トルマンの店は、商業区の一角にある、こぢんまりとした構えの店だった。
『トルマン魔道具店』と書かれた看板が、夜の闇に沈んでいる。レオは「俺は外で待ってるからな!」と宣言し、通りを挟んだ向かいの建物の影に引っ込んでしまった。まったく、頼りにならない奴だ。
「こちらです、カイン殿」
トルマンは震える手で店の鍵を開け、俺を中へと招き入れた。
店の中は、様々な魔道具が所狭しと並べられていた。光る石、ひとりでに動く羽ペン、天候を予測する水晶玉。だが、それらの魔道具の輝きも、店全体を覆う重苦しい雰囲気の前では色褪せて見えた。
ひんやりとした空気が、肌を撫でる。
そして、微かに甘い香りがした。花の蜜のような、それでいてどこか人工的な、まとわりつくような甘い香り。
「……この匂いは?」
「ああ、それが……問題の人形が発する香りです。最初は微かだったのですが、日を追うごとに強くなってきて……。この香りを嗅いでいると、なんだか悲しい気持ちになって、涙が止まらなくなるのです」
トルマンは顔をしかめながら説明した。
なるほど、精神に作用するタイプの呪いか。
店の奥、ひときわ厳重なガラスケースの中に、その人形はあった。
陶器でできた、美しい少女の人形だ。ドレスをまとい、ガラスの瞳は、まるで生きているかのように潤んで見える。一見すると、ただの高価なアンティークドールだ。
だが、俺の目には、その人形から立ち上る、黒い靄のような呪いのオーラが見えていた。そして、あの甘い香りは、間違いなくこの人形から発せられている。
「これが、『嘆きの人形』か」
「はい。元々は、とある貴族の家に伝わっていたものだそうで……。持ち主の悲しみを吸い取ってくれる、という触れ込みだったのですが……」
どうやら、悲しみを吸い取りすぎた結果、人形自体が呪いの塊と化してしまったらしい。吸いきれなくなった負の感情を、今度は周囲に撒き散らしている、というわけだ。
「うっ……うぅ……」
隣で、トルマンが急に泣き始めた。
「おい、しっかりしろ」
「す、すみません……。この部屋にいるだけで、亡くなった妻のことを思い出してしまって……うっ、うっ……会いたいよ、マチルダ……」
どうやら、呪いの効果は本物らしい。トルマンをこのままにしておくのは危険だ。
「あんたは外に出ててくれ。ここは俺がなんとかする」
「は、はい……。申し訳ありません。カイン殿、どうか、お気をつけて……」
トルマンは涙を拭いながら、足早に店から出ていった。
一人きりになった店内で、俺は改めて『嘆きの人形』と向き合った。
キィ……。
ガラスケースの扉が、ひとりでに開いた。
そして、人形のガラスの瞳が、ゆっくりと俺に向けられる。
『……かなしい……かなしい……あなたも、かなしいの?』
幼い少女の声が、直接頭の中に響いてきた。
同時に、甘い香りが一段と強くなる。俺の記憶の底から、忘れていたはずの悲しい出来事が、次々と呼び起こされようとする。駆け出しの頃、守りきれなかった依頼人の顔。飢えて、盗みを働いた日の惨めさ。俺を『骨拾い』と蔑んだ、傭兵仲間たちの顔。
「……くだらんな」
俺は、鼻で笑い飛ばした。
俺の人生は、確かに悲しみや惨めさに満ちていたかもしれない。だが、そんな感情に浸っている暇があったら、俺はパンを一つでも多く手に入れるために剣を振るう。過去を嘆くより、今をどう生きるかの方がよっぽど重要だ。
俺が呪いに屈しないと分かると、人形の雰囲気が変わった。
甘い香りが一転して、焦げ付くような悪意の匂いに変わる。
『……どうして、かなしまないの? ……かなしめ……かなしめ……! みんな、みんな、不幸になればいい!!』
人形の目が赤く光る。
途端に、店中の商品がガタガタと激しく揺れ始めた。ポルターガイストだ。いくつかの小瓶が棚から飛び、俺に向かって飛んでくる。
俺はそれを軽く身をかがめて避けた。小瓶は背後の壁に激突し粉々に砕け散る。
「物を壊すな。店主が悲しむだろ」
『うるさい! うるさい! うるさーい!』
人形が金切り声を上げると、呪いの力がさらに増した。
だが、その程度では俺には通じない。俺の精神は、数多のアンデッドとの戦いの中で、とっくに鋼のように鍛え上げられている。
俺は腰の吸血刀をゆっくりと抜いた。
漆黒の刀身が現れると、店の空気がさらに張り詰める。吸血刀は、目の前にある呪いの塊を、ご馳走だと認識しているようだった。刀が喜びで震えている。
「さて、どうしてくれようか。お前、血は流れるのか?」
『ヒッ……!? な、なに……その、禍々しい剣は……』
人形が、初めて怯えを見せた。
吸血刀から放たれる、純粋な「飢え」と「渇き」のオーラは、人形が撒き散らす「悲しみ」の呪いなど、簡単に凌駕してしまうらしい。悪をもって悪を制す、といったところか。
「なあに、心配するな。破壊しろとは言われているが、あんた、見た目は綺麗だからな。壊すのは少し忍びない。だから……」
俺は一瞬で人形との間合いを詰めると、吸血刀の切っ先を、その胸の中心に突き立てた。
陶器の体を貫く、ゴリッという硬い感触。
「……お前の呪い、こいつに全部吸わせてやる」
俺がそう告げると、吸血刀が歓喜の脈動を始めた。
そして、人形が蓄積してきた長年の悲しみと憎悪の呪いが、刀身へと凄まじい勢いで流れ込んでいくのが分かった。黒い靄が渦を巻いて吸血刀に吸い込まれていく。
『いやぁぁぁぁぁっ!! やめて! 私の悲しみが、なくなっちゃうぅぅぅっ!!』
人形は悲鳴を上げた。悲しみがなくなることを恐れている。なんと歪んだ存在だろうか。
やがて、全ての呪いを吸い尽くしたのか、人形から立ち上っていた黒い靄は完全に消え失せた。甘い香りも、悪意の匂いも、もうしない。後に残ったのは、胸に穴が空いた、ただの美しい陶器の人形だけだった。
そして、俺の吸血刀は。
呪いという、極上の「食事」を終えた刀は、その黒さをさらに深め、刀身から放たれる妖気も一段と強力になっていた。まるで、極上の酒を味わったかのように、満足げな静けさを保っている。
「よし、依頼完了だな」
俺は刀を鞘に納め、店の外に出た。
心配そうに待っていたトルマンと、退屈そうにしていたレオが、俺の姿を見て駆け寄ってくる。
「カイン殿! ご無事で……! あの、人形は……?」
「ああ、無力化しておいた。もう呪いを発することはないだろう。ただの人形に戻ったはずだ」
「おお……! ありがとうございます、ありがとうございます!」
トルマンは俺の手に金貨20枚の入った革袋を握らせると、何度も何度も頭を下げた。
こうして俺は、またしても大金を手にした。
その帰り道。
レオが、呆れたように、しかしどこか感心したように言った。
「お前、本当に『そっち系』の専門家になっちまったな」
「専門家、ね。まあ、金になるなら何でもいい」
俺は肩をすくめて答えた。
だが、心のどこかで、この新しい「評判」が、悪いものではないと感じ始めていた。
『骨拾い』と呼ばれていた頃とは違う。人々から必要とされ、感謝される。それは、傭兵稼業ではなかなか味わえない、奇妙で温かい感覚だった。
我が家へと帰り着くと、そこにはいつもの静寂があった。
だが、その静寂はもはや不気味なものではない。俺を迎え入れてくれる、安らぎの静けさだ。
「ただいま」
俺は、誰もいないはずの家に向かって、自然とそう呟いていた。
その時、屋敷の奥から、ふわりと、心地よい風が吹いてきたような気がした。
まるで、家が「おかえり」と応えてくれたかのように。